第四章:半月のかぐや姫

「じゃ、おやすみなさい」 

 食後に明日の学校と予備校の予習、入浴まで済ませ、ターコイズブルーのパジャマにミント色のカーディガン、オリーブ色のスリッパを着けた私は、ソファに腰掛けて古い白黒の洋画にどこか虚ろな目で見入っている父に告げてリビングを辞す。

「おやすみ」

 穏やかに返す声を背にドアを開けると、さっと冷気が押し寄せた。

 今日は母も夜勤だから帰ってこない。四人で暮らすはずの家には半分の人数しかいないのだ。

 階段を登り切ったところで目の前には二つのドアが並んで待ち構えている。

 右が若葉、左が私の部屋のドアだ。

 一瞬の躊躇の後、オリーブ色のスリッパの足は右のドアに吸い寄せられた。

――ガチャリ。

 ドアを開けると、きっと真っ暗だろうという予想に反してうっすら藍色のヴェールを掛けたような、部屋の中に置かれた物の輪郭は明らかな薄暗がりが広がっていた。

 部屋の遮光カーテンが閉められておらず、レースカーテンを通して月明かりが流れ込んでいるからだ。

 そういえば、今日は私の部屋も帰ってきた時に遮光カーテンが開いたままだった。

 普段のこの曜日は一番先に帰ってきて家中のカーテンを閉めるお父さんが閉め忘れてずっとリビングでアルバムを観ていたからだ。

 本来の主がいない部屋を群青の幽暗の中で見回す。

「可愛い部屋だねえ」

 机や本棚、ベッドといった基本設備は私と一緒だ。

 だが、こちらの机に置かれたスタンドライトはすずらん型のシェードが付いたロマンティックなタイプだ。

 棚の本にはいずれも優しい草花模様のブックカバーが掛けられている(中身の本は英語の百科事典とか応用科学の理論書とか私の書棚にあるそれよりずっと高度な内容だけれど)。

 床にはパステルカラーの黄緑のカーペットにベビーピンクの丸いフワフワしたフロアマット。

 壁にはミレイの「盲目の少女」のポスターが貼られている。

――この目の見えない女の子はとても綺麗で強い子だから好き。

 二つの虹が掛かった田園を背にして隣の金髪の幼い妹を守るようにして路傍に座すめしいた栗色の髪の少女を描いた、そんないかにも抒情的な絵を双子の姉は気に入って飾っているのだ。妙な自意識がないからこそ出来る、直球の可愛らしさ。

 ごく実用的なスタンドライトに本をそのまま並べた書棚、床には鮮やかなセルリアンブルーのカーペット一枚を引き、壁にブリューゲルの「バベルの塔」のポスターを貼った、「男の子みたい」と評される私の部屋とは何という違いだろう。

 だが、何よりも決定的に異なるのは、このベッドサイドテーブルに飾られた二体の人形だ。

 お揃いの若草色の着物にプラスチックの桃の花の枝を手にした黒髪のリカちゃん人形。

 これはあの七五三のお参りの日に二人で神社でもらったリカちゃん人形だ。

 私が人形遊びに興味を無くした後も双子の姉はずっと大事にして季節ごとに新しい服を作っては着せていた。

 これは雛祭りに備えた衣装だ。若葉が入院したのがそのくらいの時期だから。

 黒髪を垂らしお揃いの着物に飾りを付けた二体の人形は、月明かりの下で寄り添っている。

「かぐや姫みたい」

 ふっと独り言と一緒に苦い笑いが漏れる。

 五年前、小学六年生の今頃の時期にあった学芸会。私と若葉は「竹取物語」のかぐや姫を演じた。

 正確には同学年の三クラスで場面ごとに分割して演じる中で、一組の女の子が竹の節から出てきて大きくなるまでのかぐや姫、二組の私が男たちからの求婚を退ける場面のかぐや姫、そして三組の若葉が月に帰っていくまでのかぐや姫をそれぞれ担当したのだ。

 一組のかぐや姫は成績が良く読み方が巧いので選ばれたが顔形などはごく普通の子だったので、二組の私が髪を垂らし着物に扇子を手にした姿で出て来た瞬間、客席がホーッと軽く湧いたのを覚えている。

 しかし、それまでの素直なかぐや姫から一転して、私の演じたパートのかぐや姫は正直、イヤな女だ。

“まあ、これは偽物ですわ。ほうら、火にべたらすぐ燃え尽きてしまった”

“嘘いつわりをおっしゃる方とは結婚出来ません”

 困惑している養父母に告げる。

“私はいくら身分が高くても心の通じ合わない人と一緒になるのは嫌です” 

 誇らかに言い放って舞台が暗転した瞬間、客席からは一組のかぐや姫の二倍くらいの拍手が来た。

 これで上手くやれた。今まで出た子の中では私が一番良く出来たはずだ。

 そう思った。

 そして、舞台はまた明るくなって私と瓜二つで同じ衣装を着けた――恐らくは同一人物と誤解する客も多いであろう――双子の片割れが現れる。

“おじいさんおばあさん、私は本当は月の国の者です。次の満月の晩に月から迎えが来て帰らねばなりません”

 舞台の上の若葉が本当にはらはらと涙をこぼしながら語ると、客席はシンとした。

“ここにいたい”

 それは耳にする側の胸を痛ませる声であった。

“お前はうちの子だ”

“私たちのたった一人の大切な娘ですよ”

“屋敷を警備で固めて、月の使いなど打ち払え!”

 まるで若葉に引っ張られたように、というより本当に若葉がかぐや姫だと信じ込んだかのように三組のキャストは前の二クラスより総じて役者は上であった。

 私は一人でいくら巧くやれてもそこで自己完結して、相手や周りの良さまで引き出すような力はなかった。

“おじいさんおばあさん、さようなら”

 舞台が暗転して若葉が姿を消すと、客席は水を打ったように静まり返った。

 舞台が再び明るくなり、三組のおじいさんおばあさん役の二人が切々と語る。

“不老不死の薬などわしは要らぬ。この壺は燃やしておくれ”

“せめてあの月に行ってもう一度あの子に逢えたら”

“ああ、山のいただきから薬の壺を焼いた煙が昇っていくぞ”

“あの子もきっと月から見ていてくれるわね”

 幕が降りると、割れるような拍手が送られた。

“あれ、双子なんだ”

“そっくりだね”

 降りた幕の前で全クラスのキャストが並ぶと、予想通りの言葉が客席のあちこちから聞こえてきた。

 その時に撮られた写真を見ると、一組の素朴に笑ったかぐや姫と三組の溢れるような笑顔のかぐや姫に挟まれた私は気怠そうに冷たい目を見開いて映っている。

 それは周囲への見下しからではなく自分が出来の悪いコピー人形のように思えたからこその表情だ。

「若葉」

 レースのとばり越しに見える西の空に沈み掛けた上弦の月に向かってこの部屋の主の名を呟く。

 あなたが居なくなってしまったら、どうすればいいんだろう。

 常に私を上回っていたあなたが消えれば、今度は本当にトップになれるかもしれない。今だってあなたが参加していない試験ではそうだ。

 だが、あなたを知る人は私を目にする度に

「あの子ならもっと良くやった」

「もっと美しかった」

「ずっと優しかった」

と思うだろう。

 仮に、あなたを知らない人から称賛されたとして、それで今、この胸に感じている虚しさが埋まるだろうか。

 半分に切られた形をした象牙色の月が滲む。

 きっと、私はずっと鏡に映る自分の姿を目にするたびに生き写しでもっと輝かしかったあなたを思い出すんだ。

 疲弊した息を吐いて双子の姉が使っていた隣の部屋のベッドと全く同じ型のそれに寝転がる。

 自分のベッドに横たわった時と同じくふわりとラヴェンダーじみた洗剤の匂いが微かに鼻先を通り過ぎた。

 だが、自分のベッドに寝転がった時より柔らかに体が吸い込まれていくのを感じる。

 若葉が三月に入院したころのままになっているけれど、明らかに私のベッドよりも毛布やタオルケットが重層的に積み重ねてあるからだ。双子の姉本人の体が薄くなっていったのと反比例するように。

――ヒュイ、リリリリリ……。

 シンと静まり返った部屋の中に蟋蟀こおろぎの鳴く声が遠く聞こえてきた。

 冷えた秋の夜風の吹くくさむらで同じ親の産んだ卵から生まれた兄弟たちが番になるべきめすを求めて鳴いているのだろうか。

 こちらの耳には飽くまで蟋蟀という種の合唱であって、個々の鳴き声などは聴き分けられないけれど。

 そろそろ自分の部屋に戻らなければならない。

 双子の片割れのベッドが柔らかな温かさで自分の体を吸い込むのを感じながら頭の中で明日のシミュレーションをする。

 明日もいつも通り、自分の殺風景なベッドサイドテーブルに七時にセットして置いた目覚まし時計で起きて、お弁当箱にパエリアと柿を詰めて、トーストと牛乳の朝食を取って、制服とコートに着替えて学校に行く。

 恐らくは私から苦々しく目を逸らす鈴木君と事情を聞き知ったであろう彼の友人たちの姿は端から視野にも入れないようにして、ペーパーバックの「アグネス・グレイ」を読もう。

 ブロンテ姉妹の末妹で、才女として名高い姉のシャーロットやエミリーと比べると地味なアンの作品だ。

 だが、そうした人の紡ぐ物語だからこそ読まなければならない気がして原書に目を通している。

 そうして、自分を好きになれない私は、明日もまた誰にも心を奪われない、動かされない“高嶺の花”“クラスのマドンナ”としていつもの一日を過ごすのだ。(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天は二物を与えて 吾妻栄子 @gaoqiao412

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ