第六章 繰り返す歴史 2

 ――その同じ時刻。

 増渕孝治は伊豆半島石廊崎の南西二十キロ沖合を、第十八天徳丸で驀進していた。


 丸岡興行が台湾からシラスウナギの密輸のために違法操業している船で、見た目は中型の巻網漁船なのだけれど、北朝鮮の工作船を参考に改造しているらしい。ハイドロジェット推進で高速化している上に、船底には水の抵抗を軽減するための空気を送り込む装置が付いているという。


 この船を隠していた葛西の水路から、二時間あまりで伊豆半島の南端までやって来た。航行速度は四十五ノット――時速八十三キロ。日本最高速の取締船と同程度のスピードなのだと、左の目尻から口元にかけて大きな傷のある年老いた船長が説明してくれた。


 その船長はレーダーや魚群探知機、暗視カメラのモニターが並ぶ操舵席に座り、坊主頭を撫でながら鋭い眼付きで漆黒の海のその先を睨み付けている。船長がひと息つくように、GPSのモニターを見て言った。


「沖縄まであと十六、七時間てぇところだな。此処から先は少し揺れるぜ」


 あと十七時間。ぎりぎり間に合う。でも身体がそんなに耐えられるだろうか。水面を滑走しているので思っていたほどの揺れはないけれど、台風の接近によるものなのか、数分に一度は大きなうねりに乗り上げてジャンプする。船体が跳ね上がる時には身体が押さえ付けられるような力が掛かり、続く急降下でふわっと宙に浮くような感覚に襲われる。まるで延々と続くジェットコースターに乗っているようだ。操舵席の後ろのベンチシートにしがみ付いて歯を食い縛っているのが精一杯だった。


「うー」言葉にならず短い呻き声を上げた。

「先生様よぉ、吐くなら海にやってくれよ」


 別に敬称として先生と呼ばれているのではない。丸岡興行の若い衆が名前ではなく先生と紹介しただけのことだ。


 ガサ入れ前のデータ消去の一件以来、丸岡興行の親分さんが先生と呼ぶようになったらしい。親分さんがそう呼ぶなら、こうした組織はみんなそう呼ぶようになるのだろう。けれど感謝はしてくれていたようで、義理人情に厚い親分さんは、すぐにこの船を手配してくれた。その代わり、これから先はガサ入れの度にデータの消去をさせられることになるのだろう。


 船が大きく跳ねた。


「うーうー」吐きそうなわけではないと言いたい。でも言葉にならない。


「だらしねえなぁ。お嬢ちゃんと丸っこい奴のほうがよっぽど度胸が据わっているぜ」と、船長が操舵席の前の半地下のようになっている船室を覗き込んだ。


 六畳ほどのスペースに布団が敷き詰められていて、舳先で美紗紀が眠っていた。クッションを周りに並べて身体を支えている。その手前では、「面白そうっすね」と付いてきた大賀が、ゴム毬のように撥ねたり転がったりしながらいびきをかいていた。食べている途中で寝てしまったのか、周りには砕けたメロンパンの破片が散らばっている。二人ともこんな状況でよく眠れるものだ。


「先生様も寝てな。あっち行ってから大変なんだろ」


 声が出ないので首を横に振った。


 船長がこちらを一瞥して「ふん」と鼻を鳴らす。咥えていた煙草に火を点けて再び暗い海に視線を戻し、「何だありゃ」と上擦った声を上げた。


「先生様よぉ、あれが何だか分かるか」


 増渕を操舵席の横に呼びつけて、船長は正面の暗闇を指差した。遥か前方に緑色の光の輪が二つ並んで宙に浮いている。


 また船が跳ねた。「さあ」とだけ何とか声を絞り出す。


 光の輪は見る見るうちに近付いてきて、二つの輪の間から眩い光を照射した。増渕と船長は反射的に目を背けた。


「こんなもの見たことねぇな。只の取り締まりじゃなさそうだぜ」


 空気を切り裂くような爆音を伴って、光の輪が第十八天徳丸の直上を通り過ぎた。船の慣性力に任せて操舵室の後ろに取り付く。錆び付いた扉を開けて暗闇に目を凝らした。二つの光の輪は急旋回すると、制動をかけたように速度を落としながら再び迫ってくる。


 周囲が突然明るくなった。船長が集魚灯を点けたのだ。暗闇に光の輪の正体が浮かび上がった。二つのローターの先端に点いている接触防止灯だ。ヘリのような飛行機のような特殊な機体。これはニュースで見たことがある。オスプレイという新型の輸送機だ。船長も扉から顔を出して機体を見上げる。


「こいつぁ、逃げ切れる気がしねぇ」


 オスプレイは、その名の通り猛禽類のみさごが獲物の魚めがけて飛び掛かるように、船尾から延びている網捌き用のクレーンぎりぎりまで降下してきた。


 船が跳ねて着水時に大きな衝撃が走る。


「と、とめ、て」やっと絞り出した声がオスプレイの爆音に掻き消された。

「何だってぇ?」船長が大きな傷のある顔を近付けてくる。

「船を……停めて……ください」歯を食い縛ったままで何とか言葉にした。

「いいのか。どうなっても知らねえぞ」


 漂った煙草の匂いから逃げるように首を引いて二度頷いた。


 博の持っていたスマートフォンが違うものだと気付いて米軍が迎えに来たのだろう。位置情報を調べたに違いない。米軍も未来の記録を辿っているようだ。


 船長が操舵席に戻ってスロットルレバーをニュートラルに切り替える。その途端に速度が落ちて船体がうねりに翻弄され始めた。身体が前後左右に揺さぶられて立っているのもやっとだ。そこらじゅうに身体をぶつけながら甲板に出て、爆音を上げるオスプレイを見上げた。二つのローターを天上に向けてホバリングを始めている。間近に見る機体の物凄い迫力に腰が引けた。


「ドクターマスブチ?」オスプレイのスピーカーから大音量で名前を呼ばれた。

 

 ふらつきながらも腕を上げて大きく丸を作る。オスプレイは「オーライ」と応え、少し前進すると後部のハッチを開けた。そこからワイヤーロープに吊り下げられて、ひとりの米兵が甲板に降りてくる。


「先生! 本当に平気なのか!」


 操舵室の中から船長が怒鳴る。だらりと下げた手には拳銃が握られていた。


「そんな物騒なもの、仕舞ってください」


 怒鳴り返したつもりだった。でも爆音で聞こえていないようだ。船長は銃を手にしたまま米兵から視線を外さない。


 甲板に降り立った米兵は片手でワイヤーロープを持ったまま、もう一方の手の人差し指をこちらに向けて、その指でオスプレイを指した。続いて二本の指でⅤの字を作って首を傾げる。オスプレイに乗るのが一人なのか二人なのか訊いているようだ。


 首を振って三本指を突き出した。米兵は指でOKサインを作り、何かを掬い上げるような仕草で手招きする。 てのひらを米兵に見せて「ジャストアモメント」と叫んだ。


 うねりに足を取られながらふらふらと操舵室まで戻り、眠っている美紗紀と大賀を起こした。寝ぼけ眼で美紗紀が船室から顔を出す。船長が慌てて拳銃を背に隠し、引きった笑みを浮かべた。


「お嬢ちゃん、お迎えのリムジンが来たぜ」

「リムジンって何ですか」


 きょとんとしている美紗紀の後ろから大賀が這い出してきて、操舵室の外でホバリングしているオスプレイを嬉しそうに眺める。


「あの一機で最高級のリムジンが二十台は買えちゃうっすよ」


 美紗紀が大賀の視線を追ってオスプレイを確認する。


「ヘリコプター? あれに乗り換えるんですか」

「一番手は大賀くんが行ってくれ」


 美紗紀をオスプレイで一人にするわけにはいかないと思い、そう言って操舵室から出た。


 大賀は大喜びで甲板に出てきたけれど、揺れで思ったように歩けないらしく、あっちに行ったりこっちに来たりしながら、ようやく米兵まで辿り着いた。


 米兵は救命ベストのようなものを大賀に被せてワイヤーロープのフックに繋げ、抱きかかえるようにして一緒に吊り上げられていく。美紗紀も甲板に出てきてその様子を面白そうに見上げた。


「あの巨体でも大丈夫だから、心配ないよ」

「ううん。楽しそう」

「じゃあ、次は美紗紀ちゃんが行ける?」


 美紗紀はオスプレイを見上げたまま頷いた。米兵が再び降りてくると駆け寄っていって怖がることもなく吊り上げられていく。


「俺が沖縄まで連れて行ってやりたかったぜ」船長が隣に来て溜息をついた。

「お世話になりました。こんなことになってしまって、何かすみません」

「いいってことよ。しかし凄えヘリだな。俺は米軍相手に喧嘩するのは止しとくぜ」


 船長は「だがな」と言葉を継いで、持っていた拳銃を増渕のベルトに突き刺した。


「先生は違う。お嬢ちゃんを守らなきゃなんねぇ」

「こんなものいりません」


 拳銃を抜き取ろうとする手を船長が制した。


「コルトガバメントだ。装填してあるから安全装置を外して引き金を引くだけだ。先生にも撃てる。お守り代わりに持って行け」 


 尚も抜き取ろうとすると、船長は制していた手に力を込めた。


「先生は戦争を知らねぇから分かんねぇと思うが、アメ公が日本人を守ってくれるなんて考えるなよ。無事に終わったら海にでも捨てればいい」


 そこに米兵が降りてきた。慌ててシャツの裾をズボンから出して拳銃を隠す。米兵が増渕を吊り上げる準備を手際よく済ませ、オスプレイに向かって親指を立てた。足が甲板から離れて身体が宙に舞う。あっという間に引き上げられていった。


「先生様よぉ、みんな揃って……」


 船長が甲板で手を振って何か叫んでいたけれど、爆音で殆ど聞き取れなかった。

 

 オスプレイの中はと言えるほど何もなかった。壁面や天井にケーブルやパイプが這いまわっていて、布製の簡易な腰掛が両壁に折り畳まれているだけだ。美紗紀と大賀はコックピットを見渡せる一番前に陣取っている。申し訳程度に丸窓が四つ付いていた。そのひとつを覗き込める腰掛に座った。


 吊り上げてくれた米兵から防音用イヤーマフを受け取り、それを装着して窓の外を見る。今まで乗っていた船がすでに小さくなっている。機体は急上昇していた。 


 低い唸りを上げながらローターが傾いて飛行機モードに切り替わると、ぐんと速度が増して、あっという間に第十八天徳丸は闇の中に消えていった。


 拳銃を早く捨てたくて窓を開けようとすると、向かいに座っている米兵が手でバツ印を作った。開閉できる構造ではないようだ。諦めて座り直す。


 美紗紀と大賀はコックピットを見て色々と話していたようだった。でも暫くすると、景色が代わり映えしない真っ暗の海だったからなのか、揃って眠ってしまった。


 乗り心地はさっきの船よりは随分とマシだった。スピードも相当速そうだ。沖縄にはそう掛からずに着くだろう。


 ……そう掛からずに? 


 おかしい。それでは到着が早すぎる。スマートフォンの位置情報の記録では、嘉手納基地の沖合にあるのは明日の午後三時半過ぎだった筈だ。これに乗ったのは間違いということなのか? 考えても答えなど出ないのは分かっているのだけど……。


 増渕は胸ポケットに入れているスマートフォンにそっと手を当てて、時の流れに身を委ねるように目を閉じた。


 

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