第9話

 ヘビオは私の顔と財布を何度も見返してから、戸惑ったような表情で受け取りました。変でした。怒ることもなければ、驚くこともなく、あっさりと受け取ったんです。そして、わざわざどうもありがとうって、ちょっと甲高かんだかい、気弱そうな声で言いました。ヘビオが私にお礼を言ったんです。


 私はなぜか寒気を感じて体が震えました。何かがおかしいと思いました。だって私は、返せ返せと脅されて、襲われて、必死の思いで財布を返しに来たんです。それなのに、ヘビオはまるで今まで何も知らなかったかのような態度を私に見せたんです。じゃあ、今までのことはなんだったのって、関係のない人たちはどうして知っていたのって思いました。


 その時です。私の耳に、何かが入ってきたんです。


 何かって、何かです。ぬるっとした、冷たく湿った水のような感覚がしました。ちょうど海やプールの中で耳に水が入った時みたいに。雨じゃありません。それよりも気持ちの悪い……そう、ナメクジが両耳の中に入ってきたような感じでした。それがどんどんと奥へと進んでいって、鼓膜こまくを通り抜けて頭の中にまで侵入してきたんです。


 すると体中がこおったように固まって、全く動けなくなりました。周りの音が遠くなって、目の前にいるヘビオ以外は何も見えなくなりました。そして気がつけば、私はヘビオの腕をつかんでいました。そんなつもりもなかったのに、いつの間にか体が動いていたんです。目はまぶたがどんどん持ち上がって閉じることもできません。口も両端が持ち上がって、笑うような形に開きました。私の顔です。私の顔が意思に反してひとりでに変化したんです。さらに喉の奥が開いて勝手に声が出たんです。


 返せ。俺から盗んだものを返せって。


 私がそう言ったんです。同じ声でした。電車内の痴漢と、クラスメイトの遥奈はるなと、通りすがりのお爺さんと、みんなと同じ湿った低い声でした。それでようやく分かったんです。みんなは私のしたことを知っていたんじゃない。この、耳から入ってきた何かに体を乗っ取られていたんだって。それが今は私をあやつっているんだって。


 そして、その正体はヘビオじゃないってことも。

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