③流されるのは悪手だというのに

「ああ、縁談」

「しかもそれを僕に勧める様に上から命じられた。僕には断る術はない。理由が無い。彼女は未亡人で、僕は妻帯者だ」

「そうですね」

「だけど僕はそこで戸惑った。そしてこの縁談が整って欲しいと――思う一方で断って欲しい、とも思っていた。自分が何故そう思うかも解らなかった。無論惹かれていたからだ。そんなことは後になれば解る。と言うか、その時も解ってはいた。認めたくなかっただけだ。認めてはいけないと思ったからだ」

「勧めてはいたと聞きました」

「そう、僕はカイエさんに当初そう勧めた。実際そうあれば、彼女は今までよりずっと楽な暮らしも、子供の将来にも不安が無いはずだ。そして何より、このもやもやとした気持ちも断ち切ることができる。だからこそ、僕は勧めた。勧めたんだ!」

「でも、断られたんですね」

「そうだ」


 義兄は苦しそうに肘掛けを掴む。


「喫茶室の個室に招いて話を切り出した。すると彼女は当初、再婚する気が無い、と言われた。だからともかく僕はこの縁談の良さをひたすら並べた。僕が考え得る条件の良さを。だけどそんな僕を見据える彼女の視線が、どんどん沈んだものになっていくんだ。僕は耐えきれなくなり、彼女からだんだん視線を逸らしだした」


 そう、そして彼女は問うのだ。


「さすがに僕が条件として出すものも出尽くした、と言う時を見計らって彼女は落ち着いた声で訊ねてきたんだ。『どうしてそこまで勧めてくれるのか、これだけ拒んでいるのに』と。そこで僕はつい、ぽろっと漏らしてしまった。自分の揺れている気持ちに蹴りをつけて欲しいから、という意味のことを!」

「それは悪手ですね」


 先輩がそこで口を挟んだ。


「ああそうだ悪手だよ。だけどその時の僕にはそれが最後の口にできる理由だったんだ」


 いやそれは口にしてはならない理由だろう。

 ――とはここでは口を差し挟まなかった。

 先輩が私の足を軽く蹴ったのだ。


「そうしたら彼女は大きくうるんだ目を見開き、軽く頬を上気させた。僕はこれまでだ、とばかりに自分がどんどん彼女に惹かれていってしまっている理由を口にしてしまったんだ……」

「その後、そのままくちづけまでしてしまった、と聞いてますが」

「……ああそうだ。自分でも情けない。彼女へ惹かれて行く思いを口にしているうちに、どんどんその言葉自体に僕の頭はだんだん舞い上がっていってね。彼女は彼女でそれを真剣に聞いてくれている。ついつい近付いてしまう。そして手を取ってしまい――」


 そこで義兄は言葉を切った。


「だがその時はそれだけだ。こんなところでは、と彼女が僕を抑えてくれた。ではどうしたらいい? と問いかけたら、またそのうち、という返事が来た」

「そのうち、ですか」

「そうだ。そのうち。お互いに時間が取れて、トリールだの向こうの子守だのが疑問に思わない様なそんな時間と、場所」

「結構散財なさってたと聞きましたけど」

「仕方ないだろう? 確かに帝都にはただ行為をするだけの場所だってある。だけど彼女をそんなところに連れて行けるか? 少なくとも僕は嫌だった」

「そういうところ、がどういう感じか知ってただね」

「そりゃあそうでしょう、誰だって大学まで行った時には何かとそういう場所に先輩だの友達だのと連れだって行くことがあるってものでしょう、貴方だってそうじゃないですか?」

「あー…… 俺はたぶんその意味では、食われたことはあっても食ったこたないな。この歳になっても」

「は?」

「まあそういうところに連れていかれたことはあるさ。だけどその時たまたま読み続けたい本があってな、読んでるままでもいいかと言ったら、敵娼が呆れちまってな。それでも金は払っているんだから、と手でやってくれたが、まあ突っ込んだこたぁないな」

「そ、そんな話まで」


 義兄は私の方を向いた。


「何ですか一体。そもそもそういう露骨な話を振ったのは、お義兄様、貴方です。私は先輩のそういう話は聞いてますのでご心配なく。病気を拾ったり子種を蒔いてこない限りは」

「病気を拾うのも子種を蒔くのも女に入れてしまうからだから、俺は入れない。単純な話だろう?」

「単純…… と言えば単純ですが……」

「まあ俺がそういう奴と知ったら大学の仲間も誘わなくなったがね。誘った自分達の評判がそういうところで落ちるとさ」

「ああだから自分に自信がある人というのは!」


 義兄は突然頭をかきむしった。

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