黒猫が鳴いた

ちょうわ

黒猫が鳴いた

 時は夕暮れ。

 十八時過ぎ、赤い太陽が沈んでいく。世界が燃えるような茜色に染まっていく。

 郊外、人気のない住宅街を歩く青年がいた。

 彼の名前はかすみ

 時々、スマホを見て、周りを見渡して、何よりも機敏にスマホに何かを打ち込む。指が止まるたびにニヤついて、前を向いて歩き出したかと思えば――またあるきながら、スマホを見て口角を上げる。

 かと思えば、表情は一変、舌打ちをして指圧強くスマホに打ち込んだり――。

「何もわかってないバカどもが」

 手入れがぞんざいな割に、痛みのないまっすぐにそろった髪を掻きむしった。また舌打ちをして、スマホ画面を凝視する。その真横を、自転車が掠めていった。

「っぶねーなぁ」

 自転車の軌跡を睨みつけながらも、霞の怒りは少し弱かった。

『いてもわかんねーよなー』

『もうちょっと存在感出せよ』

 頭の中で言葉が再生され、霞はけらけらと笑い出した。

「俺ってそんなに存在感ない?」

 にゃお。

 黒猫が鳴いた。

 青年の目の前にいた。笑うのをやめて、スマホのカメラを起動した。

 黒猫はすぐに動き出す。

 パシャリ。

 シャッター音が鳴る頃にはとっくに逃げられて、写ったのはフラッシュが反射し、ところどころ白い斑点の混ざった道路だけだった。

『黒猫に横切られたんだがwwwwwwwwww

 超不吉で草』

 わ、と打つだけで変換候補に現れた「wwwwwwwwww」をなんの迷いもなく押して、笑いの熱が消えた冷めた表情で「投稿」ボタンを押した。

 後ろからバイクが迫ってくる。エンジン音が大きくなっていく。

「あっ」

 霞の手から逃げるようにスマホが滑り落ちる。

 霞は、それを反射的に追いかけた。最接近したバイクのライトに照らされ、霞が自身の状況に気づいたときには声も出すことができなかった。

 スマホが画面側から地面に落ちる。

 甲高いブレーキ音と、鈍い衝突音がした。

 太陽は消える最中、月は頭の上だけを出していた。が、家々に遮られ、この事件の目撃者は、一番星のみであった。

 *

 霞が目を覚ますとそこは夜の河原だった。

 十六夜の月が煌々と光っている。

 一本だけ存在する梅の木が、月に照らされて、舞台照明のように不自然に浮き出していた。

 その木の下に、少女とも、大人の女性とも取れる人影が一つ。

「あたら夜の月と花とをおなじくは――あはれ知れらん人に見せばや」

 彼女との距離は、ほんの五メートルほど。声が、霞の耳にはっきりと聞こえた。ただ、学のない彼には意味の理解はとても高度なことだった。

「わたしはおぼろ。冥途の土産に教えてあげるわ」

 にゃん、と朧の膝の上の黒猫が鳴いた。二本のしっぽが揺れている。

「あなたはわたしの待ち人ではない――。だから、早く行ってちょうだい」

 朧はかなり離れたところにある船を指差す。船頭の顔は笠の影になってわからない。膝の上の猫が、苦しげな声を滲ませて一息吐いた。しっぽに一瞬、力が入ってまっすぐに立つ。朧は猫の背中に手を戻し、霞を見つめた。

 霞は、真っ直ぐに注がれた朧の視線から避げた。けれど、美しいという言葉では世の常な彼女の美貌を視界に入れないのが辛く、また彼女の顔を視界の端に据える。

 全てを見抜いたような深く黒い瞳を収めた切れ長の目に捉えられ、霞の鼓動が早くなった。

「あの」

 沈黙に耐えられず発した言葉が消えていく。瞬きをしないでただ一点、目を見つめられ、霞は頭を掻いた。

「何?」

 不機嫌そうな、語尾を荒らげた返事に一瞬喉を詰まらせた。が、浮ついた軽い様子で取り繕って、思い浮かぶままに口を動かした。

「いや、朧さんがきれいで……。ちなみに、ここ、どこなんすか?」

 ゔぁ、ゔぁ、と苦痛に耐える声で猫は鳴き続けていた。朧に背中を引っかかれていたが――猫は、逃げなかった。朧は、目を細め、笑った。目から白い部分がなくなる。猫を、頭からお尻まで優しく撫でた。

「ここは、三途の川」

「……は?」

「三途の川よ」

「…………は?」

 霞は、さも当然のように言い放った朧に驚きと疑いの目を向けた。猫は目を細めてゴロゴロと鳴いていた。

「あの歌の意味はね……この夜の素敵な月と、梅の花を、この風流がわかる人に見せたいな――。だからあなたは、わたしの待ち人ではないわ」

 梅の花の下、朧は人形のような、無機質な笑みをたたえた。

「花といえば、桜じゃなくて?」

 朧は黒猫を放して、立ち上がった。たったそれだけの動きに、霞は目を奪われた。朧の手が舞い散る花弁を掬い上げる。

「違うわ。私の中の花は、梅よ」

 雲ひとつない空から、白い、ゆっくりと落ちてくる雪。夜が、照り映えている。

 霞はしばらく呆けていた。だが、思い出したように、荒々しくポケットを漁りだした。

「そんなに慌てて、どうしたの?」

「スマホが――」

「これのこと?」

 朧が取り出したのは、黒色の板。画面が割れている覚えはなかったが、紛れもなく霞のスマホだった。

「返せ」

 半ば強引にスマホを奪い取った霞は、写真アプリを起動した。

 パシャリ。

 朧が世界から切り取られる。雪と花が宙で止まる。

 一瞬の美しさが、薄い板に収まっていた。まるで、梅の香りまで感じられるような、生きた一枚だった。霞は満足そうに、口角を上げる。

 朧の足元に、黒猫がまとわりついていた。

「写真、撮らないで」

 朧は霞の締まりのない笑みに不快な感情を覚えたことを隠そうともせず、スマホを取り上げようとした。

「……どうしても残したかったんだ」

 目をそらし、スマホを持った手を後ろにやる。朧はため息を吐いて、手を口元に置き、少し考えるような素振りをした。

「これあげる」

 朧はにわかに黒猫を蹴り飛ばした。苦痛に驚く叫び声を上げ、猫が地面に転がされる。

「そのかわり、これは貰うわね」

 そう言って、霞の首根っこを掴んだ。

「なかなかいい男、じゃない」

 空いた方の手で前髪をかき上げ、驚きで見開かれた目を覗き込んだ。月光に照らされできた影が重なり、一体となる。

「もうこんなところ、嫌よ」

 風が鼓膜を震わせる。微かに響く鳴き続ける猫の声を聞きながら、霞は何の疑問も持たず、遠のく意識に身を任せた。

「代わって」

 *

 一定の間隔で山型を描き、数字を表示する機械。白いベッド。そこに寝かされ、無数のチューブに繋がれた、一人の青年。

 声を発することなく、午前二時、真っ暗な集中治療室で意識を取り戻した。もちろん、誰もいない。

 麻酔の影響で、彼の身体はぴくりとも動かなかった。まぶたすら、彼の支配下にないようであった。

 彼の寝ている病院を見下ろす月は、朧気な光を発していた。

 それからひと月、青年は入院したままでいた。暇を持て余していたある日、家族が修理したスマホと二冊の単語帳を携えて見舞いにきた。頭を打って半身に麻痺が残り、ゆっくりと動くことはできたがまだ歩くことはできなかった。

 少しだけ膨らんでいる古文の単語帳と、それよりやや膨らんだ英単語帳。使い込まれた様子ではない。テスト前に申し訳程度に勉強されたのであろう浅ましさの読み取れる二冊を手に取った。スマホよりも先に手を触れたことに両親がほっとしたような表情を浮かべ、それから喜びを少しだけ表し、見舞客が置いていった果物を食べられるよう切ってから、帰っていった。

 少年は、りんごを頬張りながら、古文単語を眺めた。

 それからしばらくしてから退院し、車いすで学校に通い始めた。自宅で療養することもできたが、少年の希望で学校へと通うことになった。両親に送迎され、まだそれほど人のいない校門をくぐった。いつも混み合う時間をとっくに過ぎた通学路を走っていたことが思い出される。

 目に入るのは、青々しい葉をつけた桜の木。花壇に咲いた白いデイジーや赤いサルビアなど目に入らず、視線をあちこちに飛ばす。

 だが、探しものが視界のどこにもないことを悟ると、ため息をついた。

 校舎に入ると、普段は職員専用となっているエレベーターに乗り、自教室のある階まで昇っていく。教室に着くと、すぐに好奇の目にさらされた。それを笑顔で対応する。あるクラスメイトが言った。

「なんか変わった? 事故って人格まで変えるのかよ」

「……まさか」

 クラスメイトは面白がって事故、入院、エレベーターの話を聞きたがり、少年があらかた答えると、満足して普段の居場所に戻っていった。

 人が去った後、無言でスマホを触る。写真アプリを開き、一番最近に撮影された写真を選択した。

「うお、誰それ、お前の彼女? 超美人じゃん」

 後ろから覗き込んで来たのは、よく話していた友人だった。鞄を背負ったまま、少年の前の席に勝手に座る。

 少年は、ぼんやりと写真を眺めながら、返事を考えた。

「……俺の、前世」

「……なんだそれ、冗談キモいぞ」

 返事の代わりに笑って、スマホを操作する。

『一枚の写真 完全に削除してよろしいですか? ――はい、いいえ』

 ためらうことなく、はい、に指先が触れた。

 ちょうどその時、学校の柵をくぐって校内に侵入する黒猫がいた。それは用務員に見つかり、外に追いやられようとしていた。

 それでも諦めず、学校に無理やり入ろうとする猫。

「ねーあのねこちゃんしっぽがにこあるよ」

「見間違いじゃないの? お母さんには一本に見えるわ」

 通園途中の幼児が猫を指差して言ったが、母親は子供の戯言だと発言を流した。

「にこあるよー」

 不満そうに眉を下げるが、母親がもう一度見ても変わらないようで、

「一本しかないよ。猫又じゃないのに……」

 母親は子供の視力を心配し始めた。こんな小さい時から近眼なんて、と。

「いっちゃったー」

 幼児は残念そうに言う。猫はとある中年の会社員の前を横切っていった。

「にゃん」

「なんだ、不吉だな」

 その瞬間、小型のトラックが突っ込んでいく。運転手は座席に置いたスマホばかりに集中していた。

 真後ろを歩いていた女性が悲鳴を上げた。

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黒猫が鳴いた ちょうわ @awano_u_awawa

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