俺と姉が姉弟じゃなくなった日。

由希

俺と姉が姉弟じゃなくなった日。

 目の前にはシャツとパンツだけの姿で、昨夜はその身をしっかりと覆っていただろう布団を蹴飛ばし、だらしない顔で惰眠を貪る女が一人。

 頭の中が煩悩だらけの猿ならば据え膳だと襲いかかるのかもしれないが、生憎と俺は理性ある人間だ。それも相手が実の姉となれば、尚更である。


「おい、馬鹿姉、起きろ。飯出来たぞ」

「うへへ〜、もう食べれないよぉ〜」

「化石のような寝言吐いてないで起きろ!」


 強めに肩を揺すってみるも、姉はなかなか起きようとしない。昨夜は大分遅くまで飲んでたから、まあ簡単に起きないだろうとは思っていたが。

 仕方がない。気は進まないが……。


「……起きないともう、写真撮らせてやらないぞ」

「えぇ!?」


 俺が耳元でそう囁いた瞬間、それまで開く気配もなかった姉の目が大きく開いた。そしてガバリと身を起こすなり、その豊満な胸を俺に押し付けるように抱き着いてくる。


「ヤダヤダヤダー! ゆうくんの写真撮れなくなるのヤダ!」

「だーっ! 起きたのはいいがいちいち抱き着くな!」

「悠くんが写真を撮らせてくれないなら悠くんを殺して私も死ぬ!」

「アホな事言ってんじゃねえ!」


 物騒な事を言い出す姉を、全力で引っぺがす。姉はまだ唸っていたが大人しく引き剥がされるとベッドに座り込んだ。


「ううう……悠くんの写真……」

「ハイハイ、ちゃんと起きたからまた撮らせてやるから。それより早く支度して飯食え、遅刻するぞ」

「わーい! 悠くん大好き!」


 仕方なくそう言うと、姉は喜んで朝の支度に取りかかった。その現金さに、思わず盛大な溜息が漏れる。


(……ホンット、俺がいなきゃどうしようもねえのな、姉貴は)


 その事実に、ほんの少しだけ優越感を感じながら。俺は着替えが始まる前に、早々に部屋を出る事にした。



 夏目なつめ理緒りおは、五つ年上の俺の姉だ。

 俺が十二歳の時、両親が交通事故で亡くなった。それからすぐに姉は高校を中退し、俺を養う為に働き始めた。

 俺が無事高校まで進学出来たのも、姉が頑張って学費を稼いでくれたからだ。その事は、感謝してもし切れない。

 ……のだが。この姉には、致命的な欠点があった。

 それは、死ぬほど家事の才能がないという事だ。料理をすれば必ず焦がし出来る事はレンチンだけ、洗濯も掃除もやればやるほど大惨事という有り様。

 これは駄目だ。幼心に、俺はそう思った。姉に全てを任せたら、この家は崩壊する。

 幼い俺は一念発起し、必死に家事を覚えた。結果仕事は姉が、家事は俺が担当するという今の役割分担が出来上がったのである。

 俺は確かに姉がいなければここまで生きてこれなかったが、それは姉も同じ事なのだ。俺が一切の生活の面倒を見たからこそ姉は職にあぶれる事もなく、働き続けられたのだ。

 ……まあ、姉は両親が生きてた頃から極度のブラコンだったから、別の意味でも俺なしでは生きられなかったかもしれないが。

 とにかく持ちつ持たれつ、といった感じでもう五年。俺は姉と、二人きりで暮らしている。



「さて、昨夜姉貴が散らかしたものを片すか……」


 姉を仕事に送り出し、休日である事を利用して昨夜の姉の一人飲み会の跡をすぐ片付けにかかる。姉の仕事は不定期で、日曜でもこうして出勤する事が多い。


「あーあー、酒飲むのはいいけど床に缶転がすなって何度も言ってんのに……ホンット言う事聞かねえんだから……」


 床のあちこちに転がったハイボールの缶に、思わず眉に皺が寄る。どうせ飲むなら綺麗に飲んでくれればいいものを、姉が飲んだ後はいつも散らかり放題だ。

 それ以外にも方々に散らばるゴミを、分別しながら片付けていく。すると、机の上に置かれた一冊の分厚いアルバムが目に入った。


「あれ? これ……姉貴が持ってきたのか?」


 何気なく開いてみる。中には、記憶にあるようなないような家族写真が所狭しと貼り付けられていた。


「懐かしいな。……そういや父さんと母さんが死んでから、アルバムなんて一度も開いてなかったな」


 写真に写るのは生きてた頃の父さんと母さん、そしてまだ子供の姉と俺。心から楽しそうに笑う彼らは、こんな未来なんて想像していなかったに違いない。

 懐かしい、切ない、そんな気持ちになりながらアルバムをめくっていく。逆から開いてしまったらしく、最後のページにあったのは赤ん坊の俺をみんなで囲む写真だった。


「……あれ?」


 そこで、俺は違和感に気付く。このアルバムにある最も古い写真は、俺が赤ん坊の頃の写真。


(……俺が産まれる前の、姉貴の写真は?)


 そうだ。産まれたのは姉貴が先なんだから、普通は姉貴が赤ん坊の頃から写真を撮り始めるはずだ。なのにこのアルバムは、俺が産まれた時から始まっている。

 もう一度、慎重にアルバムに目を通す。だがどれだけ探しても、俺が産まれる以前の姉の写真はどこにもなかった。


「何で……そうだ、もしかしたら別のアルバムに……」


 広がる不安を押し殺すように、家の中を徹底的に捜索する。けれども、片付けを始める前以上に家が散らかっても、他のアルバムは一冊も見当たらなかった。


「何で、何でないんだよ!」


 焦るあまりに無意識に、拳を壁に叩き付けてしまう。あと探してない場所は……姉の部屋だけ。

 もちろん毎朝、姉を起こしに出入りしている場所ではある。だが主人のいない間に家探しするとなれば、また話は別だ。

 どうするべきか、一瞬悩む。けれど俺は収まらない衝動に導かれるように、姉の部屋へと足を向けた。

 ドアを開ければ、今朝見たままの姉の部屋があった。姉を起こして送り出して、まだ半日だって経っていないのに、何故だかそれがひどく昔の事のように思えてしまう。

 まず探すのは、大きさも種類も全くバラバラの状態で本が詰め込まれた本棚。けれど中にあるのは背表紙にタイトルのある本ばかりで、アルバムらしいものは全く見当たらなかった。

 次に机。子供の頃の学習机がそのままになっているそこにも、目立つところにアルバムのようなものはない。


(……後は……)


 視線が、机の引き出しに移る。この中を見てしまうのは、さすがに強い抵抗があった。

 それでも、どうしても安心したくて。徐々に膨らんでいく疑惑を、完全に否定したくて。

 俺は、机の引き出しを、開けた。


「……これ……」


 中には、一枚の古い写真があった。それは俺が求めていた、俺が産まれる前の姉の写真。

 けれど、それは一番見たくなかったもので。幼い姉を抱き上げ微笑むのは、俺の知らない女の人で。

 もしこれがただの赤の他人との写真なら、こんな風に机にしまって、大切にしておく理由なんてない。俺の目に入らないよう、アルバムとは別にしておく理由も。

 疑惑が、少しずつ確信へと変わっていく。つまり、つまり俺と姉は。


(俺達は、本当の姉弟じゃない……?)


 その結論に辿り着いた瞬間。足元が、ガラガラと崩れていくような感じがした。



「悠くん、ただいまー!」


 今日も元気に姉が、理緒が帰ってくる。俺は肩を震わせ、近付いてくる足音を聞いた。

 ……駄目だ。悟られちゃいけない。俺が気付いたという事を、理緒に知られちゃいけない。

 もし知られてしまえば……俺達は、本当に姉弟じゃいられなくなる。

 大丈夫だ。家探しでひっくり返したものは、全部元に戻した。後は俺が、いつも通りにするだけだ。


「……おかえり、姉貴」

「あーん、悠くん疲れたよー。悠くん成分補給させてー」


 理緒は俺を見ると両手を広げ、いつものように抱き着こうとしてくる。それを見た俺は、反射的にソファから立ち上がっていた。


「あれ? 悠くん?」

「い、いや……俺達もういい歳なんだし、そろそろベタベタするの止めないか?」

「えー? いいじゃない、姉弟なんだし」


 姉弟。その言葉が、心に重くのしかかる。

 本当は、姉弟なんかじゃないのに。理緒も、それを解ってるはずなのに……。


「えーい、そんなつれない事言う悠くんは……こうだっ!」


 すると理緒は俺に駆け寄り、強引に顔を胸元に抱き寄せてきた。それにより俺の顔が、理緒の豊満な胸に埋まる形になる。

 や、柔らか……いや苦し……いや、こんなのいつもされてる事なんだ、冷静に……!


「……っうわあっ!」

「きゃっ!?」


 気が付くと、俺は理緒を突き飛ばしていた。俺の抵抗を予想していなかったのか、理緒が後ろによろけ、そのまま尻もちを突く。


「いたた……酷いよー、悠くん……」

「っ……」


 腰をさすり、涙目で俺を見る理緒。その顔とさっきの感触に、急激に顔が熱くなって。


「あっ、悠くん!?」


 倒れた理緒を、助け起こす事もせず。俺は弾かれるように、その場から逃げ出していた。



 自分の部屋に飛び込み、急いで鍵をかける。

 心臓の音が、うるさいくらいにガンガンと鳴り響く。顔の熱さは耳まで達して、汗が流れ出しそうだ。


「……っ……」


 扉に背中をもたれかけるようにして、ズルズルとその場に座り込む。ああ、そういう事だ。気付いてしまった。

 理緒と本当の姉弟じゃないと知った時、俺は、理緒と血の繋がりがない事がただショックなんだと思っていた。世界にたった二人の姉弟だと思ってたのがそうじゃなかったから、ショックだったのだと。

 けど、違った。俺が本当にショックだったのは。


(——血の繋がりがないのに、理緒はそれを知っているはずなのに、実の弟と同じようにしか思われてなかったから)


 だって、姉弟なら。それ以外になんて、絶対になれないから。

 だから理緒の世話を焼き、理緒に溺愛される、そんな弟でいられれば満足だった、けれど。

 ——それ以外にもなれると知ってしまった、今は。


(俺、理緒の事が……一人の女として、好きだったんだ)


 一度自覚してしまった想いは。もうなかった事になんて、出来そうになかった。

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