第5話 雨降って地固まる
――ぱぁん!
室内に乾いた音が響き渡る。それはお袋が、間に入って親父に平手打ちをかました音だった。
「明日香ちゃんに指一本でも触れたら許しませんよ!」
母屋に重苦しい沈黙が訪れる。やがて親父は、憑き物が落ちたようにがっくりと項垂れ、何も言わずに奥へ引っ込んでいった。
「克己君、大丈夫か」
明日香の親父さんが、手を差し出してくれた。僕は知ってる、この人は下戸だ。あの一升瓶はほとんど親父がたいらげたんだろう。
「
「いえ、とんでもない。私の方こそ大人げなかったと反省しております。誠に面目ない」
「克己っ、血がでてる!」
気が付くと、右腕に割れたコップの破片が刺さっていた。たいして深い傷ではない。腕の傷なんかよりも、明日香の泣き顔が心に痛かった。
パタパタと、明日香がものすごい勢いで救急箱を取りに部屋を出ていく。
「なあ、克己君。君は自ら宣言をした。本当に娘を、明日香を好きなのか?」
明日香の親父さん、顔は笑ってるけど目は笑っていなかった。杜氏頭も、お袋も、僕の答えを待っている。
僕はなぜ、親父を殴ったんだろう。自分のため? いや、勝てないと分かっている。普段なら黙って話だけ聞いてたはずだ。どうして?
――ああ、そうか。
明日香を泣かせたから。家族同然で過ごしてきたのに、てのひら返したように明日香を『その娘』と呼んだから。それは明日香への侮辱に他ならないから。そう気が付いた時、なぜだろう、目頭が熱くなった。
「明日香が……好きです。うまく言えないけど、小学生の時から婚約者を決められて反発してたけど、やっぱり僕は明日香が好きなんです」
背中で『ことん』と音がした。振り返ると、救急箱を抱えた明日香が立っていた。
「坊ちゃん。男に二言は無し、ですよ」
「来年作付けする酒米で意見が合わなくてな、よくあることだ。蔵主さんの酒癖の悪さは昔からよく知ってる。婚約解消の件は気にしなくていい」
明日香の親父さん、今度は目も笑っていた。
「親父に代わってお詫びします、すみませんでした」
「まあ、ついこの間までランドセル背負ってた子が……やだやだ、年はとりたくないものね」
お袋が目尻を拭いながら、サイドボードに飾ってあった大杯を取り出し、転がっていた一升瓶を拾い上げた。杜氏頭が仕込んだ大吟醸。
「女将さん、何をなさるので?」
「ここにいるのはみんな家族です。源さん、あなたもよ。固めの杯をしましょう」
お袋が勢い良く栓を抜き、大杯になみなみと注いでいく。
ここに明日香の母さんが加われば、親父は四面楚歌だ。ちょっと気の毒な気もしたが、身から出た錆、致し方ない。
その夜、少しだけ口に含んだ大吟醸は、しょっぱくてほろ苦かった。一生忘れられない味。
「あの時、思ったの」
「ん、何を?」
「私の人生、ぜんぶ克己にあげてもいいって。ねえ克己、ほんとに私でいい……」
僕は思わず人差し指を、明日香の唇に当てて遮った。
「それ、もう言うなよ。僕は明日香に相応しい人になりたい。これからもよろしく」
「うん、私も克己に相応しい人になりたい」
食材を詰めた袋をぶら下げ、手を繋いで歩道を歩く。
「ちょうどご飯が炊きあがる頃かな。焼いたアジの干物に、大根おろしたっぷり乗せてお醤油をたらす。どうだ!」
「うわっ、話だけでご飯一膳食えそう」
「あ、ちょ、引っ張らないで。歩き難いんだってば」
「ねえ、西日本バージョン聞かせてよ」
むふんと笑い野望を話し出す明日香の、ポニテがゆらゆら揺れていた。
ー完ー
明日香抄 加藤 汐朗 @anaanakasiko
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