第七章 卑弥呼 1

 日没にはまだ時間があるというのに、視界の大半を占める空はすでに薄暗く、降り頻る雨の跳ね返りで嘉手納基地の滑走路はあやふやになっていた。


 格納庫の庇の下には、迷彩のレインコートを纏った警護の兵士が肩から小銃を下げて、五メートル間隔で並んでいる。未明の騒ぎでクレメンズが急遽配置したのだ。兵士たちの視線は侵入者がまた現れるのではないかと、雨に霞む滑走路の先に注がれていた。


 木之下慶作も兵士の隣で滑走路に目を向けていたが、見ていたものは全く違うものだった。七十四年前のあの光景――雨上がりの星空に浮かび上がっていた卑弥呼の祠だ。あの祠があったのは、ちょうどこの目の前の辺りだったのではないのか。


「そろそろ中に入りませんか」


 エリザがいない間、車椅子を押してくれている少女が言った。年恰好がセツ子を思い出させる美紗紀という少女だ。このままだとこの娘もスマートフォンと一緒に時間を逆行してしまうらしい。

 彼女がロボットではないと説明されて、これまで冷徹に計画を推し進めてきた信念が揺らぎ始めていた。

 美紗紀に振り返って頷く。美紗紀は優しく微笑み返して、作業員用のドアから木之下と格納庫の中へ戻った。


 スマートフォンに残されていたGPS位置情報の最後の時刻はとうに過ぎていた。プロジェクトチームの連中は其々の持ち場でその時を待っている。


 クレメンズがチームの数人を中央部に集めて、重力波検出装置の溝蓋を開けさせていた。美紗紀に頼んで、そこへ連れて行ってもらった。


「なぜ、此処から戻ってくると分かるのですか」


 クレメンズが白衣の巨漢――大賀と名乗っていた――に訊いていた。


「簡単なことっす。GPSの記録にあった時刻は過ぎちゃってますから、考えられる可能性は二つっす。ひとつは、もうタイムスリップしてるってこと」


「なんだと! 我々はこの日のためにどれだけの資金と労力をつぎ込んで……」


 色めき立つクレメンズを宥めるように手で制して、大賀くんは美紗紀の横に並ぶ。


「ところが、まだ美紗紀ちゃんは此処にいます。スマホに残されていた画像から、時間の逆行は美紗紀ちゃんとスマホが揃わないと起こらないと考えられます。だから必ず此処にスマホは戻ってきます。じゃあそれは何処か」


 大賀くんは芝居掛かって重力波検出器の溝を指差した。


「記録と矛盾が起こらないのは、GPSの電波が届かないこの地下道しかないっす」


 訝しむような表情を浮かべたクレメンズの傍らで、大賀くんが溝を覗き込んだ。


「おぉぉい! 増渕さぁぁん! いるっすよねぇ!」そう叫んで耳を澄ます。


 クレメンズも溝の中に耳を向けた。


 薄っすらと「いるよぉ、もう少しだぁ」と返事が聞こえた。


「ほらね」大賀くんが胸を張る。

「よかった」美紗紀が吐息交じりに呟いた。


 父親の博が涙を浮かべて近寄って来て美紗紀を抱き締める。この父親は侵入者の騒ぎが一段落して、美紗紀がロボットではないと打ち明けてから、ずっと泣いている。


 気持ちは分かる。死別ではないが二度と会えなくなるのだ。タイムスリップが起こる前にスマートフォンを吹き飛ばしてしまおうか。それでもこの計画が大きく狂うことはないだろう。爆発騒ぎが起こりさえすれば日本もアメリカも逃げ場はない筈だ。


「お父さん。本当に大丈夫だから」


 美紗紀は困ったような笑顔になって、バナナのマスコットが付いたイヤリングを外し、父親の手に握らせた。


「あっちでも生きていく自信はあるの。少し早くお嫁に行ったと思えばいいのよ」


 駄目だ。そんなことを言ったら逆効果だ、と木之下は思った。娘が嫁ぐ姿を想像させるなんて、それは父親にとって一番気持ちの整理が付かないことなのだ。


 案の定、博はイヤリングを握りしめて混乱したように泣き崩れた。あまりに不憫に思えてきて、また博の背中を撫でた。博が縋りついてくる。大切なものを失い、どうしようもない時の流れに逆らう者同士で、奇妙な連帯感が芽生えていた。


「ワタシガ、ミサキチャンヲ、マモリマスヨ」


 博は一度だけ首を横に振っただけで、何も応えなかった。


 並んでいる機器のひとつがビープ音を上げた。リーダーの髭の男が幾つもの波形を表示しているモニターを呆然となって見詰めている。そこにクレメンズやビデオカメラを担いだ記録係の隊員が駆け付けてきた。チームの数人も目を皿のようにして集まってくる。


「重力波を検出したみたいっすよ」


 大賀くんが美紗紀の横に来て、楽しそうに身体を揺する。


「ええっ」泣き崩れていた博が顔を上げ、「始まったのですか」と悲愴な声を出す。


「分かりません。タイムスリップ見たことないっすから。でも普通じゃないみたいっす」


 大賀くんが指差した先では、チームの面々がモニターを通して激しい討論を繰り広げていた。相手はオンラインで繋がっている米国や伊太利の重力波検出施設の研究者たちだと聞いている。


「これまで重力波は宇宙から降り注ぐ微弱なものを、世界中で連携して検出していました。でも今は此処だけが重力波を検出したみたいっす。それも相当強力な重力波らしいっすよ」


 あちらこちらの機械から立て続けにビープ音が鳴り出した。重力波の波形モニターに見入っていたチームの面々が慌てて所定の位置に戻る。

 其々の持ち場から響動めきが上がった。科学的な知識のないこの老体でも、途轍もないことが起こり始めているのは理解できた。


 無数の青や緑のドットが点滅している大型モニターに、赤色のドットが増殖していく。その隣のコンピュータ画面には白黒写真が映し出された。ぼやけた三日月のような映像だ。歓声が上がって何人かは握手やハグをしている。


「どうして、みんな喜んでるの?」美紗紀が興味津々の様子で大賀くんに訊いた。


 大賀くんは「世紀の大発見っす」と美紗紀を手招きして、格納庫の中央にある巨大な円柱――エリザがワイヤーチャンバーと言っていた――の前に連れて行った。

 博に車椅子を押してもらって跡を追う。


「この大きな筒は素粒子を検出する機械っす。これで光子を観測しているっすけど」


 美紗紀が困ったような表情になって大賀くんを見る。大賀くんは美紗紀が理解できていないと悟ったようで、優しく諭すような口調になった。


「光子っていうのは、光とか電磁波を伝える凄く小さな粒っす。この世の中は全てそういう小さな粒、量子で出来ているっす。で、その光子が……」


 大賀くんは三日月のような白黒写真を映し出しているモニターを指して続ける。

 

「重力を伝える量子に変身したっぽいっす。重力子と言って、人類がこれまで見付けられなかった十八番目の素粒子っすよ」


 すぐ脇で再び歓声が上がった。振り向くと、重力波検出器の溝からエリザが出て来くるところだった。エリザはパーカーに張り付いていた薄い氷をぱらぱらと払い落として、短く敬礼した。


「エリザ!」クレメンズが駆け寄って何やら英語で話し掛けた。無事で良かったとでも言っているのだろう。エリザは日本語で「増渕さんに助けられました」と応え、手を貸して溝から増渕くんを引き上げた。ぼさぼさだった増渕くんの髪の毛が凍って逆立っている。


 クレメンズが興奮した様子でまくし立てる。


「いま強力な重力波を検出している。重力子らしき素粒子も観測した」


 エリザはこれ以上ないほど眉毛を上げて驚いた様子だったが、すぐに落ち着きを取り戻して、モニターを確認するように急かすクレメンズを呼び止めた。


「その前に大事なお話があります」


「なんだね」勢いに水を差されて明らかに不機嫌になったクレメンズが足を止める。


「ドクター増渕が送ったスマートフォンのデータの最後の通話記録を調べて下さい。あれは侵入者が連絡した番号です。もしかしたら日米関係の修復に役立つかも知れません」


 クレメンズは顔色を変えて部下の兵士を呼び、調査の指示を飛ばした。エリザは増渕くんに目配せをして、彼が頷いて応えるのを確認すると、満面の笑みに変わってクレメンズと一緒に、波形を映し出しているモニターに向かった。

 

 その笑顔とは対照的に、悲しげな表情を浮かべた増渕くんがこちらに来て、視線を合わせるように正面で膝を突く。


「木之下さん。もう終わりにしましょう」


 切なさを纏った眼がまっすぐにこちらを見据えている。初めて会った時から勘の鋭い男だとは思っていたが、どうやら何もかもお見通しのようだ。増渕くんは車椅子の座面の下に隠していた爆弾を外して、その煉瓦ほどの塊を持ち上げた。


「昨夜、覆面の男に押さえ付けられていた時、見えてしまいました」


 止まっていた時間が動き出したようで、安らかな気分になった。この命に代えても騒ぎを演出するつもりだったのだが、巻き込まれる者たちの思いに触れるにつれて、セツ子との約束に執着している自分が分からなくなっていたのだ。


 セツ子と同じ年頃の美紗紀という少女は、未知の世界へ向かおうとする中でも希望を見出している。エリザもそうだ。科学の発展という未来への希望に突き動かされている。


 増渕くんは私の計画で時間が巻き戻っていると言った。確かに私はそれを望んでいた。戻せるものなら戻したかった。セツ子が殺されるそのずっと前の世界に。この七十年あまりずっと時間の流れに逆らって足掻き続けてきたのだ。


 基地を返還させるためには、日米同盟を解体させるしかない。セツ子との約束を守るためだ、と自分に思い込ませていた。しかし本当にそうなのか。自分の復讐心をセツ子との約束という思い出で覆い隠していただけではないのか。


 セツ子が生きていればどうしただろう。恐らく誰かが犠牲になるのなら、邪馬台国がどうなろうと構わない、そう考えたに違いない。そんなことは最初から分かっていた筈だ。毎日のように轟く戦闘機の爆音が、それを忘れさせたのかも知れない。


「こんなことをしなくても、木之下さんの想いは成し遂げられますよ」 


 増渕くんが出し抜けに言った。


「その仕掛けを考えました」

「シカケトハ?」

「過去を変え、邪馬台国を消滅させないための仕掛けです。もうすぐ到着するそうですよ。刀根さんからメールがありました」

「カコヲ、カエラレルノデスカ」

「はい。うまくいけば、美紗紀ちゃんも助けられるし、邪馬台国の調査も実現できると思います」


 そう自信たっぷりに言ったあと、増渕くんは「それに……僕も過去に向き合えるかも知れませんから」と、なぜか申し訳なさそうな小さな声で付け加えた。


「アノショウジョモ、タスケラレルノデスネ」


 増渕くんが深く頷く。


「キミタチニ、ユダネマス」


 差し出された爆弾の起爆装置を解除した。


 すぐ後ろで聞いていた博が、「ミサキⅡが間に合うのですか」と涙を拭う。ミサキⅡというのがロボットのことなのだろう。それが過去を変える仕掛けなのか。


「そのようです。まあ、あんな人ですからメールは短いものでしたけど」


 そう言って見せたマリのメールには、〈そこで待っていなさい!〉とだけ書かれていた。


 実にマリらしい。常に前を向いているこの若者たちなら、きっと何かを成し遂げてくれるだろう。エリザに向かっていく増渕くんの背中を見ているとそんな気がした。


 増渕くんから爆弾を受け取ったエリザは、起爆装置が外れているのを確認して、足元にあったゴミ箱に放り込んだ。そして何事も無かったように、増渕くんとワイヤーチャンバーの脇に設置された階段を上っていく。


 格納庫に居た観測チーム全員が息を呑んで見守る中、二人がストロンチウム光格子時計の上に作られている台座の前に立った。まるで結婚式場でケーキカットする新郎新婦のようだ。増渕くんが胸ポケットからスマートフォンを出してそこに置く。


 ……沈黙。


 機器から上がっている低音のノイズと、外から聞こえてくる雨の音だけがその場を支配した。


 三十秒か四十秒……少し間があって、次々とビープ音が鳴り始める。エリザと増渕くんが慌てて波形モニターの前に戻った。博が二人の傍まで車椅子を押してくれた。大賀くんも美紗紀を連れてやって来る。


 エリザと増渕くんがモニターに釘付けになっている。画面に映し出されている波形がどんどん大きくなり、エリザが「凄い重力です」と驚きの声を上げた。


「なんか目が変になったっすかね」


 ワイヤーチャンバーの方を見ていた大賀くんが何度も目を擦っている。

 確かに変な光景だった。スマートフォンの周りが蜃気楼のように揺らいでいて、円柱の後ろにある筈の機器がまるで横に並んでいるように見えている。増渕くんがその不思議な光景を見てエリザに言った。


「空間が歪むほどの重力です」


 エリザが視線をそこに移そうとすると、ひときわ高いビープ音が響いた。ストロンチウム光格子時計の共鳴周波数を表示しているモニターからだった。高速で打ち出されている数列が黄色から赤に変わって点滅を始めた。

 

「時間が遅くなっている」エリザが誰に言うでもなく呟く。


 チームの誰かが、「ディタクティング、タキオン!」と叫んで歓声が上った。

「なに? なに?」と、美紗紀が大賀くんの袖を引っ張る。


「またまた大発見っす。タキオンといって光より速い素粒子っす」

「授業だと光が一番速いって教えてもらったけど……」 


 話している途中で、美紗紀が「わあ」と声を上げた。スマートフォンの周囲の歪んでいる空間に、無数の青い光の粒がちらつき始めた。観測チームの全員がモニターではなく目の前で起こっている現象に目を奪われている。


「まさか、こんな場所でチェレンコフ光が発生するなんて」


 エリザが唖然となって自分の口を塞いだ。


 青い光の粒は一点を中心に縦や横や斜めに回転を始めた。やがてその光の回転は中心点に向かって収斂し、スマートフォンの二メートルほど上でゴルフボールくらいの強烈な青い光の塊になった。それは見る見るうちに小さくなり、色彩を青から白に変えて、輝きを増していく。


「見ちゃ駄目っす」大賀くんが美紗紀の眼を手で覆って顔を背ける。


 皆が光の塊から視線を外した。格納庫の中のありとあらゆる物を光が飲み込んでいく。光源から眼を逸らせていたのだが、眩しさに露出が合わせられず、視界の殆どが光に塗り潰されていった。それまで聞こえていた音と共に現実感すら消え去った。


 真っ白の無音の世界が五秒か六秒あまり続き、急に目前の場景が音と共に復活した。重力波モニターには目盛りを大きく逸脱している波形が描かれている。エリザと増渕くんが眼を守っていた腕を下げて、光源のあった場所を見詰めていた。そこには小さな黒い塊が浮かんでいた。

 大きさは野球ボールくらいだろうか。あまりに黒過ぎて円なのか球体なのか判別できない。空間にぽっかりと開いた穴のようにも見える。


「シュヴァルツシルト。黒い盾ですね」


 エリザが自分に言い聞かせるように言った。黒い塊の周囲は一・五メートルほどの横に長い楕円形に空間が歪んでいる。先ほどの歪みとは違って、向こう側の場景が掻き乱され、砕かれたように小さな粒となって、黒い塊の中へ引き込まれていくように見えた。


「これが……ブラックホールなんですか」


 増渕くんが顔を引き攣らせる。


「へぇ、ブラックホールって初めて見た」


 歪んだ空間に歩み寄り始めた美紗紀を、大賀くんが慌てて呼び止める。


「みんな初めて見るっす。あんまり近付かないほうがいいっす」 


 博が美沙紀の手を掴んで引き戻した。娘を抱えて白衣の巨漢の後ろに身を隠す。


「お父さん、見えない! 見えないよ!」


 スマートフォンの置かれた台座に続く階段を記録係の兵士が登っていた。歪んだ空間にビデオカメラのレンズを向けている。その上着の袖やズボンの裾が風も吹いていないのに黒い塊に向かってバタバタと揺れていた。


 記録係が恐る恐る手を伸ばして歪んだ空間の中に入れた。その手が指先から細かな粒となって黒い塊の中に吸い込まれていく。記録係が耳を劈くような悲鳴を上げた。歪んだ空間から手が抜けないようだ。担いでいたビデオカメラを落とし、身を捩って引き込まれている手を引っ張り出そうとしている。


「なに? 何が起こったの?」


 美紗紀が博を振り解こうとする。博は娘に見せまいと強く抱き締めた。


 クレメンズがカメラマンを助けろと大声で指示を飛ばす。観測チームの二人が階段を駆け上がり、記録係の身体を掴んで二人掛かりで力任せに引き寄せた。記録係の肘から先が無くなっている。噴き出している血が液体ではなく砂粒のように見えた。その粒のひとつひとつが歪んだ空間に飛び込んで黒い塊の中に消えていく。


 記録係はパニックに陥ったように駆け出して歪んだ空間に上半身を突っ込んだ。胸から上が粒となって、まるで錠剤が溶けていくように黒い塊の中に吸い込まれる。外に出ていた身体はだらりと動きを止め、ゆっくりと空間に引き込まれて上半身と同じように散っていった。近くで茫然と見ていたチームの二人が我に返ったようで、驚愕の叫びを上げて転がるように階段を駆け下りた。


 クレメンズが誰も近付かないように指示をして頭を抱える。犠牲者のことよりも責任を取らされることを心配しているのだろう。あの婿はそういう男だ。 


 再びビープ音があちらこちらで鳴り始める。エリザと増渕くんが重力波のモニターに振り返った。エリザが「どういうこと?」と首を傾げて、小さくなっていく画面の波形を指でなぞる。増渕くんが先ほどまでドットを表示していた大型モニターに目をやった。青や赤の点が次々と黒色に変わっていく。


「何か検出していますね。エキゾチックマターでしょうか」

「負の質量の素粒子……」


 エリザが答えた直後、歪んでいた空間が巻き取られるように黒い塊の中に消えた。黒過ぎて球体なのか穴なのか判別が付かなかったそれが、艶を持ち始めて球体だとはっきりしてくる。それはやがて透明の水晶玉のようになって再び光を放ち始めた。


 全方位に放たれた光は格納庫の壁や天井で、緑や茶色などの色が交ざり合って動く不思議な斑模様を作り始めた。それはピントの合っていない映像のようだった。


 作業員用のドアが開いて、外で警護していた兵士のひとりが駆け込んできた。格納庫の中を見渡してリーダーの髭の男を見付けると、大きく手招きして呼び付ける。


 兵士に言われるままに外を覗いた髭の男が、扉を開けろと狼狽したように叫んだ。チームのひとりが作業員用ドアの横にあるレバーを引くと、低いモーター音を上げてゆっくりと巨大な扉が開いていった。


 外には信じられない光景が広がっていた。ガラス玉から放射された斑模様の光が、雨をスクリーンにして像を結んでいる。


 四機の古いプロペラ機が飛んでいた。濃紺のずんぐりとした胴体……あれは第二次世界大戦で連合軍が配備していた艦上爆撃機ヘルダイバーだ。なぜか後ろ向きに飛んでいる。まるで早送りで逆再生しているような不思議な映像だが、木之下にはその光景にはっきりと見覚えがあった。


 忘れもしない。これは昭和十九年の十月十日、完成間もない中飛行場が晒された空襲だ。自転車屋の倅と滑走路の上を逃げ惑ったことを思い出して嗚咽が漏れた。


 爆煙が逆再生されて一点に集まり消えた。そこからヘルダイバーに向かって二百五十キロ爆弾が上がっていく。ヘルダイバーはその爆弾を腹部に収納すると、尾翼から急上昇して海の彼方に飛び去っていった。

 

 格納庫の前に並んでいた護衛の兵士たちが唖然となってそれを見送っている。


 やめてくれ。これ以上思い出させないでくれ。そう叫んだつもりだったが喉から荒い息が漏れるだけだった。


「大丈夫ですか」美紗紀が心配そうに背中を摩ってくれた。


 その顔が一瞬セツ子に見えた。何とか笑みを作って頷いたが、いつものようにうまく出来たか分からない。目の前の光景に気を取られていたからだ。


 雨に映し出される逆再生の映像は、中飛行場の建設場面になっていた。

 上半身裸の男たちが、敷き詰められた路盤の石をひとつひとつ剥がして、後ろ向きに持ち去っていく。よろよろと運んでいるのは自転車屋の倅だ。友永軍曹も図面を広げて指示を飛ばしている。


 美紗紀に「危ないですよ」と腕を掴まれる。気付かないうちに立ち上がっていた。博が手を添えて車椅子に座らせられる。


 映像の滑走路は赤茶けた土に戻り、そこに試掘坑が掘られていた。中には崩れた石祠があり、その手前でひとりの青年が空を見上げている。


 ……あれは私だ。


 思い出す。あの時、祠の向こうの星空に卑弥呼の幻影を見ていたのだ。


 光源に振り向いたが、そこに卑弥呼の姿はなかった。格納庫の外に視線を戻す。映像は一面のさとうきび畑になっていた。苗の成長と刈り取りが逆再生の早送りで幾度も繰り返される。


 代わり映えしない映像に飽きたのか、チームの連中が機器のチェックを始めた時だった、雨に映る刈り取り風景を突き破って、双発の巨大な輸送ヘリコプターが爆音を轟かせて現れた。


 護衛の兵士が突然の出来事に対処しきれず身を伏せる。


 巨大なヘリコプターは格納庫の前でホバリングして、ゆっくりと降下しながら向きを変えていく。胴体には〈陸上自衛隊〉と書かれていた。

 

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