第5話

 あれから妻の様子がおかしくなった。

 それは、私も同じだ。


 妻は朝、目が覚めると決まって、霞の向こうからあの人たちがやってくると言った。


 どうやら毎夜、車で見た光景を夢で見るらしい。


 その恐怖からなのか、日常生活もままならなくなった。

 仕事は休職し、今は家の中に閉じこもっている。


 窓にガムテープで目張りをして、霞が入ってこないようにしている。

 私はそんなことをしても無駄だと言うが、一向に聞かない。


 私の方も正直、参っている。


 体が徐々に重くなっているのだ。

 視界も白く霞んでいく。


 まるで、あのときの霞が体に入り込んだようだった。


 仕事は失敗続きで、小言を言われる日々。

 家に帰れば、妻の異常な行動に振り回され、しまいにはどうしてわかってくれないのと怒りをぶつけられる。


 全てを同時にこなすことができなくなっていた。


 仕方なく、私も休職することにして、まずは妻の様子を見ることになる。

 しかし、始終一緒にいたからと言って回復に向かうわけではない。


 むしろ、妻の異常な行動を毎度目にすることになり、むしろ気が滅入ることが増えた。


 私は原因を探る必要があると考えた。


「あの山に行ってくる」

「正気? またアイツらに会うだけよ!」


「でも、原因がわからないと対処もできないだろ?」

「そんなこと、どうでもいい! 私の話を聞いてよ!」


 私は妻を家に置いて、しばしば山に行った。




 妻はどんどん普通から離れた生活を送るようになった。


 今ではガスマスクのようなものをずっとかぶっている。


 私の症状も良くならない。


 体が重く、今では山に行くこともできない。

 それどころか、買い出しに行くこともできず、食事を宅配に頼るようになった。


「ねえ、後はどこを塞げばいいと思う?」

 妻が聞いてくる。


 家中を目張りして、トイレや風呂に行くのも一苦労だった。


「なあ、いい加減にしてくれないか」

 私の視界はほとんど真っ白だ。


「寝る時はクローゼットの中にしようと思うのだけど、どう?」


 私の体は重く、椅子に沈み込んでいくようだった。


 ふと、気づくと妻の声が聞こえなくなった。

 どうやら、耳にも症状が出てきたらしい。


 今や外の世界と隔絶された霞の中にいた。


 すべてのわずらわしさから解き放たれたような幸福感に浸る。


 こんな思いは、いつ以来だろう。


 そんな感覚を満喫していると、徐々に視界が開けていった。


 体もどんどん軽くなっていく。


 目の前には見慣れたリビングの天井があった。


 今までの霞がかかった世界は何だったのだろう。

 霞の外に出ると、こうも世界には幸福感が満ちていた。


 下を見ると、妻がいた。


 私は妻に馬乗りになって、妻の首を締めていた。


 妻のしているガスマスクは曇っていて、表情はわからない。

 一応、妻の手首に指をあて、脈を取る。


 ぴくりとも反応しない。


「せっかく色々考えたのに」


 私はがっかりした。


 仕方なく、自分の部屋に行く。


 押入れにあった荷物をリビングに運ぶ。


 サバイバルナイフや荒縄などは、もう使うことはないだろう。


 大きなバッグとネットを取り出した。


 まさか、こんな形で殺してしまうとは。

 ある意味、霞によって操られたということなのか。


 この女は以前、あの山を訪れたと言っていた。

 おそらく、祠にいたずらでもしたのだろう。


 祀られていた村人たちが怒って仕返しに来たのだ。

 そして、隣にいた私にこの女を殺させたというわけだ。


 復讐代行みたいなものか?


 少し笑える。


 警察にこの話をしても、さすがに信じてくれないだろう。

 私はちゃんと霞の重みを感じて、視界は白かったのに。


 女をネットでくるみ、更にバッグに詰める。


 さすがに重い。


 先にダイエットをさせるべきだったか。


 しかし、ぬかりはない。


 自室にあった折りたたみの台車を持ってきて乗せる。

 ひとまず移動はできそうだ。


 家を出て、車のトランクに女の入ったバッグを入れる。

 行き先はもちろん、あの山だ。


 アクセルを踏んで、軽やかな気持ちで公道をかっ飛ばす。


 もはや私を阻む霞は存在しない。


 煩わしい女も消えた。


 中学の頃、私は幼なじみの彼女と付き合っていた。

 しかし、いじめが発覚した後は疎遠になってしまった。


 そのいじめの主犯格があの女だった。


 あの女と再会したとき、私は彼女のことを聞いてみた。


 誰それ? と女は言った。


 私はその後、彼女の自殺を知る。


 とりあえず、この女を殺した方がいい。

 そう思って、形だけの結婚をした。


 その方が殺す機会が増える。


 まあ、今となっては少し後悔もしている。


 真っ先に疑われるのは夫である自分だ。


 しかし、警察だって馬鹿じゃない。

 どんな手を使っても、いつかは発覚するだろう。


 要は時間が稼げれば良い。


 初めてあの霞を見た場所までやって来た。


 朝になっていた。


 トランクからバッグを出して台車に乗せる。

 あの時、見た道を進む。


 この道から霞が出てきたように思えた。


 実際、そういうことなのだろう。


 道の先には祠があった。

 その先には池がある。


 池には霞ではなく、朝もやがかかっていた。


 女の死体は、村外れの一家が沈められたという、この池に沈める。

 そのために何度も下見をしていた。


 手間はかかったが、これでやっと自分の問題に取りかかれる。


 私には他に考えることがある。


 私は私のことが許せない。


 彼女がいじめられていたあの頃、彼女と距離を取った自分を殺してやりたい。




 了

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重たい霞 月井 忠 @TKTDS

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