文鳥
夏目漱石/カクヨム近代文学館
十月
文鳥は三重吉の小説に出てくるくらいだから奇麗な鳥に違いなかろうと思って、じゃ買ってくれたまえと頼んだ。ところが三重吉はぜひお飼いなさいと、同じようなことを繰り返している。うむ買うよ買うよとやはり頰杖を突いたままで、むにゃむにゃ言ってるうちに三重吉は黙ってしまった。おおかた頰杖に愛想を尽かしたんだろうと、この時はじめて気が付いた。
すると三分ばかりして、今度は
それからぜんたいどこで買うのかと聞いてみると、なにどこの鳥屋にでもありますと、実に平凡な答えをした。籠はと聞き返すと、籠ですか、籠はそのなんですよ、なにどこにかあるでしょう、とまるで雲を
なにしろ言いだしたものに責任を負わせるのは当然のことだから、さっそく万事を三重吉に依頼することにした。すると、すぐ金を出せと言う。金はたしかに出した。三重吉はどこで買ったか、
かようにして金はたしかに三重吉の手に落ちた。しかし鳥と籠とは容易にやってこない。
そのうち秋が小春になった。三重吉はたびたび来る。よく女の話などをして帰ってゆく。文鳥と籠の講釈はまったく出ない。
三重吉の小説によると、文鳥は
そのうち霜が降りだした。自分は毎日伽藍のような書斎に、寒い顔を片付けてみたり、取り乱してみたり、頰杖を突いたり
ところへ三重吉が門口から威勢よくはいってきた。時は
三重吉は大得意である。まあ御覧なさいと言う。豊隆その
なるほど
この漆はね、先生、
なるほど奇麗だ。次の間へ籠を据えて四尺ばかりこっちから見ると少しも動かない。薄暗い中に
寒いだろうねと聞いてみると、そのために箱を作ったんだと言う。夜になればこの箱に入れてやるんだと言う。籠が二つあるのはどうするんだと聞くと、この粗末なほうへ入れて時々行水を使わせるのだと言う。これは少し手数が掛かるなと思っていると、それから
それをはいはい引き受けると、今度は三重吉が
やがて三重吉は鳥籠を丁寧に箱の中へ入れて、縁側へ持ち出して、ここへ置きますからと言って帰った。自分は伽藍のような書斎の
翌朝目が
文鳥の目は
自分は静かに鳥籠を箱の上に据えた。文鳥はぱっと留まり木をはなれた。そうしてまた留まり木に乗った。留まり木は二本ある。黒味がかった青軸をほどよき距離に橋と渡して横に並べた。その一本を軽く踏まえた足を見るといかにも
自分は顔を洗いに
三重吉は用意周到な男で、昨夕丁寧に餌を遣る時の心得を説明していった。その説によると、むやみに籠の戸を明けると文鳥が逃げ出してしまう。だから右の手で籠の戸を明けながら、左の手をその下へ
自分は
大きな手をそろそろ籠の中へ入れた。すると文鳥は急に
そのころは日課として小説を書いている時分であった。飯と飯のあいだはたいてい机に向かって筆を握っていた。静かな時は自分で紙の上を走るペンの音を聞くことができた。伽藍のような書斎へは
筆を
自分はまた籠の
文鳥はつと
嘴の色を見ると紫を薄く混ぜた
自分はそっと書斎へ帰って淋しくペンを紙の上に走らしていた。縁側では文鳥がちちと鳴く。おりおりは千代千代とも鳴く。外では木枯らしが吹いていた。
夕方には文鳥が水を飲むところを見た。細い足を壼の縁へ
明くる日もまた気の毒なことに
昔美しい女を知っていた。この女が机に
餌壺にはまだ粟が八分どおりはいっている。しかし殻もだいぶ混じっていた。水入れには粟の殻が一面に浮いて、
その日は一日淋しいペンの音を聞いて暮らした。そのあいだにはおりおり千代千代という声も聞こえた。文鳥も淋しいから鳴くのではなかろうかと考えた。しかし縁側へ出て見ると、二本の留まり木の間を、あっちへ飛んだり、こっちへ飛んだり、絶え間なく行きつ戻りつしている。少しも不平らしい様子はなかった。
夜は箱へ入れた。明くる朝目が覚めると、外は白い霜だ。文鳥も目が覚めているだろうが、なかなか起きる気にならない。
三重吉の説によると、馴れるに従って、文鳥が人の顔を見て鳴くようになるんだそうだ。現に三重吉の飼っていた文鳥は、三重吉が
次の朝はまた
粟はまだある。水もまだある。文鳥は満足している。自分は粟も水も易えずに書斎に引っ込んだ。
昼過ぎまた縁側へ出た。食後の運動かたがた、五、六間の回り縁を、あるきながら書見するつもりであった。ところが出て見ると粟がもう七分がた尽きている。水もまったく濁ってしまった。書物を縁側へ
次の日もまた遅く起きた。しかも顔を洗って飯を食うまでは縁側を覗かなかった。書斎に帰ってから、あるいは
書斎の中では相変わらずペンの音がさらさらする。書きかけた小説はだいぶんはかどった。指の先が冷たい。
自分は不思議に思った。文鳥について万事を説明した三重吉もこのことだけは抜いたとみえる。自分が炭取りに炭を入れて帰った時、文鳥の足はまだ一本であった。しばらく寒い縁側に立って眺めていたが、文鳥は動く
小説はしだいに忙しくなる。朝は依然として寝坊をする。一度
それでも縁側へ出る時は、必ず籠の前へ立ち留まって文鳥の様子を見た。たいていは狭い籠を苦にもしないで、二本の留まり木を満足そうに往復していた。天気の好い時は薄い日を硝子越しに浴びて、しきりに鳴き立てていた。しかし三重吉の言ったように、自分の顔を見てことさらに鳴く気色はさらになかった。
自分の指からじかに餌を食うなどということはむろんなかった。おりおり
ある日のこと、書斎で例のごとくペンの音を立てて
水はちょうど易え立てであった。文鳥は軽い足を水入れの真中に胸毛まで浸して、時々は白い翼を左右にひろげながら、こころもち水入れの中にしゃがむように腹を
自分は急に易え籠を取ってきた。そうして文鳥をこのほうへ移した。それから
昔紫の帯上げでいたずらをした女が、座敷で仕事をしていた時、裏二階から
翌日文鳥は例のごとく元気よく囀っていた。それからは時々寒い
籠は箱の上から落ちている。そうして横に倒れている。水入れも餌壺も引っ繰り返っている。粟は一面に縁側に散らばっている。留まり木は抜け出している。文鳥はしのびやかに鳥籠の
翌日文鳥がまた鳴かなくなった。留まり木を
帰ったのは午後三時ごろである。玄関へ
餌壺には粟の殻ばかり
自分は冬の日に色づいた朱の台を眺めた。
自分はこごんで両手に鳥籠を
十六になる小女が、はいと言って
自分は机の方へ向き直った。そうして三重吉へ
自分はこれを
しばらくすると裏庭で、子供が文鳥を埋めるんだ埋めるんだと騒いでいる。
翌日はなんだか頭が重いので、十時ごろになってようやく起きた。顔を洗いながら裏庭を見ると、
午後三重吉から返事がきた。文鳥は
(明治四一・六・一三─二一)
文鳥 夏目漱石/カクヨム近代文学館 @Kotenbu_official
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