魔との共生②
呻くように零したのが、きっかけだったかもしれない。
ぐいっと肩を揺らされて、僕は瞳をかっぴらいた。
「どうした? 大丈夫?」
眼前に広がるルゥの顔には、憂慮が張り付いている。つい今しがたまで見ていた夢の中のルゥではない。
ドラングが負傷した戦闘までは現実に起こったことで、そこから発展した夢は悪夢もいいところだ。口の中がからからに渇いていて、背中がひんやりとした。
「フェイ?」
僕が何も答えないからか。ルゥが僕の顔をよくよく確認しようと、額を寄せてくる。近くにある赤い瞳は、夢で見たような過激な色ではない。心底ほっとして、息を吐き出した。
「……ちょっと、嫌な夢を見ただけだ」
「ボク、何かした?」
恐らく、僕は現実でも名を呼んだのだろうと想像がつく。
「いや……」
起こされてよかった、と本気で思った。
あの後どうなっていたか。夢を見続けていれば、僕の目の前でルゥは倒されていただろう。その予想ができてしまうことに、鳥肌が立って止まらない。
「フェイ、大丈夫じゃない」
自分でも、情緒が不安定なことに自覚があった。
ルゥもそう判断したらしく、呟いた声には質問も確認もない。決めつけるように告げると、僕の身体をぺたぺたと触り始めた。
「ルゥ?」
「どこか痛む? 腕? 怪我のところ?」
「大丈夫だよ」
重点的に検分し始めたのは、包帯を巻いている部分だ。僕はようよう表情を動かすことができて、ほろりと苦笑するように答えた。
「……ボク触れないほうがいい? 悪いことした?」
どうにもルゥの態度がおかしい。妙に焦った態度で矢継ぎ早に質問される。
僕はぎゅっと眉間に皺を寄せた。しかし、それがよくなかったのか。ルゥはぐっと唇を引き結んで、僕から離れていこうとした。僕が不快感を催しているとでも思ったらしい。
元パーティーメンバーがやってきてからこっち、ルゥの感情が読めなかった。普段から読めているわけではないけれど、いつにも増して分からないものだから気持ちが焦る。
離れようとするルゥの手首を捕まえて、その顔をしかと見た。
「悪いことはしてないよ。ルゥが、怪我しそうだっただけだ」
「……怪我しそうくらい平気。夢」
「分かってるよ」
口にすると、安堵は強い。脈から感じ取れる生命力に、改めて胸を撫で下ろした。
「変なの」
ルゥは平静だ。
食事中の会話では、ズレがあった。それがすっかりなりを潜めている。いっそ緩い笑い声を滲ませて呟く。夢ごときで動揺している僕がおかしいとばかりだ。
易々と割り切れないものなんだけど。
ルゥはクスリと笑うように喉を鳴らすと、僕の隣に入って寝転んでくる。そして、僕の腰に抱きついてきた。サキュバスなのだから、少しは場所を斟酌しないものか。思いこそすれ、そのぬるい体温が心地良いのは事実で、引き剥がすことはできなかった。
夜は引き続き同衾中だ。
それに対する困却なんてものは、とっくの昔に廃れきっていた。仲違いとは言わずまでの気まずさを抱えていようとも、同衾をやめるという発想がないほどには慣れきっている。
ルゥの体温は高めで、ほかほかと身も心も温められた。僕は今まで他人とベッドを共にしたことはない。ルゥが初めてのことだ。始めは緊張もしていた。しかし、慣れれば慣れるものらしい。
「大丈夫だよ」
「……ああ」
「眠れる?」
「……分かんない」
「横になるといい」
ルゥがベッドを叩いて僕を呼ぶ。
目覚めたタイミングで、僕は上半身を飛び起こしていた。それを呼ばれて、僕はゆっくりとベッドへ戻る。隣に滑り込むと、ルゥが腹に抱きついて、胸元に擦り寄ってきた。
「ボク、平気」
連綿と続くその心音に、どっと脱力する。
「よかった」
「……怖かった?」
そう言われて、僕はルゥを庇ったときを不意に思い出した。ああ、と夢を見た理由のひとつに行きあって、腑に落ちる。
「怖かったよ。仲間が怪我をするのは、いつだって怖いさ」
僕が魔法使いに弟子入りしたのは、第一線で活躍する冒険者になりたかったからじゃない。僕は魔法使いの研究の部分に魅力を感じて、流れで冒険者になってしまっただけだった。
そうだ。僕は本来、研究をしながら穏やかに過ごすことが目標だった。
今になって、改めてその記憶が切実に蘇ってくる。穏やかな気持ちを思い出すきっかけが、いつも敵対してきた魔族であるルゥの体温なのだから、未来は分からないものだ。僕はルゥのほうに身体を向けて、その小さな身体を胸の中に抱き寄せた。
「フェイは戦ってたんでしょ?」
「それでも、怖いんだよ。ルゥが倒れてるのを見過ごせないくらい」
その言い分は説得力があったらしい。ルゥは最初、僕の態度の疑念を抱いていた。
「フェイは人がいい。優しい」
「臆病なだけだよ」
「臆病な人は、ボクを庇って怪我したりしない。ボクのために魔力を渡してくれたりしない」
「それは僕が、ルゥが傷つくのが嫌だったってだけで、君のためだけに動いていたわけじゃないよ」
それはどこか言い訳めいていたかもしれない。
ただ、放っておけばルゥは死んでいたかもしれないのだ。そこに必死になるのは、人として間違ってはいないだろう。自分に関わりのある範囲で人が死ぬのを忌避するのは、防衛本能としても間違っていないはずだ。
「いい。それでも、フェイはボクを守ってくれた……助けてもらってばっかり」
「そんなことはないさ」
人格者のような評価を下されて、擽ったくなって言葉を濁した。半分は本気の否定だったが、半分はただの照れ隠しだったかもしれない。
「ある。ボクはなんにもしてあげられない。フェイに悪評を立てるばかり」
「そんなことを気にしてるのか」
「そんなことじゃない。ボクがいなかったら、フェイも怪我しなかった。違う? 難癖もつけられなかった」
ルゥの言い分は間違ってはいなかった。
確かに、彼女たちが頑な態度を取り続けた一因に、ルゥの存在は揺るぎない。適当に誤魔化したところで、あの敵愾心を忘れられるものではないだろう。
僕ですら、腹の底に揺蕩う怒りに似たものを抱えている。ルゥがどの感情を有しているかまでは分からないが、記憶からなくなるなんてことはない。ルゥは学習能力の高い賢い子だ。一度覚えたことは、きちんと覚えている。
「そうだな。でも、ルゥがいてくれて僕は助かってる」
「何が?」
「家事全般をしてくれるし、気が利くし」
「家政婦扱い?」
「助けてくれてることをあげてるだけだろ?」
少し頬を膨らましたルゥに苦笑した。
間違いなく助かっていることだ。楽ができるという自分本位なものだが、それでもルゥのおかげで楽ができている。それこそ、研究に邁進する望んだ日々を手に入れられていた。
「研究が捗っているのは君のおかげだ」
「いなくても、フェイは研究するでしょ?」
「でも、あんなに集中はできない。ルゥが話を聞いてくるから、曖昧にはしておけない。弟子には負けられないしな。切磋琢磨できる仲間がいると楽しさは倍増するよ。メルができたのも、君のおかげだ」
「メルは凄い。フェイも凄い」
メルの働きを思い出すだに、興奮することなのか。キラキラとルビーのように美しく瞳を輝かせて僕を見上げてくる。夢とは違う。その姿を見ていると、悪夢が癒やされていった。
「メルはルゥのためのものだから、君が気に入ってくれたのなら嬉しいよ」
「フェイはボクにくれるばっかり」
「メルの研究結果は僕の成果として残してあるから、この先魔術機械を作製してお金にすることもできる。いい成果だよ」
「……お金、心配ある?」
メルの成果は、ルゥだけのためだけに活用されるものではない。それを主張したかったのだが、別の問題に着目してしまってようだ。
僕は胸の中にあるルゥの両頬を包む。それから、横髪をくしゃくしゃと掻き混ぜるように動かした。
「心配ないよ」
「でも、ボク」
「さっきも言っただろ? ルゥも魔術具を作ってくれればいい。それに、ルゥは家事をやってくれてるだろ?」
「それは、当たり前」
「当たり前じゃないよ。家事だって金銭が発生していい仕事だ」
「そうなの?」
これは人間界にも浸透している考えなのかは分からない。
だが、僕にとってはそうだった。それをさも人間の常識であるように振りかざす。そうすれば、ルゥは飲み込むしかない。その後納得するかはルゥの思考力の問題だが、知識として与えることは大事だ。
「だから、君は十分に仕事をしている。生活費はその報酬だ」
「髪飾りは?」
装飾品にかかる費用も、生活費に分類したって構わない。しかし、ルゥはそう思っていないようだ。
「臨時収入ってやつだよ」
「そんなものをもらうようなことをした?」
「ご褒美がないと頑張れないだろ?」
「フェイはやっぱり人がいい」
困ったように眉尻を下げる。僕の背に回った腕に力がこもった。頬を包んでいる手のひらに、顔が寄せられる。甘えるような仕草をすると、本当に小さな女の子のように感じた。
「ダメか?」
「ううん。フェイの弟子になれてよかった」
「……そうか」
くるくると指に髪を巻き付けるように撫でる。体温を分け合うような仕草が心地良くて、心が休まった。
悪夢の影は遠のいていく。彼女たちはまたやって来るけれども、ひとまずは考えを横に置けるほどのものであった。
そうして気が沈着すると、うとうとと眠気が襲ってくる。時間は、まだ深夜だった。もう一眠りでも二眠りでもできてしまう時間帯だ。僕はくわりと欠伸を噛み殺して、瞼を落とそうとする。
「もう、眠ろうか」
「眠れる?」
「うん。ルゥは怪我しないし、へっちゃらなんだろ?」
「変な理由」
不思議そうな、笑いを堪えるような。半端な表情を浮かべた。ルゥの表情筋も一筋縄でない感情を作れるようになったのだと思うと、感慨深くなる。その平和的な感慨に、睡魔は力を増した。ほとんど瞼が落ちて、意識が薄れていく。
そこに、そろそろと。言い出すタイミングを計って、計りそこねたみたいな、中途半端なころにルゥの声が響いた。
「……いい夢、見たい?」
「いい夢……?」
その復唱は、ほとんど無意識だ。ほろほろと砕けた口調が零れる。
「見られる。ボクなら、見せられる。サキュバスの力」
「……ルゥ、大丈夫。僕は君がいればいいんだ」
「いい夢じゃなくていいの?」
「ルゥがいる現実で十分だよ」
思考回路は正常に繋がっていたとは言い難い。僕は夢見心地。眠りと現実の狭間で、ルゥの問いに答えていた。
その後どうなったのか。まったく覚えがないうちに、深い眠りに落ちていた。
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