第二章:落葉の病棟

「アオちゃん!」

 消毒液臭い病棟の個室。

 ベッドの上で古びた本を読んでいた相手はパッと透けるように白く小さな顔の中で一際大きく切れ長い瞳を輝かせた。

 こぼれるような笑顔とは正にこういう表情を言うのだ。

 いつもながらに思う。

「元気で良かった」

 本当は元気ではないからこの子はここにいるわけだが、そう言うようにしている。

「あれ、これは?」

 ベッドの脇に置かれた数冊の書籍の上に相手が今、閉じて一番上に置いた本に思わず目を留める。

“Les Enfants Terribles”

 年季の入った表紙にはそう綴られていた。

「ジャン・コクトーの“恐るべき子供たち”だよ」

 相手はごく無邪気な笑顔と口調で続ける。

「昨日、パパが持ってきてくれた」

 私と同じ十七歳、本来は高校二年生のはずのこの子は小さな頃と変わらぬ調子で“パパ”と口にする。

「そうなんだ」

 私は昨日は予備校の英語の授業があったのでお見舞いに来ておらず知らなかった。

「フランス語、もう読めるの?」

 こちらは学校では敢えて第二外国語はパパの専門であるフランス語ではなく中国語を取ったが、むろん小説を読めるレベルには達していない。

「短いお話なら何とか」

 まるで小さな子が好きな食べ物について話すように相手は楽しげに語る。

「コクトーの綴る言葉の響きって本当に澄んでるんだよ!」

「そうなんだ」

 こちらは“恐るべき子供たち”の原書が重ねられた本の束を見やる。

“エレクトロセロミクス結晶物理工学”

“梵語古詩 ラグヴァンシャ”

“高分子材料化学”

“代数方程式とガロア理論”

“現代仏仏辞典”

 私の双子の姉(本来一卵性双生児に上下はないけれど、うちでは先に生まれたこの子が姉の扱いだ)、桜庭若葉さくらばわかばにとってこれらの書籍は入院生活で体調が比較的良い時に読む、普通の子にとっては漫画や雑誌のような娯楽なのだ。

 高二の春から病気で一年休学になったが、中学の時点で高校の履修内容をほぼ終えてしまった、教科によっては大学生レベルの知識すらある若葉には誰も勉強が遅れる心配などしていない。

 だが、問題は……。

「早く退院して、またアオちゃんと自転車で学校行きたいよ」

 はしゃいで喋ったことで力を使い果たしてしまったようにベッドに横になった双子の姉はガラス窓の方を見遣りながら呟く。

 そうすると、いっそう薄くなった体が目立った。

 元は私とほぼ同じ体型だったのが更に肉が落ちたわけだから、健康的には明らかに痩せ過ぎ、ヘルスメーターに乗れば間違いなく低体重の数値が出るだろう。

「ここに来たばかりの頃はまだ桜も固い蕾だったのに」

 病床の若葉は飽くまで穏やかな声で呟いた。

 窓の外ではもう暮れかけの陽を浴びたソメイヨシノがすっかり朱に色付いてもはや茶色に枯れかけた葉をまだ五割ほど残した枝を揺らしている。

「小さな蕾が段々膨らんで、咲いて、満開になって、散った後には葉っぱが出て、小さな実を付けて、今度は段々葉っぱが赤くなって、それも落ちてく」

 双子の姉が語る間にもガラスの向こうでまだ微かに緑を含んだ一枚が枝を離れて舞い降りていく様が認められた。

 多分、若葉もあの一枚を見ている。直感で察して背筋に寒いものが走った。

 こちらの思いをよそに元の位置から切り離されたその一枚はまだ色の熟れきらぬ裏と表を交互に見せながら窓の枠の外に姿を消していく。

「外に出て、土や緑の匂いのする空気を吸って、直に花や葉っぱに触れたいのに、私はずっとこの部屋で見てるだけ」

 あの葉は枝に残っていた中でもまだ瑞々しいはずなのに、何故枯れかかった葉より先に落ちてしまうのだろう。

 つと横たわった若葉が顔をこちらに振り向けた。

 どこにも湿っぽい空気などない、こぼれるような笑顔だ。

「退院したら、またあのアイスクリームのお店に一緒に行こうね」

「ああ」

 通学路の途中にあるアイスクリームショップのことだ。

 去年は二人で良く食べに行った。

「今ならマロンの味が出てるかな」

「そうだね」

 若葉が入院した春先にその店は閉じて今は空きテナントだとは言えない。

 相手の大きな切れ長い目が輝いて続ける。

「うちでハロウィンパーティもまたやろうね」

「うん」

 去年のハロウィンパーティでは、若葉がティンカーベル、私がペリウィンクルの扮装をした。

 当日は皆が並んだ私たち二人の写真を撮りたがった。

「アオちゃんは今度は何の仮装したい?」

 去年も若葉が自分の分ばかりでなく私のペリウィンクルの衣装まで仕立てて作ってくれたのだ。

 むしろ、私の分により時間を掛けて仕上げてくれた。

「考えとくよ」

「きっとだよ」

 薄くなった体の姉は心から楽しそうに笑っている。

「アオちゃんの服は私が作るんだから」

 若葉の姿を目にする度に、自分がこの双子の片割れと生き写しであることが誇らしく思えると同時に、この姉のような無垢な明るさは自分にはないのだと墨を落としたような影が胸のうちに広がるのを感じる。

 劣っているのは単に風貌だけではない。

 物心ついた辺りから“可愛くて何でも出来る双子ちゃん”とは言われてきた。

 しかし、勉強でもスポーツでも何をやらせても若葉の方が私を周回で引き離すレベルで良く出来た。

 私が教科書を繰り返し読んで分からないところは参考書を読んで嚙み砕いている時に姉は教科書を一回読めば全て理解できたし、参考書や資料集も一度目を通せば細かい補足的な記述まで把握して他の人に分かりやすく説明出来た。

 初めて見たはずの応用・発展問題でも当たり前のように正解を導けた。

 同じ日に同じクラスに入って始めた習い事でも、三か月もするとまるで若葉の方が三年も早く始めたかのような差が付いた。

 同じスイミングスクールに一緒に通って、私がやっとクロールを二十五メートル泳げるようになる頃に、双子の片割れはクロールどころか背泳ぎ・平泳ぎ・バタフライの四種をマスターしていた。

――いっぱい泳げるようになりたいから上のクラスの人たちが泳ぐのを見て覚えたんだよ。

 私にそんな芸当は出来はしない。

 ピアノもこちらが教本一冊を終える頃に若葉はよりハイレベルな教本に進んでおり、発表会では数段難しい曲を流麗に弾きこなした。

 双子で同じ髪型に同じよそ行きの服を着ているのにステージの上では難易度が段違いに異なる曲を――片方の子は小学生なのに高校生くらいの生徒が発表するような曲を――弾くのだから、客席の人たちにはさだめし奇妙な鑑賞経験だったに違いない。

 そもそも同じ曲を弾いても私と若葉では音の響きというか質感がまるで違うのだ。

 姉には絶対音感というものがあるらしく、テレビで流れたり外で耳にしたりした曲も楽譜なしで弾いて再現することも出来た。

 同じ一卵性双生児でもこちらにはそんな特殊能力じみたものはない。

 つまるところ、ツートップのように見えて私はいつも二番で、最大限努力しても首位の姉の間には越えられない壁があったのだ。

 高校の入試はどちらも満点で二人並んで新入生代表の挨拶をしたが、それがこちらの最高記録だ。若葉が私の下位になったことは一度もない。

“冷たそうで可愛くないじゃん”

 あの時、顔の見えない誰かの声は続けてこう語った。

“もう一人の方が明るくていい子そう”

 そうだ、今、この病床に臥せっている姉の方があらゆる面でずっと良い子だ。

 私が若葉より優れている点と言えば、体が健康なことくらいだ。 

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