ソナチネ第1楽章

増田朋美

ソナチネ第1楽章

穏やかに暖かく、冬らしい日であった。こんな日は、のんびりと何処かへでかけたいと思うのであるが、なかなか行けないのが、世の常というものである。普通に過ごす日もあれば、落ち込んだ日を、過ごす人もいるだろう。それがきっかけに新しいことへの始まりということもあるから、つらい気持ちも、悪いものではないのかもしれない。

杉ちゃんが、ゴミ捨て場にゴミを捨てに行ったところ、ゴミ捨て場の隣の流れの速い小川の前に、女性が一人立っていた。

「お前さんはこんなところで何をしているんだ?」

誰にも遠慮しないで声をかけてしまうのが、杉ちゃんならではの特技なのかもしれなかった。女性は、普通の人なら走って逃げてしまうかもしれないが、なにか特別なことを思っていたらしい。杉ちゃんに声をかけられて、わっと泣き出してしまった。

「ははあ、その顔からみると、川に飛び込んで入水でも、するつもりだったか。確かにこの川は暴れ川で有名だからね。でも、それはやめておいた方が、いいぜ。お前さんのご両親や兄弟が、えらく悲しむよ。」

「どうして、こうやって行動すると、人に邪魔されるんですかね。もう少しでやっと楽になれると思ったのに。」

杉ちゃんに言われて女性は答えた。

「ということは図星だな。まあ確かに苦しいのかもしれないけどさ、この世に自らさようならをするほど、つらいものはないよ。」

「うそ、そんなことない。私が楽になるには、死ぬしかないんです。」

「死にたいんだったら、まず初めになんでもいいから話てみな。まあ確かに、公的な相談期間はなかなか繋がりにくいけどさ、でも、人に話すしか、人間にできることはないってこともまた事実だからな。ほんなら、僕の家へ来て、カレーを食べながら話してみな。はじめから頼むよ。そして、終わりまでちゃんと、聞かせてもらう。」

杉ちゃんはこっちへ来いといって、車椅子を動かしはじめた。女性は、もう逃げ場がないと思ったのか、杉ちゃんについてきた。杉ちゃんの家は、車椅子でもすぐ近くで、小さな平屋建てのいえだった。とりあえず、台所へとおされて、テーブルに座らされる。

「昨日の残りで申し訳ないんだけど、カレーを食べてくれ。悩んでいるやつは腹がへっているからな。思いっきり食べろ。」

と、目の前にカレーの入った器が置かれた。食べる気なんかしなかったのに、カレーを目の前にしたら、一気に食べたくなって、女性はカレーをかぶりついた。カレーは、あじもよく、野菜がたくさん入っていて美味しかった。

「ほら、お茶のみな。」

と、杉ちゃんにお茶を渡され女性は涙を流しながら受け取った。

「で、お前さんの名前はなんていうの?」

「斎藤文です。」

彼女は、初めて名前を名乗った。

「で、今日はなんで川に飛び込もうと思ったのか理由を言ってくれ。ちゃんと、文章にして喋ってくれよ。そうすれば、問題も明確になるよ。」

杉ちゃんに言われて、文さんは、こう語りはじめた。

「はい、何故かわからないんですけど、鬱になってしまって、いま、家事をするだけでやっとなんです。それで、先日、私が大好きだった祖父がなくなりまして。いまお葬式のことで家族はてんてこ舞いなんですが、私が鬱でつらいと言いますと、兄がそういうお前が一番邪魔なんだといったので、もう私は死ぬしかないと思ってしまいまして。」

確かに、冠婚葬祭で、精神障害のある人の存在は、非常に、問題視されるものだ。もちろんその行事には参加できないだけではなく、家族の負担は、たまらなく増加する。だから、悪気はないけど多少口が悪くなってしまうこともあり得る。

「まあ、そう言われたのかもしれないけど、お兄さんは本気で言ってるわけじゃないかもしれないから、入水なんてしなくても良いのではないのかな?どうしてもさ、人が死んだときってただでさえバタバタするし、いつもどおりの生活なんてできないから、ときには変な発言してしまうときもあるよ。」

杉ちゃんは、できるだけサラリといった。

「そうですけど、兄がああいうこと言うのでしたら、もう私はいるところがないですよね。確かにわかるんですよ。私は、働けないし、お金を作れないから、家族には使えない邪魔者なんだろうなって。だから、もう死んだ方が、楽になってくれるかなと思ったんです。」

「まあ、そうだねえ。どうしても人がなくなったとかそういうときは、自分のことばかりで精一杯で、入院してくれと懇願する家族もいるようだからな。お前さんもそんなかんじかな。じゃあ、提案だけど、僕の友達が、そういう障害のあるやつを預かる施設をやっているから、そこに行ったらどうだろう?お前さん、家事だけはできるといったな。料理や、掃除はできるかな?」

杉ちゃんはいきなり明るくいった。

「簡単なものであればつくれますし、掃除は毎日やってますが。」

文さんが答えると、

「ほんならちょうどいいや。製鉄所で女中として、働いてもらおう。家族には出稼ぎに行くといえばいい。ちょうど、女中が一人やめていったから、後任の女中が見つかってよかったよ。ちなみに、製鉄所はあくまでも施設名で、中身は福祉施設だから、安心してね。」

杉ちゃんは、そういって電話をかけ始めてしまった。

「新しい女中さんが見つかったぜ。いまから連れて行くから、準備してくれ。」

そういう杉ちゃんに、文さんは、もう逃げられないと思ったのだろう。杉ちゃんの用意したタクシーに乗り込み、二人で製鉄所に向かった。

確かに、製鉄所は、いわゆる八幡製鉄所のような場所ではなく、日本旅館のような建物であった。玄関は引き戸になっていたが、上がり框がなく、車椅子でも、簡単に入れるようになっていた。杉ちゃんが、運転手に手伝ってもらいながらタクシーを降りると、出迎えたのは、水穂さんであった。

「新しい女中さんが決まったようですね。間借り人の磯野水穂です。よろしくどうぞ。」

と頭を下げた水穂さんは、どこかの映画俳優みたいに美しい人だった。げっそりと、痩せていたがそれを除けば、本当に綺麗だった。

「えーと、お名前はたしか、」

「斎藤文です!」

杉ちゃんがそういうと、文さんはすぐに答えた。

「斎藤文さんですね。こちらこそ、よろしくお願いいたします。」

そういう水穂さんは、頭を下げたのと同時に少し咳をしたので、文さんは喘息でも、あるのかなとおもった。

「よし、とりあえず庭の掃除をやってもらうか。落ち葉がたまりすぎて大変なんだ。竹箒があるから、それで庭を掃いてくれ。」

「わかりました。」

杉ちゃんに言われて、文さんは中庭へいった。水穂さんに竹箒を渡されて、庭を掃いた。確かに中庭には大きな松の木が植えられていて、松葉がたくさん落ちていたので、庭掃除はかなり大変な作業であった。時々、水穂さんだろうか、誰かが咳をする声も聞こえてきた。利用者と呼ばれている部屋を借りている人たちは、みんなでかけてしまい、誰もいなかった。文さんは、それでも文句も言わないで庭掃除を続けた。庭を掃くだけでなく、石灯籠を磨くとか、池の石を磨くなどしなければならないことはおおく、かなり疲れる作業であった。でも文さんは、庭掃除だけでも、自分が必要とされているような気がして、嬉しく思った。それに、庭がきれいになってくれるの間近で見られるので、嬉しいきもちがした。最近は感性が良いために、不利なことが起こることを、HSPなどと呼んで、病人扱いすることも多いが、こういう小さな変化に気がつけることもあるのである。

彼女、齋藤文が、製鉄所の女中さんになって、数日がたった。

「今日は、浩二くんが、弟子を連れてくるから、特に庭をきれいにしてくれよ。」

杉ちゃんに言われて文さんは、

「はいわかりました。どんな人が来るんですか?」

と、思わず聞いてしまった。

「ああ、もちろん、水穂さんのところで、ピアノを習いに来る人なんだけどね。浩二くんのピアノ教室では賄いきれなくなると、水穂さんのところに習わせに来るんだよ。」

杉ちゃんがサラリと答えると、

「そうなんですか。ピアノか。それもいいなあ。あたしもピアノやりたかったわ。」

と、文さんは言った。

「なんで?文さんもピアノ習ってたの?」

杉ちゃんが言うと、

「ええ。高校までピアノ習ってたんだけど、病気になって、やめたのよ。先生のもとに通うのも、大変になっちゃってね。もうあのときは、本当に何から何まで大変だった。ただ祈るしかできなかったわ。また動けるようにって。」

と、文さんはちょっと恥ずかしそうに言った。

「そうか。長い人生だもんね。祈るしかできないときも確かにあるわな。それは、しょうがない事というか、どうしようもないことだけどさ、結構色んな人が体験してることじゃないかな?」

「そうね。あたしは、何もできないときは、なくなった祖父が勧めてくれて、お写経とか、そういうものに参加してたかな。確かに実質的には意味はないかもしれないけど、心を落ち着けるっていう意味では、そういうものに参加するのもありかなって思った。」

杉ちゃんにそう言われて文さんはそう答えた。

「それなら、お前さんだって、人に分けてあげられるものを持っているじゃないか。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そんな物ないわよ。あたしはただ、今をがむしゃらに生きてるだけよ。」

文さんはそこまで自信が持てないようだった。

それと同時に、

「こんにちは、右城先生いらっしゃいますか?今日は、お弟子さんを一人連れてきました。ちょっと変わった子で、何でもラベルのソナチネ第1楽章を弾きたいそうです。先生、見てあげてくれますかね。」

と、製鉄所の玄関の引き戸がガラッと開いて、桂浩二くんがやってきた。隣には、一人の若い男性がいた。まだ、20歳になるかならないかの若い男性であるが、なんだかとても疲れているような顔をしている。かおだけ見たら、とても若い男性にあるような覇気や気合は見られない。

「望月祐希くんです。ピアノは、子供の時習っていたようで、小学校の高学年でやめてしまったそうですが、おとなになってからまたピアノを再開して。今は、趣味程度ですが、続いているそうです。今日は気合を入れてラベルのソナチネを弾いてくれます。」

浩二くんがそう紹介すると、望月祐希くんと言われた男性は、ペコンと頭を下げて、

「よろしくおねがいします。」

と緊張していった。

「そんなに緊張しなくてもいいよ。じゃあそこにあるグロトリアンのピアノで、そのソナチネ第1楽章を弾いてみてくれ。」

杉ちゃんがピアノを顎で示すと、布団に寝ていた水穂さんが布団の上に起きた。祐希くんは、恐る恐るピアノの前に座って、ラベルのソナチネ第1楽章を弾き始めた。確かに、音の間違いは少ないし、ちゃんと弾けている。子供の頃にちゃんと練習していたのだろう。だからおとなになっても発揮できるのだ。

弾き終わると、杉ちゃんも水穂さんも拍手をした。

「とても上手な演奏であると思いますが、もう少し上の音を響かせて、内声をおさえましょう。もう一度頭からやってみてください。」

「はい。」

水穂さんに言われて、祐希くんは、もう一度弾き始めた。

「どうしても、内声を、強い指が担当してしまうので、大きくなりがちなのですが、かと言って力を入れてしまうと、この曲の持ち味がなくなってしまうと思うので、それを気をつけて弾けるといいですね。」

水穂さんは専門家らしく彼の演奏を聞きながら言った。祐希くんは、一生懸命上の音を響かせようと、頑張ってくれているが、どうしても内声ばかりが強くなってしまうようである。

「もう少し、小指や薬指など、弱い指を鍛えて弾くといいですね。」

と、水穂さんが言った。

「その技術の体得は、大変努力が要ると思うけど、頑張って体得できるといいですね。」

「ホントだホントだ。」

水穂さんに杉ちゃんも合わせた。

「なかなか難しいけれど、頑張って体得できる様にしてください。」

「ありがとうございます!」

祐希くんは弾き終わって、頭を下げた。

「何回かこちらで練習してみましょうか。すぐに完璧になどできやしませんから、ゆっくり焦らずにやっていきましょう。まず、上の音、つまりこれはメロディですが、これがよく響くように弾いてみてください。そのためには、周りの内声はおさえてください。それを心がけてやってみてください。」

水穂さんに言われて祐希くんは、そのとおりにしようとソナチネを弾き始めた。

「前よりは良くなりましたね。じゃあ、もう一度やってみてください。一度だけではなく、何度か繰り返してやってみれば、身につくと思います。常に意識することが大切です。」

水穂さんがそういうと、祐希くんは一生懸命そうしようと頑張ってくれている。

「ええ、まだ全体に大きいですが、人差し指中指に力をかけすぎないでやってみてください。」

「はい!」

三回目にソナチネを弾いたあとに、やっと高音が響くようになってきた。

「はい、なかなかいいですよ。頑張って努力されていますね。そこは素晴らしいです。」

祐希くんは額の汗を拭いた。

「なかなかできないやつも居るのに、一生懸命身につけようと頑張っているじゃないか。今どきの若者には珍しいな。なにかわけがあるのかい?なんか一生懸命頑張るやつってだいたい訳ありだよね。」

杉ちゃんがからかい半分でそう言うと、

「はい。僕の姉がちょっと大変なところがあるので、家にかえってもなかなか練習できないものですから、それで今頑張ろうと思って。」

と、祐希くんが言った。

「それはどういうことかな?」

杉ちゃんという人は、わからない事は何でも口に出してしまうので、ときに変なことを聞いてしまうことがある。

「いえ、大したことじゃないんですけどね。姉は20歳くらいからちょっと鬱見たくなってしまって。なんだか、体調を悪くして、回復することはできたんですけど、心まで回復できなかったようで。今でもずっと寝てるんです。仕方ないから、僕が姉の面倒をみているんです。でも、最近、お医者さんから、自分の時間を大事にするようにって言われたので、こうしてピアノを再開したのですが、そうしたら、桂先生が、もっと打ち込めるようにしようといい出しまして。」

祐希くんも誰か打ち明けられる相手が欲しかったようで、杉ちゃんに答えを話してしまった。

「そうなんだね。いわゆるヤングケアラーか。」

杉ちゃんの話す口調は軽かったが、深刻な問題なのかもしれなかった。

「それでは、そのままずっとお姉さんの面倒を見ていくつもりなの?」

浩二くんが祐希くんに聞くと、

「はい。そのつもりです。いずれは姉の面倒を見られる人物は僕一人になってしまうでしょうし。姉は、すごく感性はいいけど、生活感は弱いんです。だからそこは弟である僕がカバーしてあげなくちゃ。」

と、祐希くんは言った。

「うーんそうだねえ。そうやって献身的に看病するのはいいことだが、それは、長続きなんて絶対しないぞ。今だからそうやっていられるのかもしれないけど、長い年月それが続けば、絶対お姉さんを殺してやりたいほどにくいと思う日が来るよ。ここに居る水穂さんだって、一人ではなんにもできないけど、色んな人に支えられて生きているんだからね。水穂さんだって、未だに専属で世話をしてくれる女中さんはいないしさ。みんな水穂さんに音を上げてやめちまうんだ。最長で、一ヶ月だったかな。」

杉ちゃんは、祐希くんに言った。

「そのためには、自分は自分で、相手ができないことがあるときだけ手を出している、という姿勢をするのが大切なんですよ。だから、僕は、そういう時間を持ってほしいと思ったので、今日こちらへ連れてきたわけです。」

「だからもし、お姉さんから逃げたくても逃げられないほどつらい思いをするようであれば、いつでもこちらへ来てください。」

杉ちゃんに続いて、浩二くんも水穂さんも、そういうことを言った。みんなこの儚げな男性を応援している立場に回ってくれたようだ。だけど、斎藤文さんは、どうしてもケアラーの方へ称賛の目が行ってしまうことが、なんだか辛く感じた。それに気がついてくれたのか、水穂さんが、

「気にしないでいいんです。できない人はできる人の手を借りるのは当たり前のことだと思ってください。餅は餅屋ともいいます。大変だったり、つらい思いをしたのであれば、ケアする人もされる人も話を聞いてくれる専門家に話して見て下さい。」

と優しく言ってくれた。そういうことを言ってくれたのが本当に良かった。文さんは、水穂さんのその一言で、この若い男性に嫌味を言うのではなく、励ましてあげるべきだと思いなおした。彼のことを、批判するとか、そういう気持ちは全くわかなかった。

「もし、どうしようもなく、辛くて、自分ではどうにもならない状況になったら。」

文さんは、祐希くんに言った。

「どうにもならなかったら、祈ってください。無理して、なんとかしようとしなくていいです。変わろうとか変えようとかそういう事もできないときが、あると思います。そういうときは、祈ることが大事です。大事なのは、じっと待つことなんだと思います。そうすればいつか変われるときが来ると思います。」

「ほう。文さんいいこと言うじゃないか。もうそうなれば、先輩格って感じだな。」

杉ちゃんが、文さんに言った。

「いえ、こんな事何でもありません。私はただ自分の経験を話しただけのことです。誰でもそれ意外から学ぶことはできないじゃありませんか。」

と、文さんがにこやかに言うと、

「そうですねえ。歴史から学ぶことはできないですしね。文さんもそれを語れる人になれるといいですね。」

と、水穂さんがそっと文さんに言った。

「本当にありがとうございました。今日は、先生にレッスンしてもらって本当に嬉しかったです。なんだかもったいないくらいでしたけど、一日の思い出は大事にします。」

祐希くんは、にこやかに言った。

「そう思ってくれて良かったですよ。連れてきた僕も安心しました。」

浩二くんがそう言ってレッスンはお開きになった。



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