ブーンバップ・ギグ

志村麦穂

ブーンバップ・ギグ

 古いしきたりというものがある。

 避けられない運命というものがある。

 私たちは音楽の街に生まれた。文字通り、その身すべてを音楽に捧げる為に生を受けた。

 古い石畳の街並みは、潮風の風向きに合わせて季節ごとに音階を変える。住人たちは耳で季節の変化を知る。微かな音程の移り変わりを聴き分け、海面の温度の変化を知り、明日の天気を鼓膜で聴く。私たちは生まれついて耳が良すぎる。あらゆる振動の波長を読み解くことに長けた一族だった。

 耳先は細長くとがり、後頭部に向かって切っ先が伸びる。耳を垂らしたり、絞ったりして動かすこともできる。草食獣の視野のように音の聞こえやすい範囲を広く持っているのだそう。聴野の死角が少ないのだ。眉やうなじ、生え際の金色の産毛は、体中でもっとも敏感なセンサーとして働く。朝露が葉の表面から剥がれる気配も聞き逃さず、体格で異なる蟻の足音の違いも聞き分けることができた。しかし、それは私たちが恵まれた耳をもつ、ほんの小さな意味でしかない。

 私たち、ムゥザの耳は、心の震えさえも捉えることができた。

「貴方の音楽はまるで優れた彫刻よ。勇壮な肉の張り、流麗な衣服のさざ波、発露された一瞬の情感を永遠に留めることができる。素晴らしい演奏だった。打ち欠け、風化した腕の在処さえも、宝探し。空想の余白が、聞き手に対して解釈の余地を残す寛容さを示し、また評価の伸びしろでもあります」

 私たちムゥザにとって、音楽は最上級の表現方法である。その他の、舞踊、絵画、彫刻、果ては仕草や言語までもが音楽にとっては下位の表現方法でしかない。私たちは感情や意思疎通でさえも、一音吹けば表せるし、聴き取ることができる。日常生活でそれをしないのは、あくまで音楽の地位を高めるためであって、音楽がその作用を持たないからではない。そして、本当に感動する音楽というのは、相手から自然と音を引き出すものだと決まっている。

 つまりなにが言いたいのかというと、言葉を尽くしに尽くした賛辞ほど「お前はヘタクソだ」という皮肉が、ママの作るマッシュパイのチリみたくふんだんに、念入りに、恨みでもあるのかというぐらいに込められているのだということだ。

 出直してこいと、次の演奏者にオルケストラ(舞台前面にある半円状の土間)を追い出される。

 ムゥザの音楽堂オデオンでの私の演奏者としての地位は、下から一番か二番といったところ。成人を間近に控えた私が五歳の子にだって追い抜かされた。同世代の演奏者で舞台プロスケニオンへ上がることを許されていないのは私以外にはあと一人しかいない。

 すり鉢状の観客席テアトロンが見下ろす音楽堂の舞台。反響を計算し尽くされ、演奏がまんべんなく響き渡るよう設計された石造りの堂内で、嘲笑はよく聞こえた。

 私は偽管楽器ブルートを使って、次の演奏者のはじめの一音に被せて、不快感を表す不協和音を思いっきり吹いて音楽堂を駆け出した。私を足で押し出した仕返しだ。堂々と唾を吐いてやった。


 我々ムゥザは演奏家になるべく生まれ、音楽にその生涯を捧げる音の奉仕者であり、音の体現者である。我々は楽器であり、指先であり、表現そのものである。

 楽器にして演奏家。

 私はこのムゥザに刻み込まれた宿命が嫌で仕方なかった。

 ムゥザのしきたりで、成人に至ったアマチュア愛好家は、自らの楽器を手に入れ、街を出なければならない。楽器ひとつで世界を放浪する演奏家となり、やがて音楽で自分の世界を表象し終わると、そのスコアを残すため、再び街に戻ってくる。音楽堂オデオンには、先人たちの『輝かしくも素晴らしい、壮麗かつ洗練された』世界観の楽譜スコアが壁に刻まれている。自らの楽器を持たないアマチュアたちは、偽楽器を作り終えたあとで、まずはこの世界観のスコアをなぞることから演奏家としての道を歩み始める。

 私の音楽嫌いは、まず偽楽器作りから始まった。

 偽楽器は自分の肉体の一部をつかって制作する。自分の感情と体の一部が共振することで空気を揺らし音を出す。木材や金属で作っただけの人間の楽器よりも表現にもどかしさが少ない表情豊かな道具だ。

 私の偽管楽器ブルートは、私の血と脂肪を混ぜてジャムにしたものを、膠で固めて薄い板状にしたリードを用いる。単に息を吹きかけるだけでは震えず、私の情感だけがこの血のリードを波打たせることができる。

 私がこのブルートを作ったのは三歳のときだった。痛みで嫌がる私の指を抑え、無理矢理穴をうがち、血を絞り出させる。尻の肉を鋏でカットして脂肪を取り出す。16になった今でもはっきりと覚えている。私至上最悪な思い出だ。皮を剥がされて偽打楽器にされたり、足の腱を引き摺り出されて偽弦楽器にされるよかは幾分マシではあったけど。

 そこからは演奏の漬けの毎日。寝ても覚めても、この街にいる限り静寂は訪れない。楽譜上に静寂が記されていない限りは、けっして音は鳴りやまない。極上の音楽たちが耳鳴りのように、私の脳を締め付けて離さない日々。それは音楽嫌いにとって拷問にも等しい。


 肩を怒らしたまま、家の扉をくぐる。自分の部屋に偽管楽器を投げ捨てて、ママがなにか言う前に再び家を飛び出す。できるだけ音の届かない所へ。

 市街の門を抜ける。港とは方角の違う、入り組んだ崖の続く海岸へと足を向ける。海岸線が風と波の浸食によって、多彩な音階の孔を穿ち、潮風がそれを好き勝手に吹き鳴らす。海の情緒、季節風の吹き過ぎたフォルテ、飛沫の気の抜けた炭酸みたいなブラシドラム。まだ音楽が追ってくる。

 繊細すぎる私たちの体では、自然界に音の生まれない場所などないに等しい。

 それでもあきらめずに海岸線を進むと、波と風から守られた隠り江に辿り着く。海から泳いで岩穴を抜けると、小さな砂浜があり、その奥にはどこにも繋がっていない小さな洞窟がある。周囲から隔離されて、波も風も届かない。可能な限り音楽から締め出された場所。私だけの秘密の安息地。

 そのはずだった。

 その日、そこには先客がいて、さらに最悪なことに、穴倉のなかで壁面にスコアを書きなぐっていた。乱雑な音はまとまりがなく、しかも彼女が使っていたのは偽楽器ではなく、人間の使う普通の道具だった。最悪に最悪は重なり、私はそいつの顔を見た途端、自分の口から想像上最高に汚い音を吐き出すことになった。

 私が音楽を嫌う、最大の理由。

 それは目の前の、ギグという幼馴染の存在だった。


 ギグは私の幼馴染にして、もうひとりの落ちこぼれ。同世代で舞台に上がれないもうひとりのアマチュアだった。

「あぁ、バップじゃん。楽器作りにはまだ早いと思うけど、もうちょっと待ってくれない?」

「ギグ……あんたなんかと楽器を作れるわけないでしょ! そもそも、ここは私の場所だったのに、勝手に入り込まないでよッ」

「うん……ごめん、ごめん。次からはそうしていいから、ちょっと黙ってくれる?」

 なによそれ!

 私は文句を口に出す代わりに、彼女の演奏を邪魔するように不協和音を重ねる。それでもヤツは眉ひとつ動かさなかった。

 私とギグは同い年で、同じ日に音楽堂で初演奏をした、いわゆる同期生の間柄。別に仲良く遊んだ思い出もなければ、デュオを組んだことも、セッションしたこともない。彼女の演奏は音楽堂で何度か聞いたことがあるけれど、『それはそれは華麗で超絶技巧に趣向を凝らした、見事なまでの独奏』で聴くに堪えなかった。いつも投げやりな癖に、音を聴いてもなにを考えているかわからなくて気持ちが悪かった。

 どんなムゥザでも、多かれ少なかれ演奏には感情や意志を乗せるものだ。周囲の嘲りによると、私は大変エンパサイズがヘタクソで、一等感度の低い受信アンテナだそうで、私自身の問題といえなくもないが。それでも読み違え、感じ間違いはあっても、まったく聴けないのは彼女だけだった。

 私の演奏は解釈違い古典の模造、ギグの演奏は勘違い前衛悪趣味と、装飾なしの率直な感想を漏らす演奏家もいた。

 そんなぜんぜん違う評価を受ける私たち落ちこぼれであったが、ひとつだけ共通したことがあった。それは不協和音。ハーモナイズの欠如だった。音楽において、調和だけは欠かすことのできない要素だというのに。

 私は他人の音を聴けない。

 彼女は他人の音を聴かない。

 そんなはずれ者同士、音を重ねることはおろか、言葉を交わすこともなかった。

 しかし、私たちの宿命に照らし合わせれば、私たちはどちらかが、どちらかの『楽器』にならなくてはならない。

「ねぇ、あんたはそれでいいわけ?」

 私は相変わらず感情の読めないスコアを尻目に、砂浜に腰を下ろした。

「いいって?」

 彼女は手を止めることなく、聞き返してきた。返事は帰ってこないと思っていたものだから意外だった。成人の日が近づいてきたせいで、彼女も多少は感傷的になっているのだろうか。そんな繊細な女には思えなかったけど。

「『楽器』のこと。このままだと、私たちで作ることになる。あんた、私の他にアテなんてないでしょ。同期はもうデュオなり、トリオなり、カルテットなりで、パートナーを見つけてる。ずっと前から決まっていた。そりゃそうよね、同期と交流してこなかったのは私たちぐらいなものだし」

「はっきり言ったら? 嫌われ者だ、って」

 一々癪に障ることをいう。

「生まれてから音楽しかしてこなかったんだ。出来損ないでも『楽器』をつくるしかない。私たちは人間じゃなくてムゥザなの。嫌だといっても、音楽からは逃げられない。私か、あんたか。せめて上手い方が演奏家になる方がいい」

「自分の方が上手いって言いに来たの? わざわざ?」

「……そうよ。他人に伝えられない音よりはマシだわ。私の方がまだ聴くことはできるもの」

 私たちムゥザは成人と共に、自らの楽器を作り、上手かろうが下手かろうが、一人前の演奏家として独り立ちする。お互いが心から理解し合い、共感し、音楽に共振するパートナーを『楽器』として作り変える。偽楽器は自分の一部を道具にしたが、本物の楽器は頭の中まで理解しあったパートナーを道具にするのだ。パートナーは作られる楽器によって人数が変る。歴代には十人のムゥザの骨を削り出して作ったグランドピアノを自らの楽器とした演奏家もいる。重要なのはパートナーと共振して、ハーモニーを奏でられることだ。優れた音楽を奏でることができれば、それ以外のすべてが些事になる。それがムゥザという生き物なのだ。

 私たちふたりは、同期と没交渉だったどころか険悪ですらあり、これまでパートナー候補がいたこともない。演奏家にしろ、楽器にしろ、自分のすべてを捧げる相手になるのだ。

 パートナーが決まっていないのは、私とギグだけ。自然と余り者同士パートナーにならざるを得ない。

 私は自分が楽器になるなんて、まっぴらだった。どんなに出来の悪い楽器でもないよりはマシだ。世界のどこかには私の音を聴ける観客がいるかもしれない。そうすれば少しは音楽に希望が持てるかもしれない。最悪だけど、このクソッタレな街を出て行けるなら、ほかに素晴らしいことはない。

 壁に刻み終えたギグが、鉛筆代わりの小石を放り投げる。

「私の音が聴けない理由を教えてあげるよ。私の音楽は表現方法ではないから。みんな感情や意志やら、内にある物を表現する為に音楽を使う。私は、私の中の感情を打ち消すため、癒すために音楽を使っている。私の音は常に私にしか向かっていない。だから、他人には響かない」

「なによ、それ。自分の演奏に酔ってんの? 音を使ってオナってるわけだ」

 ぐっと、私の喉仏が握りつぶされる。

「今すぐここで楽器にしてあげてもいいんだよ? 私じゃなくて、あなたでもいいんだ、バップ。どうせ、不出来な楽器にしかならない。ヘタクソな演奏家にしかなれない。バップは理解できないんじゃない。理解しようともしてないんだ。私の絶望もしらないくせに。音楽に正面から向き合ったこともないくせに!」

 爪が食い込み、皮膚が裂けた。気道がねじり上げられ、空気が閉じられる。

「逃げ回っていただけのあなたに、私と共振する資格なんてない。私はずっと独りで音楽に向き合ってきたんだ。私はこの世界の音楽を壊す為だけに、音楽を奏でてきたんだ! でも、でも、でもッ!」

 ちゃんと聴こえていた。

 それ以上は言葉にする必要はなかった。

 はじめて彼女の音を聴いた。

 馬乗りになられて、首を締めあげられて、死にそうになりながら。力を込められたその腕の筋肉の震えから、私の心はシンパサイズした。

 彼女の音は絶望だった。

 音楽の世界に対する激しい憎しみだった。

 しかし、彼女が音楽を滅ぼすために書いたスコアは、それが音楽であるが故に、新しい音楽の芽になってしまう。古いものを壊すだけに過ぎず、音楽という概念を破壊することはできない。彼女の憎しみの根源である世界の機構には傷ひとつも入れられない。そのことに彼女はスコアを描きながら気付いてしまったのだと、わかった。

 憎しみと絶望を共感させるための手段である音楽も、音として聴衆に消費され始めた端から彼女の感情は、表現された曲として音楽のなかに溶け込んでしまう。無数にある音楽のひとつとして埋没してしまう。

 表現の絶望。音楽の絶望。演奏家の未来への絶望。

 彼女のスコアは苦悶と絶望に彩られていた。

「なぁ、聞こえるか。私の絶望が」

 あぁ、彼女はこんなにも音楽を憎んでいたんだ。

 なんて不幸なんだろう。ムゥザに生まれなければ、こんなに鮮やかな絶望を描くこともなかっただろうに。彼女の苦しみの豊かさは、紛れもなく音楽と共に情緒を育まれた、この街と音楽の産物に違いなかった。

 ふっと、私の上から重さが、波のように引いて行った。

「わかったかい?」

 彼女は自分の体を使った激情の演奏を終え、ぽつりと言った。

 私は考えた。私はなぜ音楽が嫌いだったのだろう。

 私は私を煩わせる音楽が嫌いだった。私に干渉してくる他人と音楽が嫌だった。どうしても交わらなければならない、自分独りでは完結できない音楽が嫌で仕方なかった。誰かに聞かせなければ音は音楽にならない。人に聴かせなければ演奏家ではない。スコアは誰かに演奏されなければ存在し得ない。

 常に繋がりを求める音楽が嫌いだった。

 私たちは五線譜を飛び出した、孤独な音符になりたかった。

 ハーモナイズを拒絶した、独立音で音楽を成り立たせたかった。

「わからないよ」

 私はそう返した。

 十分すぎるぐらいに伝わっていた。でも、わかりたくなかった。わかるわけにはいかなかった。

 わかってしまったら彼女の絶望に加担することになるから。

 私の孤独を否定することになるから。

「そう。よかった」

 彼女は微笑んだ。

 そうして、拾い上げた小石を、自らの喉に突き立てた。


 私は入り江で彼女の体を解体した。

 道具は彼女が洞窟に揃えていた。はじめからそのつもりだったのだと、彼女が死んでから気が付いた。

 体を逆さに吊るして、首を割いて血を桶に溜める。血抜きが済んだら、皮を丁寧に剥いで、木枠に固定して乾燥させなめす。髪の毛は一本ずつ撚って、血と膠でコーティングして弦にする。腱は取り除いたあと、海水に浸してほぐし、削り出した骨と合わせて弓にする。骨に穴を開け管にして、歯を加工して鍵盤にする。

 私はギクを楽器にした。

 家に帰らず、一週間ぶっ通しで制作した。

 腹が減ったら腐りかけの彼女の体を食べて、その身に残る絶望の余韻に浸りながら手を動かした。

 そうして、楽器は出来上がった。

 演奏家は出立の日、例外なく音楽堂の舞台で演奏する権利が与えられる。

 成人の日、私はその舞台へと上がった。落ちこぼれが楽器を握り演奏家を名乗る。奇異の目線と嘲笑う鼻音が堂内を包み込んだ。

 一弦。つま弾く。

 彼女の血のリードが震える。

 鍵盤が腱を叩く。

 奏でるのは彼女が刻んだ、最後のスコア。音楽に対する絶望と、音楽であることへの絶望を綴った曲。

 ひどい不協和音が街中に響き渡った。

 誰もがこんなものは音楽ではない、と耳を塞いだ。

 そうだ、それでいい。このスコアの演奏家は、唯一ヘタクソであることが条件だった。それも彼女のスコアを理解せず、音楽として奏でられないような最悪の演奏家でなければ務まらない。

 ただひとつ、最低最悪の演奏だけが、ギグのスコアを音楽から隔離することができた。音楽への破壊を込めたスコアは、演奏されども音楽にはならない。音符をなぞっても曲にはならない。破壊する意志だけを人々に聴かせ広める。

 そして私は理解しない。ギグを理解しない。曲を解釈しない。他人を決して受け入れたりはしない。

 楽器を持ち、スコアを演奏するけれども、他人に音楽を届けない。

 私は私のためだけに音楽する演奏家。自分の為だけに放たれた音楽を、他人はきっと理解できないだろう。

 孤独を守り、絶望を守る。

 私たちふたり、演奏家と楽器は理解し合わない。

 でも、確かに私が弦をつま弾くとき、鍵盤を叩くとき、リードを震わせるとき。演奏という行為の一点でのみ、唯一交わるGIGことができる。

 私たちはめでたく街を追放された。

 これからは放浪の旅だ。

 孤独のなか、楽器ひとつを抱え、絶望のスコアを演奏して世界を回ろう。

 そうしていつの日か、音楽が滅んだ日に、私はやっと独りで音楽を奏でるのだろう。

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ブーンバップ・ギグ 志村麦穂 @baku-shimura

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