第4話

 返せ、です。盗んだ物を返せって、水の中というか、口の中につばを一杯めてしゃべるような、湿った聞き取りにくい声でした。すると、それまで蒸し暑かったはずなのに急に寒気がして、肩にげている鞄が重くなったように感じました。気のせいかもしれません。ただ私が他人から返せと言われる物なんて、あの財布しか思い当たりませんでした。


 でもおかしいんです。後ろの男の人がヘビオのはずがないんです。だってヘビオはこれより前の電車に乗って行きましたから。もし次の駅で財布を落としたことに気づいて引き返しても、この電車が駅を出た時間に間に合うとは思えません。だから余計に不自然で、怖くて抵抗できなかったんです。周りの人も誰も気づいていないようでした。


 幸いにも、それから数分後には駒坂こまさか駅に到着したので電車から降りることができました。ついて来られたらどうしようと思いましたが、そんな気配もなくて、同じ高校の生徒と大人の女の人が数人降りただけでした。何歩か離れてから思い切って振り返ると、やっぱりヘビオはいなくて、もっと太った中年のおじさんが立っていました。でも他の人と立ち位置が入れ替わったかもしれないので、本当にその人が痴漢だったとも決めつけられませんでした。


 私の言っていること、分かりますか? 状況じゃなくて、私がこの話をした意味です。関係のない話をして誤魔化ごまかしているわけではありません。本当に返せと言われたんです。しかも確かにあの財布のことを言っていたんです。間違いありません。それは私の話を最後まで聞いてもらえれば分かると思います。


 電車を降りたあとはそのまま、普段通りに高校へ向かいました。その間もなんとなく、周りの人から見られているような気がして落ち着きませんでした。でもこれは証拠がないので私の思い過ごしかもしれません。まだ雨が降っていたから傘で顔を隠して早足で歩き続けました。


 高校に着いてからは、一時間目が終わったあとの休憩時間にトイレへ行きました。あのヘビオの財布をちゃんと確認するためです。電車内での出来事がやっぱり気になって、もしかすると場所の分かる発信器みたいな物が入っているんじゃないかと思ったんです。何か、ボタンとかコインみたいな形で電波が出るような……。そういうのもあるって、どこかで見聞みききした覚えがありますから。

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