第7話 幕間1
12月初めの朝は悲鳴が聞こえるところから始まった。耳を打つ音で目を覚ますのはわたしにとって日常だけど、聞こえてきたのは家業でやっている養鶏のニワトリの声ではない。これが人の悲鳴で、わたしの母親のものだと分かるのにしばらくの時間が必要だった。
「お母さん!?」
寝ぼけた頭がハッキリしてからは早かった。母があんな悲鳴を上げるなんて何かとんでもない事が起こったのだ。そう思いベッドから跳ね起きて、パジャマ代わりに着ていたジャージの上下のまま部屋から飛び出した。いつもはベッドから出る気をなくす寒さもこの時は全く気にならなかった。
部屋を出て、母の悲鳴はどこからと思っていると今度は父の怒号が聞こえてきた。母屋に隣接する鶏舎の方だ。
「お前ら、何なんだ!? 何をしている!? 鶏……っ! 泥棒かお前らっ! こらっ! ――あ……待て、馬鹿野郎、やめろ、やめろーっ!」
わたしが鶏舎に向かうと父の切羽詰まった声が聞こえてくる。それに混じってニワトリ達の悲鳴みたいな声がいくつも重なるように聞こえてきた。
猛烈に悪い予感がしてくるけど、自分の目で確かめないともっと嫌だ。そんな想いで母屋と鶏舎を分ける扉を開けて中を覗いた。
囲いの中から出て走り回る鶏がまず目に入り、床に倒れている誰かが居て、それに馬乗りになっている何かがいて、赤黒い液体が倒れている人から出て床を濡らしていて、鶏の白い羽根がその上に撒かれていて……理解なんて全く出来ない。凄まじく非常識で、ありえない光景を見ている。それだけは分かった。
何かに乗られてうつ伏せで倒れている人が不意に顔を上げた。額から血を流している男性。それが自分の父の顔だと分かるのと、父がわたしの姿を認めたのはほぼ同時だ。
「……逃げろ……」
「お、おとう……ひっ!?」
父がわたしに逃げろと口にした直後、父の背中に乗っている何かがわたしを見た。
朝早くの鶏舎は照明があっても薄暗い。その薄暗い中でこちらを見る目が異様にギラギラと光って見える。それが手に持っている大きなナイフも照明の光を反射している。ふいに昨夜見たモンスターパニック映画で獲物を見つけて口を開いたモンスターの牙を連想した。
姿かたちこそ小柄な人だけど、これは人間ではない。もっと獰猛でケダモノめいた危険な生き物だ。
一歩後ろに下がる。そいつはわたしが怯えていると分かっているのか、ゆったりとした動きで手にしたナイフを腰の鞘にしまった。襲う気が無い? いや違う。もっと良い武器に持ち替えるためにナイフをしまったのだ。
それはすぐ近くに転がっていたスコップを手にした。スコップの一部には血が付いている。それが父のものか母のものかは分からない。わたしは二歩下がった。スコップがコンクリートの床に擦れる音がやけに耳に残る。
――――ッ!
「ごめん、お父さん!」
唐突に鳴いた鶏の声に弾かれるようにしてわたしの体が動いた。同時にゆっくりと感じていた時間が加速される。色々な出来事が一気に押し寄せて、わたしの頭では全然処理できない。でも、逃げないとダメなのは分かっているから体は動いた。
母屋に駆け戻って玄関へ走る。後ろからはグギャだの、ギャギャだのとあれが発する声が聞こえる。追いかけてきた。母屋に戻れば大丈夫かも、というありもしない望みはすぐに消える。
玄関の床に置いているわたしのスニーカーに素早く足を突っ込んで、人生で一番早くクツを履いた。数秒だけ向こうの様子を見てみると、スコップを持った奴の後ろから同じような姿形の奴らが2体現れていた。増えた。わたしは絶望的な気分になりながら玄関の扉を開けて外へ飛び出した。
「あ、あ……うわぁぁぁぁっ! ああぁぁぁぁっ!」
外に飛び出した途端、胸にわだかまっていた色々なものが一気に噴き出して、気が付けばわたしは悲鳴を上げながら走っていた。
朝起きたら両親が良く分からない怪物に襲われて、自分も現在進行形で逃げている。何なんだこれは、訳が分からない。悪夢にしても出来が悪すぎる。理不尽すぎる現実に涙が出てきて視界がにじんでくる。
後ろからまだ聞こえる怪物の声に涙をぬぐって走り続ける。まだわたしは安全じゃない。逃げないと、でもどこに?
その時、不意に一人の人物が思い浮かんだ。近所に住んでいる猟師の人。家の直売所によく卵を買いに来て、時々猟で仕留めたシカとかイノシシの肉をおすそ分けに来る人だ。今の訳の分からない状況でも鉄砲を持っている猟師の人なら心強く思える。
奇妙なことにその人の容貌とかが全然頭に浮かんでこないけど、怪物に追われていて疑問に思う暇もない。場所は父と一緒に数回行ったことがあるので覚えている。
よしっ行こう、と足に力を込めて分かれ道で勢いよく方向転換する。すると耳のすぐ近くを風を切って何かが後ろから飛んできて、手近にあった街路樹にぶつかった……違う突き刺さった。
木に突き刺さったのは矢だ。弓道部にでも所属していないと日常ではお目にかかれない物が飛んできて、すぐ近くに突き刺さっている。飛んできた方向からはあの怪物たちが3体。そのうち1体は弓を持っていてわたしを狙っている。今の矢も方向転換しなければわたしに当たっていた。明確にわたしを殺しにきている。
「う、うああぁぁっ!」
胸からせり上がってきた恐怖が悲鳴という形でまた口から飛び出ていた。不幸なことにこの周辺は田畑が多くて開けた場所になっている。身を隠せるような場所は件の猟師の人のところまではまったく無い。
開けた場所なのでここからでも目的地は見える。雑木林に隣接した塀に囲われた家がそうだ。そこまでの距離をわたしは怪物から逃げて走りきらなくてはいけない。そうでなければわたしは死ぬ。
背中からやって来る明確な死の予感に押されて走る。もっと急ぎたいのに思うように足が進まないのがもどかしい。意思に反して上がっていく息に苛立つ。普段からもっと運動しておけば良かったと今更な後悔が浮かび上がる。
父と母がどうなったとか、そもそも後ろから追いかけてくるアレは一体なんなのかとか、警察に通報する時にはどう言えばいいのかとか、様々な考えが頭の中で浮かんでは消え、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだ。いっその事体が弾けてしまいそうな錯覚さえ感じる。
わたしの頭の中が良い感じに混乱していても足は確実に前へと進んでいて、猟師の人の家は近くなっていく。一瞬だけ後ろを見やると依然追いかけてくるアレの姿が三つ。でも、この距離なら家に辿り着く方が先だと思える。
向こうに着いたら何とか家に入れてもらって、警察に通報しないと。最悪、勝手に敷地に入らせてもらって隠れるなりしておきたい。
余裕がわずかだけど出来たからか混乱していた頭が少しずつ今後を考え始めたとき、わたしの考えを断ち切るように衝撃が襲ってきた。
唐突にすねに激痛が走る。最悪な事に走っていた中での軸足なので体勢を立て直す暇も無い。足が地面を離れて浮遊感、アスファルトの路面が目の前に迫る。
「あぐぅっ!」
体がアスファルトの路面に落ちる衝撃で反射的に声が出た。落ち着きかけた頭が再び混乱する。体が痛い。肌に感じるアスファルトが冷たい。なんでわたしは転んでしまったのか。痛みと冷たさと疑問が主成分の思考が頭の中をぐるぐると回る。
後ろから聞こえる足音とギギギ、といった鳴き声で振り向かなくても追いつかれたのが分かる。不意に妙なくらいに冷静な思考がやって来て、わたし自身の死を悟ってしまう。ここがわたしの死に場所だと諦めさせてくる。
後もう少しだったのにと思い、猟師さんの家を見やる。すると家の門柱の影に一人の人物が見えた。
まだ朝早くて暗い時間なのでその人のハッキリした姿は分からない。家主の猟師さんか、他の人なのかさえ分からない。それでもその人が門柱に隠れてこちらを見ているのは分かった。暗い中だというのに不思議とその人がどんな目をしているのかも。
今死ぬかもしれないわたしを何とも思わない、物を見るような無関心な目。そこに何の感情も無く、熱さも冷たさも無かった。
そんな目を見てしまったわたしは――
フィアー・ザ・モンスターワールド 言乃葉 @cotonoha
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