魔の食事事情③
「ルゥ。無視して悪かったよ。寝るから、避けてくれないか?」
自分が無視したかどうかの記憶はない。だが、そんなことにこだわっても仕方がなかった。僕の落ち度であるのだから、素直に謝罪するだけだ。
これは女性とパーティーを組んでいた際に学んだ、立派な処世術だった。
しかし、ルゥはほんの少しも反応してくれない。よっぽど怒り心頭なのだろうか。今までこんな無愛想な態度を取られたことはない。なんだか胸騒ぎがして、気がそぞろになった。
魔族の機嫌を損ねてしまった、なんて味気ない危機感ではない。ルゥを怒らせてしまったのかもしれない、という切実な猛省だ。
「ルゥ?」
自分でも情けないほどの弱々しい声が出た。
そのうえで、ゆるゆると塊の肩辺りであろう場所を揺らす。思った以上に、揺れる身体が重い。かなり脱力しているようだから、眠っているのだろうか。
寝起きはさほど悪くなかったが、眠りが深いのがルゥだ。無理に起こそうとしたことがないので、手こずるのかどうかは知らない。
僕は最初よりも強めにルゥの身体を揺さぶる。それでも、起きる気配はない。身動ぎもしない硬直具合には、さすがに違和感が膨らんできた。
布団を剥ぎ取って、身体をこちら側に転がす。ルゥの顔色は真っ青を通り越して真っ白だった。
「ルゥ!」
声を高くして呼ぶと、瞼が薄らと持ち上がる。隙間から覗く赤い瞳は潤んでいて、いつもよりも色味が暗い。
「どうした?!」
張り上げた声のボリュームを保持して声をかける。これでないと反応をしないということは、聴覚もおかしいはずだ。
「力が…入らない。重くって……魔力がなくなったみたい」
的確な表現は、現状を把握するのに役立つものだった。
慌ててルゥの脈を測る。薄い。
冷や汗が噴き出した。
直接肌に触れるために、顔を包み込んで確かめる。体温も低い。いつも隣に眠っていたのが功を奏した。そうでなければ、魔族の体温など、僕が把握できるはずもなかっただろう。
「腕輪を外すぞ。ご飯は食べたか?」
ここまで消耗する理由が毛ほども思い浮かばない。魔族特有のものでなければ、栄養の問題だけだ。
ルゥは規則正しい生活を送っている。そんな問題が発生するとは思えなかった。だとすると、腕輪の効果が効きすぎている可能性もある。ルゥは僕が保護してきたその日から、一度も腕輪を外していない。
「食べてない」
「動けなかった?」
「うん」
声も枯れ葉が擦れるようにか細い。できるだけ喋らせたくなかったが、現状を把握もできなければ対処もできない。やむなく質問を重ねた。
「何なら食べられそうだ? 何が食べたい? 必要なものが分かるか? 魔族特有の心当たりでもいい。今は夜だ。それでも調達可能なものなら言ってくれ。飲み物だけでいいなら、ひとまずそれでもいい。ダメなら栄養剤を調合するから、正直に言うんだ」
できるだけ細かくという思いが、矢継ぎ早になる。
ルゥは頭も働いていないのか。じっくりと噛み砕くように言葉に耳を傾けていた。それから、よくよく思考を巡らせるかのように間を置く。
見る間に体調が悪化しているわけではないが、触れている体温の低さはじっとりとした嫌な予感を貼り付けた。時間が惜しいと焦燥感が高まる。だが、必要以上にルゥを急かすこともまた負担になりそうでできない。
しばしの間、僕はルゥの言葉を座して待った。
「……サキュバス」
噛み合わない単語が戻ってくる。僕は思考を停止させてしまった。
食べ物の話でなぜ種族の話に……そこまで考えて、ようやく思考が繋がる。
はっと視線を投げたのは、角と尻尾だ。僕はルゥをルゥとして認識するようになっている。魔族であることに頓着しなくなった。だが、それは決して無視してはならなかったのだ。
「服を捲るぞ」
サキュバス。
僕にある知識から、確認できる方法はそれしかない。ルゥの返事も聞かずにシャツの裾を捲って、腹部を視認する。そこにあるのは、サキュバスだけが持っている淫紋だ。
娼婦に身を落とした子が、自分の身分を偽って守るために刺青として入れることもあるらしい。だが、このひとりきりで生きてきた魔族が刺青を入れるタイミングなんてありはしないはずだ。
そして、その淫紋はかなり薄くなっていた。これは魔力不足を示すものだ。いつからこんなに薄かったのか。僕が今まで気がつかなかったことを考えると、少なくとも出会うより前のはずだ。
行き倒れるような生活では、魔力補給もままならなかっただろう。魔力は時間経過で回復するものだが、それには休息時間や栄養状態が大いに関わってくる。ルゥの状況でそれは望めなかったはずだ。
だとすると、枯渇も近い。
僕はルゥを見下ろして、呆然と立ち尽くした。……サキュバスの魔力不足は、普通のそれと違うものがある。
精飲だ。
そうして、魔力を補給する。
普通の人間の場合、魔力は体内で生成されるものだ。回復薬は体内の魔力を活性化させることで、回復力を増幅する。それを回復と呼んでいた。魔力を直接注ぎ込むことはしない。
それが起こり得るのは、体液の交換をしたときくらいのものだ。つまり、性行為をしない限り、人間同士で魔力を注ぎ合うことにはならない。
それを行って魔力を補給……奪取するからこそ、サキュバスはサキュバスなのだろう。彼女らはそうして他から魔力を補給しなければならない。それは脅威でもあるが、弱点でもあった。
ルゥがこうして衰弱しているように。
薄らと開いていた瞳は、僕が葛藤している間に閉じてしまっていた。眠気に襲われているわけではないだろう。もはやこれは、昏倒のはずだ。部屋の中で、行き倒れている。
僕はベッドのそばに棒立ちして、そんなルゥを悄然と見下ろしていた。
このサキュバスを救うために必要なのは、人間の体液だ。
汗、涙、血液、唾液……何も精液にこだわらなくてもいい。だが、汗や涙、血液を今のルゥが回復するほど流せるわけもなかった。血液など、悪ければ共倒れだ。
唾液は精液に比べればいくらかハードルは下がるが、下がったところで頭上遥か彼方に違いない。
ルゥは魔族でサキュバスだ。その馬鹿高いハードルを通常としているものだ。準ずるべきなのだろう。だが、僕にとってルゥは庇護している見た目の幼い女性でしかない。
奥歯を噛み締めて、ルゥを見つめた。
くぱりと小さく開いた唇から、微弱な呼気が漏れている。唇が紫になり始めていた。蒼白している顔面に垂れる深い紫苑の髪が、やけに毒々しい。くたりと力なく転がっている体躯。いつもは気分によって蠢く活きのいい尻尾も、今はベッドから落ちて地面に伏せていた。
腹部の淫紋は薄く掠れている。それがルゥの命の灯火だ。
心臓を絞られるような痛みに、瞼を閉じた。そんなことをしてみたところで、網膜に焼き付いたルゥの衰弱姿は拭い去れはしないし、事実だってなくなりはしない。
丹田に力を入れて、目を開いた。僕は魔法使いで研究者だ。真実から目を背けるわけにはいかない。
長く息を吐いて、少しでも気持ちを静める。
それから、ごそごそと腰のベルトを弄った。震える指に力を込めて、覚悟を決める。
追い出すことすらできなかった僕が、みすみす見殺しになんてできるわけがない。腹を括るしか道はなかった。
必要なものを取り出してから、改めてルゥに向き合う。
意識があるのかも分からない。その頬に指を伸ばした。ひんやりとした触り心地が、気持ちを急かす。
そのくせ、指先は壊れ物に触るかのように慎重にしか動かなかった。急げば、命の灯火がその余波で消えてしまうとでもいうかのように、怖々とした動きになる。
頬を撫で、顔に垂れた髪を払った。固唾を飲んで見守るも、ルゥの反応はない。
僕は髪を払った手のひらを頤にかけた。それから、初日に回復薬を飲ませたときと同じように、小さな顔の頬を押さえ込んで唇を開かせる。きらりと覗いた八重歯と赤い舌に、生唾を飲み込んだ。
これは回復のためだ。救命措置だ、と自分に何度も自己暗示をかけた。そうでもしなければ、とても正気を保ってなどいられない。
こんな前後不覚の女性相手に、強引にことを運ぶのだ。罪悪感と背徳感が凄まじい。
僕は最後にもう一度覚悟を決めて、唇を見つめた。
それから、唇をこじ開けて、咽喉に体液を流し込む。
僕はそのまま彼女の回復に励んだ。
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