短編『予知草紙』
ひどみ
本編
「ねえキミ、そうそう、キミのことだよ。お若い学生クン」
住宅街を歩いている最中だった。
そんな風に言われると振り返ってしまうのが
だが今日は彼の背後に、怪しい手招きをする背の高い男が立っていた。つばの大きい帽子を深くかぶり、暑いのに足まで隠すほどの長い──俗にいうマキシ丈のコートに身を包んでいる。そして地面に接しているのに浮いているような違和感を覚えた。ともかく身に着けているもの全てが真っ黒なのと夕陽の逆光とで男の素性は隠されており、余計に朗は訝しまずにはいられなかった。
まあ変なやつだったらすぐ逃げればいいし。
そんな言い訳を内心考えていたが、声を掛けられて初めて人がいたものだから、彼の好奇心は底からみるみる膨れ上がっていた。
「俺……ですか?」
念のため辺りを見渡したが、二人以外誰もいない。それでもこう尋ねるのがお決まりで、そうでもしなければ自意識過剰な人間だと思われかねないという常識は彼の中でも当然あった。しばらく男は沈黙し、一匹の蝉の勇ましい鳴き声だけがそこに響いていた。
「嗚呼、キミと少し将来の話がしたいと思って。いや、キミの将来の話か」
朗は途端にがっかりした。高校三年で受験を控え、夏休みに入っても進路を決めきれずにいた彼は、家でも学校でも母親や担任に口うるさく将来を見据えて進路を考えろと言われ、心底うんざりしていた。
そんな呪詛の波から解放されるつかの間の放課後に、なんでよりによってその話なんだと思った。こんな青二才の自分が大人になったら何になりたいですかなんて聞かれてもわかりっこない。そう思うのは考えることを放棄したのではなく、彼なりに頭を悩ませた結果、とにかく自分には経験が足りないんだと気付いたからである。
だが朗のげんなりした顔を見た男は、説明が足りなかったね、と付け加えた。
「将来と言ってもほんのちょっと先のことだよ。ボクがキミの数十分後の未来を当てようというんだ」
そう言って男は、喉のどこから出しているのか訝しまざるを得ないほどに見た目よりも遥か幼い声でクスクス笑った。
──来た。来てしまった。
朗はごくりと唾液を飲みこんだ。
「実は俺もなんですよ。未来を予知出来るの」
「へえ? キミは普通の人間に見えるけど、案外凄い能力を持ってるんだね」
まるで自分が特別な人間みたいな言い方をするんだな。いや、こんな話を持ち掛ける時点で普通ではないか。
朗は小中学生の時分、日頃から好きな漫画を読み妄想を膨らましてきた影響で、どうすれば未来を予測したように振舞えるかを考えるような変な子だった。この事実が知れ渡れば恥ずかしさの余り不登校になってしまいそうだから、周囲の誰も彼もに一切を悟られぬよう過ごしてきた。もっともそのせいで幻聴が聞こえるようになったのかもしれないが。中学卒業と同時にその中二病も卒業したつもりだったが、再びその熱が沸き上がってくるのを感じた。自分の他にも同じことを考える人はやっぱりいたんだと、今は興奮さえしていた。
この男ともっと語り、同じ世界で勝負をしたい。頭の中は自分と似た世界なのか、または全く異なる何かが広がっているのか、知りたい。交流してみたい。そんな欲が渦を巻く。
ちらと腕時計を見る。時刻は六時五十三分五十七秒。
今ならアレが使えそうだ。
「俺と未来予知対決しませんか? ルールはこうです。順番に一つずつ、この後起きることを当てあう。そんで外した方が負け」
「良いね。面白そうだ」
「決まりですね」
幸いここが自分の住む住宅街だからある程度熟知している。しかも決まって毎日起きる事象が多い時間帯だ。相手に悟られぬよう注意を払いながら、もう一度時計を横目で確認する。
「じゃ言い出しっぺの俺から……行きますよ。“十五秒後、石田さんの家の明かりがつく”」
朗は二人が立っているすぐそばの家を指さした。
五、四、三、二、一、ゼロ。
彼がカウントを読み上げ終わるのと寸分違わず電灯に明かりが灯った。針は六時五十五分を示していた。
「なるほど」
男は満足げに頷く。
「ではボクは“その家の木にとまっている蝉が落ちる”」
彼が間髪入れずそう告げた瞬間、ずっと五月蠅かった鳴き声がぴたりと止んだ。
急に辺りがしんと静まり返り、朗は何とも気味が悪くなった。石田家の庭を覗き込むと一匹の蝉が仰向けに転がって死んでいた。
どうして予測出来たのか朗には分からなかった。ただ一言「すごい」とだけ口にしたが、そんなことより次の予知を話すまでの時間稼ぎをしようと試みる。
「ところであなたの名前は?」
「名乗るほどの者ではないよ」
「じゃあ、どこから?」
「近くて遠いところ」
「例えば……南極とか?」
「さあ、通ったかもしれないね」
「コート、暑くないんですか」
「ここは涼しくていい場所だ」
それからどんな質問をしても男は的外れな回答をした。
「さあさあ、キミは次にどんな未来を見せてくれるのかな?」
既に時は満ち準備は万全だった。今度は石田家の横の三浦家を見ながら朗が言う。
「“そこの三浦さんの家の犬が鳴く”」
直後、件の家の玄関から元気な犬の声がする。
よし……何とか上手くいった。
「ふふ、やるじゃないか」
感心した男は手袋を嵌めた手でぽふぽふ拍手して朗を讃える。
ここの主人は六時五十八分に終わるニュースを見てから散歩へ行くのだが、いつも犬が待ちきれなくてニュースキャスターがお辞儀をした瞬間に鳴き出すのだ。
何故そんなことを知っているかと言えば、朗がここの一人娘と昔からの馴染みで、つい数日前にもお邪魔したばかりだったからだ。程なく中型犬のダンゴを連れた主人が出てきた。
「よっ、朗くんじゃないの。かなで、呼ぼうか?」
「おっさんこんばんは。今日は大丈夫です。特に用ないんで」
「なんだぃ。道の真ん中に突っ立ってっと車に轢かれるぞ」
「俺は車ぐらいなら避けられますよ」
「でも高校上がってからは部活やってないんだろ? 鈍ってんじゃないの?」
「流石にそこまで運動オンチになってませんって」
「だな! 朗くんには要らぬ心配か」
脚が速く中学では全国大会にも出場したことで、朗はご近所の間でちょっとした有名人だった。豪快に笑い飛ばしながら主人は歩いていく。
「さて、ボクの番だったね。“あの犬が何か生き物を殺すだろう”」
「生き物? それは何ですか」
「まあ見てるといい」
蟻か、他の小さめなやつか──、だったら踏み潰すことも有り得る。しかしそれだとバーナム効果的な話になってしまうのではないだろうか。
「安心しなよ。もう少し大きな生物だから」
心を見透かされたような気がして朗は急に怖くなった。散歩をする前は騒ぐ犬だったが、いざ始めたら大人しく、真っ直ぐ歩いていたはずだ。何回もご一緒しているものの、何かを殺すような行動は見たことがない。
「あっ、ダンゴ! 今なんか食べたよな、むしゃむしゃしちゃ駄目だぞ。腹壊すからすぐ吐き出せ!」
黒い男の向こうで主人があたふたするのが見えた。何だ、何を食べたんだ、あいつ。
苦そうな顔で犬が吐き出したのは涎でギトギトになった白い蝶の残骸だった。
「も~、痛い目に遭うのはお前なんだからな、ったく。こんなの初めてだ」
やっぱり初めてなんだ。それをこの男が当てた。
どうやら“本物”の能力者と対面しているらしかった。少なくとも中二病から病み上がったばかりの朗とは全てがおよそ異なっているとみて間違いないだろう。
朗を支配するのは単なる恐怖ではなく畏怖そのものだった。それゆえにこの機会を逃すまい、目の前の男と渡り合いたいと、強く願った。ただ理性は完全に飛んでいて冷静な判断と記憶力を要する芸当はもはや出来そうになかった。
次に変化するのはなんだ。なんかあるだろ、ちくしょう。
朗が目を泳がせると、ちょうど熱心にスマホを見ながら男の後方数十メートルを歩く仕事帰りの女性を見つけた。恐らく二人の存在を認識していない様子である。予知というには無理があるだろうが、一度思いついてしまっては、きっと平静時には見つけられただろう他のアイデアもどこかへ漂流した。致し方ない。
朗は肩を震わせながら、同じく震える声音を男へ贈る。
「……十秒後、あなたは人とぶつかる」
言った後で気付く。それでは単に忠告をしたのと変わらず、男は女性を避けてしまう。朗の負け、そして勝負は終わりかと思われた。
「キミの負けだ」男もそう呟いた。
だが男は何の自信があるのか、微動だにしなかった。
それじゃ俺の言葉が当たってしまうじゃないか──。そう思った瞬間女性が突然眼前に現れると、朗とぶつかって二人とも地面に尻をついた。
「ごめんなさい! 大丈夫?」
「あ……大丈夫、です」
女性はすぐに立ち上がり朗の手を引いてから去って行ったが、その間彼はずっとぼうっとして何が起きたのか思案していた。
だが今度こそわけが分からなかった。男と女性は位相的に完全に同一の場所にいたように見えた…………つまり、男を透過したということになる。
男をもう一度つぶさに観察すると、最初に感じた違和感の理由に思い当たった。
有るはずの影が無い。そして先ほどの女性は男が見えなかった、というか、存在すら分からなかったらしい。
「次を当てたら、ボクの勝利かな? “キミの心臓が止まり、死ぬよ。一時間以内に”」
それを聞いた朗は膝がガクガク笑うのを必死にさすって抑えた。呼吸が浅くなり、幾度もえずくのは最早止められぬ。ついに自分の番が訪れたのだ。
思えばこの男の予知はどれも死に関連するものだった。
「お前が傍にいるとそうなるのか」
「そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない」
「お前は死神か?」
「そうだね、ドンピシャってやつだ。ボクは西洋地獄界死神綱目死神科死神属死神種の平凡な死神、ヒキュウくんだよ」
「……なんだ、名乗らないんじゃなかったのか」
「キミの最期だからね、特別」
そう言い終わるやいなや朗は彼に背を向け、身体全部を使って駆け出した。復活した自慢の脚で、誰にも追いつけない速さで。
──なめんなよ。全国の時の緊張に比べたら、こんくらい。
それがただの強がりだと気付く暇はなかった。
数えきれないほどの角を曲がり、いつの間にか大通りに来ていた。すでに数十分は逃げ続けていたが、人が増えるほど死の要因も増えると思った彼は走るのを止めなかった。いきなり隣のやつが豹変するんじゃないかと、人間全てが信用ならなかった。
爆発か、通り魔か、トラックか何かに轢かれるか。それとも──。いずれにせよ、思い当たるそんな死に方は御免こうむりたい。
ハァ、ハァと息継ぎしながら今後取るべき行動を模索する。
そうだ。病院にいれば、何があっても安心できる。病院に行こう。
我ながら良い考えだ。
「おーい! 朗ちゃん、ねえってば」
肩をたたかれ振り向くと幼馴染のかなでが立っていた。周りの人間は信用できなかったが、朗は彼女を見ると安堵のため息をもらした。
「なんだ、かなでか……」
「なんだはないでしょー。で、そんな息切らしてどうしたの。だいじょぶそ?」
かなでの手が大きく上下する朗の背をさすりさすり優しく撫でる。
「ちょっと、色々あってな」
「ふーん。あ、スーパー寄ってくんだけどさ、朗ちゃんも行こうよ」
「悪いけど、俺は今から、病……院に……」
そこまで言って朗は倒れた。
○
「あ~あ、だからちゃんと言ったのに。“心臓が止まる”って。全力で走った後すぐに立ち止まるからこうなるんだよ」
紅黒く染まる空の下で周囲の人間にTシャツを脱がされる青年を、ヒキュウくんは遠巻きに見ていた。青年からは蒼い炎が立ちこめている。蒼い炎は何らかの理由で死期が迫った生物の証で、ヒキュウくんは青年の中から小さな火が灯るのを見逃さなかった。だから彼に話しかけた。
会話を続けるにつれてその火は大きくなってゆき、彼にはその時が近づくと死因さえも何となく読める。蝉は老衰で、蝶は噛み殺され、青年はショックで心臓が止まると出た。
「うーんまだかなぁ」
ヒキュウくんはベンチに座って足をぶらぶらさせた。
青年が倒れたのを確認しても彼はそこを去れずにいた。いつまで経っても青年の身体から魂が分離しないからだ。抜けたばかり若い人間の魂は活きが良く、身体から飛び出してすづに専用の瓶詰で回収すれば大きな手柄となる。ヒキュウくんの回収のやり口はその強引さから死神界でも賛否分かれる「誘導型」と呼ばれるもので、前回も彼は同じような方法で魂を狩って闇市で売り飛ばし、五十年間に渡って遊んで暮らしてきたのである。
だが青年からは一向にお目当ての逸品が出て来ない。
なんだよ、しぶといなぁ。早くキミの魂を売ってまた自由極楽な地獄生活に戻りたいんだけど。
だんだん苛立ってきたヒキュウくんは青年のそばにしゃがみ込んだ。心なしか、徐々に蒼い炎が小さくなっているような気がした。
いやいや。死ぬとこ見たから。死んだ人間が生き返るなんて有り得ないでしょ。無駄なことしてないでさ。大人しく引っ込んでなよ、人間。
青年の幼馴染が心臓圧迫と人工呼吸をする度に炎は揺らめく。
誰かがオレンジ色の四角い機械を持ってきた。胸と脇腹に管の先が付けられる。
──え、何それ。聞いてない。
機械音声が何か言ったあと、青年の身体がびくりと激しく波打った。
「うわぁっ」
再び心臓圧迫が開始される横で機械を覗き込む。
「何だよ、これ。えーいーでぃー……?」
こちらの世界へ来る前に友人が「不勉強なお前は知らないだろうけど、今人間の心停止率が下がっていてな」と長ったらしく語っていたのを思い出した。ヒキュウくんは暫くぶつぶつ言いながら一人で考えていたが、やがて上がった人々の大きな歓声に驚く。
恐る恐る振り返ると、青年を包んでいた蒼い炎が消えていた。
涙を流して喜ぶ幼馴染に抱かれた青年が、したり顔でこちらを見ている。
その口が微かに「おあいこだ」と言っているのに気付いたヒキュウくんは、他の誰に見られるでもないのに、悔しさで歪んだ顔をコートの襟で隠して暗がりへ消えていった。
短編『予知草紙』 ひどみ @m__d__h
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