第六章 繰り返す歴史 1

 目の前のソファに座っているクレメンズが、苛苛いらいらと何度も時計を確認している。横田基地からの到着便が遅れているのだ。間もなく午後十時になろうとしていた。


 木之下慶作は、嘉手納基地内のホテル〈SHOGUN INN〉のエントランスロビーをぐるりと見回した。大勢の人で溢れている。このホテルが、日本政府の治安出動の発令で避難してきた在日アメリカ人たちの、受け入れ先のひとつになっているのだ。遠足気分ではしゃいでいる子どもと目が合ったので微笑み掛けた。


 これまでの成果には概ね満足している。思った通り、日米同盟など所詮この程度のものなのだ。戦勝国の威圧によって仮組みされたままの同盟だ。アメリカの思惑と日本の建前、其々の部品をばらすのは実に容易い。 


 抑圧され続けた沖縄の反動がそれに拍車を掛けてくれた。日米両国に地獄のような地上戦を強いられ、県民の四人に一人が殺された、その恨み、あの絶望。日本もアメリカも、まだ沖縄戦の後始末が出来ていないのだ。


 細工したハンヴィーが思った以上の大きな事故になってしまったが、人死にを出すことなく計画は進んでいる。この状況で、米軍が日本の民間人を巻き込んだ怪しい実験をやっていることが知れれば、嘉手納基地返還への機運は一気に高まる筈だ。


 観測実験には必ず八咫烏が乗り込んでくる。今度は新左翼の連中から貰った爆弾を爆発させる。事故が起こればアメリカも日本も引くに引けない状況に追い詰められるだろう。


 時間を操ることが出来れば核兵器以上の抑止力になると、観測チームのリーダーは豪語していた。録音もしている。これを明るみに出せば、必ず日本中から反発の声が上がる。そうした世論が後押しとなって日米安保条約の見直しが検討され始めれば、アメリカでも法的保護が確保されない日本への軍隊派遣が問題視される筈だ。


 あと一押しだ。日米両政府が揃って沖縄に基地を返す日がそこまで来ている。時間は掛かったが、ようやくセツ子との約束が守れそうだ。 


 クレメンズが、「おお」と手を挙げて立ち上がった。木之下は車椅子を半回転させて身体ごとエントランスに向けた。エリザが中年の男と一緒に近付いてくる。横田からの便が到着したのだ。エリザは金髪を後ろで束ねてパーカーを羽織っていた。とても軍人には見えないが、上官のクレメンズの前まで来ると背筋を伸ばして、やはり短く敬礼した。


「富田博さんをお連れしました」


 エリザに軽く頷いてクレメンズは博に握手を求めた。博がそれに応える。


「ようこそ嘉手納基地へ。ご足労頂いて申し訳ありません」

「いえいえ、エリザさんから丁寧に説明を受けましたから。あまりに丁寧で驚きました。拉致でもされるのかと思っていましたから」


 クレメンズが眉毛をくいっと上げて、「思っていたとは?」と訊く。


「いや、思っていたというか、映画だとそういう場面がありますでしょ」

「それは映画ですから」クレメンズは声を出して笑った。


「キノシタデス。ゴキョウリョクヲ、カンシャイタシマス」


 博が一瞬ぎょっとした表情を浮かべた。まあ、この声の所為で殆どの初対面はこうした反応をされる。馴れたものだ。皆にソファに座るように促して車椅子をそちらに向ける。全員が落ち着くのを待って、エリザがテーブルにスマートフォンを置いた。


「富田さんからお預かりしたスマートフォンです」

「では、ご提供下さるということで宜しいですね」

「ええ。タイムスリップとは信じ難いお話ですが、非常に興味深い」

「すぐに新しいスマートフォンを用意させます」


 クレメンズが視線を送るとエリザは頷いた。


「観測は明日の午後に始まります。此処に部屋を用意していますので、それまではごゆっくりなさって下さい」


 エリザは混雑するフロントを一瞥して、ばつが悪そうに博に笑みを浮かべた。


「とは言っても、今はこんな状況なのでドタバタしていますが」


 木之下はスマートフォンを手に取った。なんだ? 形が少し違う。これは……あのスマートフォンではない。


「トミタサン、コレハ、キノウカッタ、スマートフォンデハアリマセンネ」


 クレメンズとエリザが揃って、「ノーキッディン」と驚きの声を上げた。


「買っているところは、この目で確認しています」エリザが弁解した。

「富田さん、これはどういうことですか」


 クレメンズが身を乗り出して、スマートフォンと博を見比べる。


「どういうことも何も、私は名前を確認されて、持っているスマホを提供してくれと言われただけですから、どのスマホがタイムスリップするかなんて知りませんよ」


「昨日買われていたスマートフォンは何処にあるのですか」エリザも身を乗り出す。


「ああ、あれは店のロボットに持たせています」

「ロボット?」


 エリザとクレメンズがまた揃って声を上げた。綺麗な英語の発音だった。


「店のロボットって、あのウエイトレスですか」

「そう。よく出来たロボットでね。試作品として知り合いが作ってくれました」

「なぜロボットにスマートフォンを?」

「ええと……、それは……」


 博とエリザのやりとりに、クレメンズが焦れたように強い口調で割って入った。


「そのロボットは、いま何処にあるのですか」


「何処? ……ああ、増渕くんにメンテナンスを頼んでいるところです。増渕くんというのは秋葉原でパソコンの修理をしている男でしてね。元々は新型メモリの開発者だったらしいのですが、中々に優秀な男ですよ」


 そう聞くや否や、クレメンズはポケットの名刺ケースから一枚を抜き出した。


〈秋葉原データ修復サービス 増渕孝治〉


 それを博が覗き込んで大袈裟に驚いた声を上げる。 


「おや、増渕さんを御存知なのですか!」


 クレメンズは博を見てほっとしたように表情を緩ませた。「繋いでくれ」と、名刺をエリザに渡して背凭れに身を委ねる。


 エリザは自分のスマートフォンですぐに電話を掛けたのだが、首を捻っては何度も掛け直して「圏外です」と困ったように言った。


「今時、圏外なんて……。秋葉原にはいないということか」

「いない?」博が顎に拳を当てる。

「マリガ、ナニカシッテイルカモ、シレマセン」

「おお、マリ、マリ」


 クレメンズは何度もこちらを指差して立ち上がり電話を掛けた。


 ……だが出ないようだ。


「ダーミット! マリも圏外だ」


 クレメンズは荒々しくソファに座り直して、絶望したように天井を見上げた。


「ジーピーエスノ、イチジョウホウガ、アッタハズデスガ」

「そうですね。抜き出したデータにありました。いま持っていらっしゃいますか」


 エリザがクレメンズに詰め寄る。クレメンズは増渕くんからスマートフォンに送られてきたデータファイルを出して、「これか」とエリザに見せた。


 エリザはその膨大な文字列の中から現在の緯度経度を読み取り、地図アプリに表示して、皆に見せるようにテーブルの上に置いた。


 伊豆半島の下田沖にポインターが付いている。


「スマートフォンは、いま相模湾にあると思われます」

「相模湾? どうしてそんな所に?」クレメンズが画面を覗き込んで呟いた。

「マスブチクンハ、ココニ、スマートフォンヲ、ハコンデクレテイルノカモ、シレマセン」

「此処に? 民間機は飛んでいないのですよ」

「ダカラ、フネ、ナノデショウ」

「馬鹿な、間に合うわけがない」

「ムカエニ、イッテアゲテハ、イカガデスカ」

「迎えって、お義父さん、ペイブホークの航続距離は六百キロですよ」


 ペイブホークとは嘉手納基地に配備されている米空軍の救難ヘリだ。


「鹿児島の馬毛島まで飛ぶのがやっとです」


 そう言って、クレメンズは自らの口を塞いだ。つくづく脇の甘い婿だ。馬毛島は米軍が硫黄島の訓練施設を移転しようとしている島なのだが、地元の大反対を受けて水面下で動くことになっているらしい。


 クレメンズは博の様子を窺ったが、気にも留めずに地図画面に見入っているのを確認すると、一つ咳払いをして改めて言った。


「とにかく、此処には迎えに行く術がありません」

「ヨコタニ、ウゴイテモラウコトハ、デキナイノデスカ」

「横田に……ですか」

「ココマデ、トブコトガデキルキタイガ、アルデショウ」


 クレメンズとエリザが少し顔を見合わせて……。


「オスプレイ!」と揃って声を上げた。


 オスプレイは二つの回転翼を飛行中に前傾させて、固定翼機のように速度を上げることが出来るティルトローター機だ。最高速度はペイブホークの七割増しの時速五百キロ。航続距離は沖縄と東京を余裕で往復できる三千三百キロに及ぶ。


 在日米軍では二〇一二年に普天間基地の海兵隊に配備されたのだが、その時に基地反対派やマスコミが事故の多発している欠陥機だと騒いだので、今ではすっかり悪役になってしまった。


 その悪役を米空軍は昨日から横田基地に五機配備している。こんなチャンスを生かさない理由はない。いま嘉手納に飛来すれば火に油を注ぐような騒ぎになるだろう。それは恐らく空爆並みの衝撃だ。


「オスプレイナラ、マニアイマス」


 クレメンズは「そうです。そうですね」と立ち上がり、席を離れる非礼を博に詫びると、そそくさと出て行ってしまった。エリザやホテルのスタッフが敬礼して見送っていたが、気付かなかったようだ。


 博が自分のスマートフォンを上着のポケットにしまって、エリザを見上げる。


「それで私はどうすればいいですかね。増渕くんが来るなら、私は娘もいるので帰りたいのですが」

「そうですよね。でも今夜はもう横田まで飛ぶ機がないのです。もしオスプレイが今晩中に横田に引き返すというなら手配しますが、取り敢えずは部屋でお待ち頂けますか。少なくとも明日一番の横田行きには乗れるようにしておきます」

「分かりました。なるべく早く帰れるようにお願いします」


 腰を浮かせた博をエリザが止めた。


「チェックインして来ます」


 エリザが席を離れた途端に、博は上着のポケットを気にし始めた。電話を掛けたがっているのだろうか。


「ゴカゾクニ、シンパイヲオカケシテ、モウシワケアリマセン」

「いえいえ、娘とは話をしましたから大丈夫です」

「デハ、オクサマニ。エンリョナサラズニ、デンワヲシテアゲテクダサイ」

「妻は亡くなりました。事故です」

「ソレハ、シツレイシマシタ」

「お気になさらずに。もう二年も前のことですから」

「ジカンハカンケイアリマセン。オキモチハワカリマス。ワタシモ、サキノタイセンデ、タイセツナヒトヲナクシマシタ。ソノトキカラ、ワタシノジカンハ、トマッタママデス」

「そうですね。過去に縛り付けられて、周りの時間だけが流れていく感じです」


 そう。時間は流れている。その流れに逆らおうとすると、まるで立ち止まっているような気分になる。しかし、それは気分になっているだけで、しっかりと時間は経過していくのだ。自然の摂理や物理の法則ではどうなのかは知らないが、恐らく時間は主体ではない。時間が経つから何かが起こるのではなく、起こっていることが時間を進めていくのだろう。


 縛り付ける過去が多ければ多いほど、時間の流れは速く感じる。年を取ればあっという間に時間が過ぎてゆくのはそのためだ。大事なものを無くすという一大事は強烈に過去に縛り付けるのだろう。セツ子が殺される前に戻りたいと願い続けて、それが叶わないまま気が付けばこんなにも老い耄れてしまった。


「でも、過去は変えられるらしいのです」


 博が唐突にそう言った。どういう意味なのだろう。過去の出来事が変えられるわけがない。何をどうやってもセツ子は生き返らないのだ。それとも、この実験で時間を逆行する方法が見付かれば、過去に戻って奥さんの事故を止めるとでもいうのか。それだけ米軍に期待しているということなのか。期待や希望は止まった時間を進めるための原動力でもあるのだろうが……。


「ムスメサンモ、ツレテキテアゲレバ、ヨカッタデスネ」


 そう言うと、博は強く反発した。


「それは結構です! 娘を巻き込みたくない」


 どうして声を荒げたのか分からなかったが、いまの沖縄は危険だからなのだろうと勝手に納得した。

 エリザがチェックインを済ませて戻ってくると、博は改まって話を切り出した。


「ところで、実験の時にロボットはどうなるのですか」


 エリザは持って来たルームキーをテーブルに置いて、「どう、とは?」とソファに座った。


「スマホはタイムスリップするとして、持主も過去に行ってしまうのかと」

「なるほど。それは考えていませんでした。私たちにも何が起こるのか分からないのです。持主も一緒なのかも知れませんね」

「助けてはくれないのですか」

「ですから、どうなるか分かりません。しかし、そうだとしても助けられないと思います。起こることはもう決まっているのです」

「やはり美紗紀は行ってしまうのですね。私は三人も大切な人を失うわけだ」


 博はテーブルに拳を打ち付けて、「それは耐えられない」と項垂れた。涙ぐんでいるようだ。余程大切なものなのだろう。エリザが宥めるように言った。


「もう一度作ってもらえないのですか? アメリカ軍がちゃんと費用を持ちますよ」

「へ?」

「そのロボットが時間を逆行したとして、もう一度作ることは出来ないかと訊いています」

「ああそうです! ロボットです! 気の持ちようでした」


 それは強がりだ。気の持ちようなどという言葉が何の意味も持たないことは、一度でも大切なものを失えば分かることだ。何とか守ってやることは出来ないのか。


「イセキカラミツカッタノハ、スマートフォンダケデス。ロボットナンテナカッタ。タスケテアゲテモ、ダイジョウブデハナイデスカ」


 エリザは困ったように蟀谷こめかみに人差し指を当てた。 


「それは見付かっていないというだけです。すでに起こることは決まっているのに、それを止めるのはやはり危険だと思われます。時間順序保護仮説といって、原因と結果、つまり物理の因果律は絶対に変えられないというのが一般的な考え方です。だからこそ過去へのタイムトリップは出来ないだろうと考えられているのです。しかし厄介なことに、スマートフォンは実際に時間を逆行している。原因と結果の順序が入れ替わっているのです。ロボットがスマートフォンと一緒にこれから過去に戻るのなら、それが原因となる事象で、私たちがこうして話していることは結果のひとつなのです。ロボットを助けることで因果律が崩れるのなら、物理の法則が何らかの方法でそれ阻止するでしょう」


「助けようとすると必ず失敗するということですか」博が不安そうな声を出した。


 エリザが「他にも……」と博を見据える。


「他にも考えられるのは、私たちがロボットを助けた瞬間に、量子力学の多世界解釈による並行世界に分岐する可能性です。簡単に言うと、今のこの世界ではなくなるということです。原因と結果は複雑に絡み合っていて、過去を少し変えただけでもその影響は計り知れません。かつて小説で、古代の恐竜をタイムマシンでハンティングに行って一匹の蝶を踏み潰した所為で、現代の大統領が変わってしまうという作品がありました」 


 博が蒼白く顔色を変えてエリザに請う。


「ロボットはいいんです。過去に行っていいんですが、代わりに私が行くというのは?」


 もう言っていることが支離滅裂だ。余程混乱しているのだろう。物理の法則は絶対だと言いながら、何が起こるのか見当も付かないのだから混乱するのは無理もないことだ。木之下は博の背中を優しく撫でた。


「トミタサン、スコシ、ヘヤデヤスマレテハ、イカガデスカ」


 エリザが「そうですね。ご案内します」と、ルームキーを持って立ち上がった。


 この時、十月二日午後十時半――。


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