第三章:二人の嬰児《みどりこ》

 ドアを開けると、丸い銀縁眼鏡に白衣を着た、女性にしては長身の主治医が立っていた。

「ああ」

 “お母さん”と呼ぶべきか、“先生”と言うべきか。多分、病院ここでは後者が正解なのだろう。

 だが、どちらもどうにも口にしづらい。

「もう外は暗いから」

 こちらの思案を見透かしたように相手はいきなり本題から切り出す。

「気を付けて帰りなさい」

 表情らしい表情を消し去った風な顔つきだ。

 蒼白い肌といい、銀縁眼鏡の奥の彫りの深い切れ長の目といい、長身腰高な体形といい、母と私たち姉妹は一見して親子と知れるほど似ている。

 しかし、表情も声も抑え気味で“近寄り難い”“冷たい感じの美人”と形容されやすい雰囲気には恐らく私だけが似たのだろう。

「寄り道せずに真っ直ぐ家に戻りなさい」

「分かりました」

 正直似たくはないけれど、この頃は母と言葉を交わすといつも互いにそっくりな固い声での応酬になる。

「今日はお父さんが先に……」

「知ってるよ」

 皆まで言わせずに返してから、自分の声がいかにも幼稚な拒絶の調子で響くのを感じた。

「そう」

 若葉なら同じ状況でこんな受け答えはしない。

 寂しい笑いを浮かべて頷く母もそう思っていることだろう。

 それはそれとして、昔からこの人は笑うと、その笑いがどこか苦かったり冷たかったりして、却って近寄り難さが増して映る。

 きっと、私の笑い顔もそんな風に他の人には見えているんだろう。

 だから、さっきの鈴木君のように一度は好意を抱いても後ろ足で砂をかけるようにして去っていく人ばかりなんだ。

 若葉は告白を断った相手とも大体良い友達でいられるのに。

 苦々しい気持ちをローファーの後ろに蹴とばしたい気持ちで病室と同様に消毒液臭い廊下を進み始める。

――ガシャン、ガシャガシャ……。

 医療器具を載せた台車が真横を通り抜ける。

 擦れ違うのは職掌ごとの違いはあるとはいえ、いずれも制服を纏った人たちだ。

 自分は規定通りの時間にやって来て帰る見舞客なんだからこれでいいんだ。そうは思っても、セーラー服の上にエメラルド色のチェスターコートを羽織った自分がどうにも空々しく場違いに感じた。


*****

「ただいま」

 ああ、これはパエリアの匂いだ。玄関にまでうっすら漂っているブイヨンとトマトの混ざった匂いで察する。

 明日のお弁当はパエリアと柿を別々のタッパーに入れて済ませよう。その方が帰ってきて洗うのも楽だし。

 そんな算盤そろばんを頭の中で弾きながらリビングに向かう。

――ガチャリ。

 ドアを開ける音で初めて気付いた風にソファに腰掛けていた父は顔を上げた。

「ああ」

 既に何冊かアルバムの積んで置かれたテーブルの上に新たに開いた一冊もそのままでどこか失敗を見咎められたように笑う。

「アオちゃん、お帰り」

 開かれたアルバムのページでは七歳の七五三でそれぞれ呉服で着飾って神社にお参りした私たち双子と今より一回り以上も若く見えるスーツ姿の両親の写真が収められていた。

 朱色の地に白や桃色の牡丹の描かれた着物で大きな目を三日月形に細めて楽しそうに笑っているのが若葉。

 黒地に紅白の梅を配した柄の和服でこちらに固い眼差しを向けているのが私だ。

 フォトスタジオで若葉は店員さんや両親の勧めるいかにも愛らしい色柄の呉服をそのまま着付け、私は双子の姉と似通った色柄を推す大人たちに抗して敢えて大人びた渋めに見える和服を希望した。

 これで、私の方がありきたりな服を選んだ若葉よりもっと綺麗に見えるはずだ。

 七歳の自分には双子の姉と何とか競り勝ちたい、こちらの方がどこかしらは優れている可能性を信じる気持ちがまだあったのだ。

 しかし、いざ着付けてもらうと、紐や幅の広い布で胸から腹をぐるぐる巻きにされて締め付けられ、ひたすら息苦しかった。

 のみならず、髪をきっちり結い上げてかんざしを挿した頭はヘアピンやら簪やらであちこちグサグサ刺されたように痛い。

 化粧を施された顔には全体にうっすらと突っ張る風な違和感があり、紅を引いた口の中には判子の朱肉の匂いじみた妙な味がした。

 それは双子の姉も同じはずだが、本人は至って楽しそうに微笑んでいた。

――二人で素敵なお着物が着られて良かった。お姉さんたち、ありがとう!

 私の方を担当した人を含めてフォトスタジオのスタッフが終始心から嬉しげな笑顔を向けたのはやはり若葉の方だったのだ。

 この着物きつい。頭あちこち引っ張られたり刺されたりして痛い。早く全部取って帰りたい。

 でも、それを言ったらダメなんだろうな。どうして若葉は同じく着物を着て髪も纏めてあんなに楽しそうなのに私には窮屈としか思えないんだろう。

 隣を歩く双子の片割れには自分にとっての喜びが倍になり、苦しみは半分以下に削られて与えられているように見えた。

 そんな漠然とした理不尽を覚えながら撮った写真だ。

「私、何かブスッとしてるよね」

 いつものことだけど。

 この頃はまだ無心だったが、精一杯笑顔で映っても写真を見ると隣の若葉の心からあどけない表情と比べるとどこかぎこちなかったり意地悪そうだったりして、段々と写真を撮る時に表情を作ること自体をしなくなった。

 そうすると、“クール”と言われてそれが双子の姉に対する私の立ち位置になったのだ。

「この時は普段は着てない和服だったからちょっと歩くのもきつくて」

 少なくともこれは嘘ではない。

「小さい子には大変だよね」

 お父さんは禿げない代わりにすっかり白髪の増えた頭を頷かせて労う調子で答えた。

「あの日は寒くて、ワカちゃんは帰った後に熱出しちゃったし」

「そうだっけ」

 すっかり忘れていたが、確かにその頃から双子の姉はしょっちゅう体調を崩していたと思い出す。

 父はエメラルドのチェスターコートを着たまま立っている娘をどこか潤んだ光を宿した目で見上げた。

「アオちゃんは疲れた顔をしていてもすぐに寝付いて次の朝にはすっかり元気なのに、ワカちゃんは外では本当に楽しそうに笑ってるのに次の日にはぐったり熱を出して」

 本来は一人の人間として生まれるはずだった私たちは二人に分かれて生まれ落ちた時に、健康や体力のパラメータも本来あるべき形から狂ってしまったのだろうか。

「二人とも本当に可愛いよ」

 ここ半年余りで年相応の“おじさん”から“おじいさん”に近い顔つきに転じた父は続けた。

「一緒に歩いていてパパもママも鼻が高かった」

 偽りがない代わりに重い声だ。

「生まれた時からずっと自慢の娘たちだ」

 絞り出すような声で語る“たち”の響きが胸に突き刺さった。

「それが……」

 言葉の途中で相手は自分の白髪の頭をまるで握り潰そうとするように抱え込む。

 そうすると、朝、勤め先の大学に出る前に着ける整髪料の香りがツンとこちらまで広がった。

 小さな頃からいつもこの人からしていた匂いだ。

「パパ」

 私は思わず父の肩に手を置いた。

 記憶にあるよりその肩がずっと薄く衰えたことに痛ましさより恐怖を覚える。

 こんな時、若葉ならどういう言葉を掛けるのだろう。

――私がいるから大丈夫。

 きっとそれは求められている言葉ではない。 

「若葉はもう知っている」

 相手は静かに白髪の頭を横に振った。

「昨日、未登里みどりが話していた」

 みどり、と母の名をまるで私たち姉妹と変わらぬ若い女性であるかのように口にして続ける。

「あの子にはもう自分の症状や進行について専門医と変わらない知見があると」

――きっとだよ。

 ほんの小一時間ばかり前に目にした、無邪気そのもののような笑顔が蘇る。

 あれが、遠からず自分の命が終わることを知っている人間の表情だというのか。

 いや、若葉なら知っていて敢えて明るく振る舞えてもおかしくない。

 これまでもずっと私の先を歩いてきた双子の片割れならば。

 父の肩に置いた手が震えて足元の地面が崩れて落ちていくような感覚が襲ってきた。

 と、こちらの手を持ち上げるような格好で相手は立ち上がる。

 自分は傷一つ負ってもいないくせに恐怖で固まった方の娘の頬を撫でて父は寂しく微笑む。

「ご飯にしようね」


*****

「今日ね、全国模試の結果が返ってきたの」

 パエリアを食べながら出来るだけ何でもない風な調子で向かいの父に話し掛ける。

「一番だったよ」

 明るく言いたかったのに何だか言い訳じみた調子になる。

「頑張ったね」

 相手は穏やかに微笑んで頷いた。

 父も母も昔から私の出す結果について貶すことは言わない。

「志望で書いた医学部は全部A判定だったけど」

 母親も医師で成績が良ければ当然周りも医学部進学を勧める。

「お父さんみたいに文学の研究もやりたい気がするんだよね」

 若葉は小さな頃から今でも変わらず“パパ”“ママ”と呼ぶが、私は小学校に上がった辺りで“お父さん”“お母さん”に切り替えた。

 きっとそんな所も可愛くないだろうと思いつつ、普段の呼び掛けはもう“パパ”“ママ”に戻すことが出来ない。

「そうか」

 相手は私というより隣の空の椅子まで見詰めるような少し遠い眼差しを向けて答えた。

「アオちゃんの本当にやりたいことを選べばいいよ」

 


 

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