第4話 あの事件とは

  そして明日香は精肉コーナーで、値札が貼り直された豚バラブロックのパックをむんずと掴んだ。その顔はまるで、鬼の首でもとったかのよう。


「あす、か?」

「ついに見つけたわ」

「へ?」

「鮮魚は十九時、お総菜は二十一時、製パンは閉店直前、精肉コーナーだけが分からなかったのよ」

「あの、何の話かさっぱりなんだけど」

「半額値引きのシールが貼られる時間よぉ、お肉はこんな時間に貼ってたんだ。よしよし、このスーパー完全攻略したわ」


  喜色満面でガッツポーズの明日香。うわ僕、変な心配して損した。お店の従業員さんは何の関係もなくて、お目当ては値札を張り直すタグガンだったんだ。


「おみそれいたしました」

「うふふ。お母さんと、克己のお母さんにも報告しなきゃ」


 明日香はスマホを取り出し、LINEに文字を入力し始めた。

 明日香の家は、酒造適合米を栽培する酒米農家だ。もちろん主食米も作っているけれど、うちとは先々代からの古い付き合いらしい。お互い持ちつ持たれつ家族ぐるみの間柄だ。


「おまたせ。克己、何か欲しい物ある?」

「んー特に無い。あ、明日はさ、明日香の牛丼が食べたいな」

「それじゃ牛肉も買っていこう、半額シール貼られたことだしね。あと卵も」


 彼女が作る煮込み料理は、和風も洋風も僕の大好物。おでんもポトフも、筑前煮もシチューも。ロールキャベツや煮込みハンバーグが出て来たら、とんで跳ねて踊っちゃうよ僕は。明日香にはいったい、どれだけのレシピがあるんだろうか。


「ねえ克己、中学の時のあれ、覚えてる?」 


 レジを通って食材を袋に詰めながら、明日香が昔の話を持ち出して来た。僕にとっては、あんまり嬉しくない話題だった。


「あれ……か、思い出したくないな」


 そう言えばあの頃の明日香は、おさげ髪でセーラー服がよく似合っていた。いま着てみてとお願いしたら、果たして応じてくれるだろうか。それとも胡乱な目で、ヘンタイとか言われるんだろうか。


 あれは中学生だった五年前、夜に杜氏頭と、諸味もろみの状態をチェックしている時だった。セーラー服の明日香が半べそかきながら、蔵に駆け込んで来たっけ。


「克己、杜氏頭じいちゃん、お父さんたち喧嘩してる。どうしよう」

「明日香お嬢ちゃん落ち着いて、何があったんですか」

「原因はよく分からないの、私もいま来たばかりで。でも、でも、婚約は解消するって騒いでる」

「なんだって? ほんとか明日香」

「坊ちゃん、嬢ちゃん、取りあえず行ってみましょう」


 明日香の手を引いて母屋に入ると、僕の親父と明日香の親父さんが睨み合っていた。飯台の上には一升瓶が二本、うち一本は空になっている。お袋が傍らでおろおろしていた。


「おぅ克己。婚約は解消だ、その娘から離れなさい」

「その娘?」


 すわった目、酒臭い息。酔った勢いで喧嘩して、婚約を解消するってのか。そして明日香をその娘だと? その時、僕の中で何かがぷつんと切れた。


「造り酒屋の主が酒に呑まれてんじゃねーよ。明日香に謝れ!」

「克己?」「坊ちゃん?」「克己君?」


 部屋の空気が一瞬凍り付いた。


「なんだとぅ」


 声と同時に拳が飛んできて、僕は襖もろとも隣の部屋まで吹き飛ばされた。


「青二歳がいっぱしの口聞いてんじゃねぇ!」


 酒樽かついで走り回る親父だ、勝ち目が無いことくらい分かってる。

 でも、曲げられない。僕らは物じゃないんだ、勝手な都合でくっつけたり離されたりしてたまるか。


「明日香に謝れ! 誰がなんと言おうと僕は明日香と一緒になる!」


 生まれて初めて親父を殴った。でもがきんちょのパンチが効く訳もなく、そのまま飯台に叩き付けられた。背骨のきしむ音。コップが割れ、一升瓶が転がり飯台にひびが入る。


「あなた、もう止めてください」

「うるせえ」


 お袋の言葉に耳を貸さず、親父が僕の胸ぐらを掴んで引き起こす。


「蔵主、いけません」

さかきさん、止めるんだ」


 杜氏頭と明日香の親父さんが押さえ込むのをものともせず、親父は僕を殴り続けた。親父は好きだ、でも酒に呑まれた親父は大嫌いだ。


「があぁ!」


 無我夢中だった。僕は胸ぐらにあった親父の拳に噛み付きながら殴り返していた。 再び飯台に叩き付けられる。飯台が鈍い音を立ててまっぷたつに割れ、右腕に焼けるような痛みが走る。


「もう止めて!」


 明日香が僕に覆い被さって叫んだ。親父は拳を振り上げたまま、仁王立ちで明日香を睨む。


「お願いです。殴るなら、私を殴って下さい。克己を傷つけないで」


 彼女の涙が、僕の頬にぽたぽたと落ちる。親父の拳がぶるぶると震えだし、理性と怒りが交錯している。やばい、ほんとに明日香を殴るかも。僕は思わず明日香を抱きかかえ、上下逆さまになっていた。

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