第五章 巻き込まれた少女 5

 翌日――十月二日午前十一時。増渕は久しぶりにジャケットに袖を通した。美紗紀に演劇の発表会に誘われたのだ。墨田区内の中学校演劇部が集まる交流会みたいなものらしい。


 生まれて此の方そんな場に行ったことなどなかった。自分を表現する人を見ていると、こちらが気恥ずかしくなってしまうのだ。否、羨ましいだけかも知れない。そんな不慣れな場所に、いつものよれよれのTシャツとジーンズで行っていいものかどうか判断できず、結局、昔のジャケットを引っ張り出して羽織った。襟首がチクチクする。クリーニングのタグが付いたままだった。


 ずっと刀根からの連絡を待っていたけれど、もう出掛けないと間に合わない。刀根は今ごろ神社に殴り……乗り込んで、いつのも調子でまくし立てているのだろうか? そんなことを考えながら、美紗紀と交換するスマートフォンが入った紙袋を持って部屋を出た。


 発表会は墨田区の曳舟文化センターで行われるという。秋葉原駅から総武線で亀戸駅へ行き、そこで東武亀戸線に乗り換えた。二つ目の駅が、八年前に起業したガラス工場の最寄り駅だった。会社を畳んでからは近寄る気にならなかったけれど、こうして思い切って来てみると、辛い思い出よりも懐かしさのほうが際立っていることに自分でも驚いている。


 二両編成の車両がゆっくりと住宅の間を走っていく。そろそろ工場が見えてくる筈だ。車窓に目を凝らす。そこにはマンションが建っていた。それはそうだろう。時間は止まらない。あの頃のままなんてことがあるわけがない。妙にすっきりした気分になった。


 曳舟文化センターに到着して、入口で博と合流する。店は臨時休業にしたそうだ。


 劇場ホールは随分と立派なものだった。五百人以上は入るだろう。座席の大半が埋まっていた。ちょうど昼休憩で、観客たちはハンバーガーやお弁当を食べている。

 一家総出で見に来ているのだろうか、高齢者もかなりの数いる。数人の外国人も混ざっていた。日本の学校もワールドワイドになったものだ。青い瞳の金髪の女性に目が留まる。何処かで見た気がした。でも思い出せなかった。


 会場を見回していると博が並びで空いている席を見付けた。慌ててそこに陣取る。 


「殆ど満席ですね。僕はこんなに大勢の前で何か発表するなんて出来ませんよ」

「昔から物怖じしない子でね。母親譲りなんです」 


 博は少し遠い目をして、「私も出来ません」と笑った。


「奥さんが舞台か何かを?」

「いえ。人材育成のコンサルタントだったんです。美紗紀を育てながら毎日のように講演をしていました。私は仕事にかこつけて殆ど子育てに参加しませんでしたから、講演会に幼い美紗紀を連れて行くことも多かったのです。そこで何百人も相手にする母親を見て度胸がついたのでしょうね。いまは人前に立って別人を演じるのが楽しい、なんて言ってますよ。あの娘の選ぶ道は、私からすれば大胆というか何というか……」


 自覚してはいるのだけれど、僕は仕事以外の会話は全くと言っていいほど続けられない。特にこうした人生に関わるような話に対応する術を持たないのだ。でも何か応えたかった。


「美紗紀ちゃんはいい子ですよ」と、頭に浮かんだことを素直に言葉にする。 

「ありがとうございます」博が微笑んだ。


 昼休憩が終わって開演のベルが鳴る。午後の一番手が美紗紀のいる演劇部だった。演目は〈人間になりたがった猫〉だ。緞帳どんちょうが上がると舞台の上に洋館の一室が組まれていた。そこに主役の猫――恵子と美紗紀は言っていた――が現れる。とても中学生とは思えない、堂々としたその歌、踊り。一方の美紗紀は悪役だった。街を牛耳る衛兵隊長だ。主役を食うほどの嫌らしい悪役ぶりを発揮している。


 博がスマートフォンで撮影を始めた。美紗紀のスマートフォンだ。そういえば、タイムスリップ前の画像データは、殆どがこの舞台のものだったのだ。


「美紗紀ちゃんに見惚れていて忘れるところでした。そのスマホを交換しないと」


 増渕は膝に乗せている紙袋を摘まみ上げた。


「そうでしたね」


 博がスマートフォンを渡そうとしたので、「終わってからで」とそれを止めた。


 美紗紀の舞台は拍手喝采の中で幕を下ろした。最後の挨拶に並んだ演劇部員たちが順番に頭を下げていく。美紗紀は四番目だった。拍手は一番多かったように思う。少なくとも増渕は一番大きな拍手を送った。


 博が笑顔の部員たちを撮影して、「終わりました」とスマートフォンを渡してきた。最初に撮影したツーショットを含めて二十三枚の画像を、紙袋から出して起動した交換用のスマートフォンに転送した。


「では、これを美紗紀ちゃんに渡してください」


 スマートフォンを交換すると、博が「私は最後まで見て美紗紀と一緒に帰りますが、増渕さんはどうしますか」と訊いてきた。


「僕はこれで戻ります。ミサキⅡに早くこのスマホを渡したいんで」

「よろしくお願いします」博が丁寧に頭を下げた。

「そろそろ米軍が接触してくると思います。その時は連絡をください。僕が説明しますから」


 受け取ったスマートフォンを、ジャケットの胸ポケットに入れて立ち上がった。


 帰りは北千住経由にした。最も早く秋葉原に帰ることが出来るからだ。昼飯も食べずにアパートに戻り、大賀の部屋を訪ねた。


「ここまでは予定通りだよ」スマートフォンを差し出す。

「予定通りと言うか、決まっていた通りということっすよね」


 作業台でミサキⅡの調整していた大賀が、手を止めてスマートフォンを受け取る。


「米軍なんてどうでもいいから、此処でタイムスリップしてくれないっすかね。おいらも見てみたいっすよ」

「残念だけど、タイムスリップは沖縄で起こるんだよ」

「それも決まっていることなんすか」

「そのスマホの最後の位置情報は嘉手納基地の沖合だった」

「いつっすか」

「明日の夕方だったと思う」 

「じゃあ、その頃には沖縄にあるってことっすね。米軍はいつお迎えに来るのかな」

「分からない。スマホも美紗紀ちゃんもすり替えたから、何かが変わってしまったのかも」


 大賀はううんと唸って作業台にスマートフォンを置き、ミサキⅡを見る。


「まあ、あと一日あるなら、もう少しミサキⅡをアップグレードしてきますよ」


 大賀がきょろきょろと何かを探していたので、ミサキⅡの足元に置いてあったメロンパンを投げて渡す。大賀は受け取ったけれど、袋を開けずに白衣のポケットに押し込んだ。


 部屋に戻って自分のスマートフォンを確認する。刀根からの連絡は入っていない。流石に心配になってきて、〈大丈夫ですか?〉と短いメールを送った。


 刀根に何かあったらどうすればいいのか。八咫烏に乗り込むか。否、彼女を助けるなんて無理だ。警察に通報するべきか。でも日本政府が秘匿している連中だ。簡単にはいかないだろう。スマートフォンの画面を見詰めながら、暫くあれこれと考えていた。まだ返信はない。……夜までは待つか。


 沖縄はどうなっているのかとテレビを点けた。夕方のニュース番組にチャンネルを合わせてぎょっとした。論説委員の男性が何やら話しているのだけれど、画面が一回り小さくなっていて、その画面の左側と下部に派手なオレンジ色をベースに文字情報が出されている。左側には大きな黒い文字で〈治安出動発令〉とあり、下部には〈交通情報〉という文字が点滅して、公共交通機関の状況がスクロールしている。


 〈沖縄バス運行見合わせ、那覇バス運行見合わせ、ゆいレール運転見合わせ、沖縄自動車道全面通行止め……〉


 別のチャンネルに変えても、画面には同じようにL字型の文字情報が出されている。その番組では、どのように治安出動が発令されたのか解説者が説明していた。そんなことはどうでもいい。現地の映像はないのか、さらにチャンネルを変える。

 

 燃えている街が映った。刀根がコザと言っていた街だ。建物の多くは黒焦げで窓ガラスもなかった。車の残骸がそこかしこに転がっていて、ヘルメットを被った連中が火炎瓶を投げている。その投げた先をカメラが映し出した。


 黒い盾を構えた迷彩服の自衛隊員たちだった。じりじりと群衆に近付いている。現場にいるレポーターが興奮した口調で、「陸上自衛隊が盾を持って近付いてきます!」と叫んでいた。そんなことは映像を見ていれば分かる。現場の記者たちも何が起こっているのか把握できていないのだろう。さらに別のニュースに変えた。

 

 米軍基地のゲート前の映像が出たので手を止める。〈嘉手納基地〉とテロップが出ていた。知らないゲートだった。機関銃を備えた米軍のハンヴィーと、戦車と装甲車を足して二で割ったような、タイヤが六輪ある陸上自衛隊の車両がずらりと並んで対峙している。戦争をしているわけではない。でも、それはまるで日米が対立しているような光景だった。その映像に、スタジオにいる司会者がワイプ画面で出ていた。


「先ほどからお伝えしていますように、きょう午後一時、那覇駐屯地の陸上自衛隊第十五旅団に、総理が治安出動を発令しました」


 普段は冗談も交えてニュースを伝えている司会者が深刻な顔付きになっている。


「この発令は沖縄県知事の要請を受けたもので、自衛隊が設立されて以来、初めてのことです。総理は一両日中にも臨時国会を召集して議会の承認を得るとしています」


 画面が別の基地のゲートを映し出した。テロップの表示は〈普天間基地〉となっている。重武装のハンヴィーが、黄色いスクールバスを護衛して次々と基地の中へ入って行く。その光景からカメラが向きを変えると、ゲート前に並んでいる自衛隊員たちが映し出された。皆悲しげな顔で米軍の車両を見送っている。


「一方、米政府は沖縄在住のアメリカ人民間人の基地受け入れを表明しました。すでに武装車両の護衛が付いた移送が始まっています」


 そこで番組司会者が原稿を読むのを止めた。自分を撮っているカメラの下辺りに視線を向けている。スタジオで何か指示が出されたようだった。


「ここで速報です。報道フロアからお伝えします」


 再び画面が切り替わった。報道局員が忙しなく駆け回っている一角に設えたブースだ。そこにあの早口の女性アナウンサーがいた。


「はい。お伝えします。先ほど午後四時すぎ、国土交通省は沖縄への移動中止を求める異例の勧告を出しました。繰り返します。先ほど午後四時過ぎ、国土交通省は沖縄への……」


 画面の右上に〈速報、渡沖中止、国交省異例の勧告〉と表示された。〈渡沖〉などという言葉を初めて知った。これまでなら気にもならなかっただろう。でも何か差別的な響きを感じた。刀根の影響を受けているのだろうか。


「この勧告を受けまして、沖縄への民間航空機やフェリーなど全便の運行が見合わせられることになります。日本航空と全日空は本日午後七時台以降の沖縄便を……」


 なんだって! コピーしておいたスマートフォンの行動履歴を慌てて読み出して、最後の位置情報を確認した。


〈2018100315362634951277352〉


 二〇一八年十月三日午後三時三十六分、北緯二十六・三四九五度、東経百二十七・七三五二度。良かった、日付も場所も変わっていない。だとすると、スマートフォンはどうやって沖縄に持ち込まれるのか。まあ考えても仕様がない。どのみち米軍が動くのだ。


 それよりも、とスマートフォンを見る。まだ刀根からの返信はない。けれど博からの着信履歴があった。ニュースに夢中で気付かなかった。掛け直すが出ない。きょうの礼か、そんな類のものだろうと特に気にもしなかった。刀根のほうが心配だったのだ。午後六時を過ぎても返信がない。電話を掛けてみた。


「何よ」


 出た。よかった。いつもの調子だ。


「何よ、じゃないですよ。連絡がないから心配していたんですよ」

「煩いわね。こっちも色々と大変だったのよ」

「何かあったんですか」

「うーん。説明が面倒くさい」

「そんなこと言わないで教えてくださいよ。僕たちはチームでしょ」


 寸刻間があった。何か考えたのだろう。


「全部繋がっていたのよ、八咫烏って。全国の八咫烏はひとつなの。相当に巨大な組織なんだけど、表向きは其々が独立していて全貌はよく分からない。八咫烏にはね、八咫烏に限らず日本の神々全てなんだけど、色んな側面があるの。古事記や日本書紀で八咫烏は神武東征を導いた案内役、導きの神ね。そして、その戦に勝利をもたらした軍神の一面。それが神仏習合でややこしくなるの。仏教の導入で日本古来の神々が仏に救いを求めるようになった。でもね、この国の頂点である天皇は神の子孫、仏のほうが偉いなんて有り得ない。そこで神々を仏法を守護する存在にしたの。でも、それじゃ神と仏は同列のようなものよ。それで神々と仏は同じもの、神は仏の化身だということにした。本地垂迹ほんじすいじゃくね。八咫烏は熊野権現の使者ということになった。熊野権現は素戔嗚尊すさのおのみことよ。素戔嗚は疫病を流行らせる反面、それを鎮める力も持っている。疫病退散というやつね」


「何を言っているのか、さっぱり分かりません」

「……あんたの真似をしたのよ! とにかく色んな所に八咫烏は居るの。教育現場にも防衛庁にも病院や研究所にも。その全てが今回の件に関わっているわけではないけど、ネットワークは強固で協力し合ってる」

「その調査をしていたんですか」

「そうよ。宮司さんは話したがらなかったけどね」 


 余程酷いことを言ったのか、やったのか。もしかしたら拷問したのかも知れない。刀根ならやりかねない。どうやって喋らせたのか訊くのが怖くなって話題を変えた。


「いま何処に居るんですか」

「池袋よ」

「池袋って、あのサンシャインビルがある豊島区の池袋ですか」

「他にどんな池袋があるのよ」


 東京に戻って来ていたのか。それなら連絡する時間くらいあっただろうに。


「もういい? 切るわよ」

「ちょっと待ってください。何処に行こうとしているんですか」

「和光市。朝霞あさか駐屯地」

「ええっ、駐屯地?」


 椅子からずり落ちそうになった。


「やっぱり自衛隊が絡んでいるのですね」

「極一部よ。」

「そんなの米軍には関係ないでしょ。本格的に日米の対立になっちゃうじゃないですか」

「だから、それを止めるのでしょ!」


 電話を切られた。大変なことになっている。でも、まあ元気そうで何よりだ。刀根なら何とかするだろう。


 一息ついてカップラーメンを啜っていると激しくドアが叩かれた。返事をする間もなく、血相を変えた大賀が飛び込んできた。その巨体で相当走ったのだろう、息が弾んでいる。


「大変っす! 増渕さん。ミサキⅡが盗まれました!」


 口に入っていた麺の殆どを吹き出してしまった。


「あいつっす! あいつ! 写真の奴!」

「落ち着け。落ち着いて話してくれ」

「きのうゼンゾウさんところで調べていた奴っすよ。顔写真が出ていた」


 久我だ。でも、どうして八咫烏がミサキⅡを?


「スマホが手に入ったんで、美紗紀ちゃんがどうやって扱うのか、その癖を覚えさせようと思ったっす。それでジュース屋まで行ったっすよ。そしたら」


 そんなところまで凝らなくてよかったのに……。


「そしたら臨時休業で誰もいなかった。それで待っていたっすよ。店の前で。夕方には帰って来るかと」

「だけど帰って来なかった」 

「はい」


 大賀はようやく落ち着いたらしく、来客用の椅子に腰を下ろした。


「飯にでも行ってんじゃないかな」


「そうなのかな。まあ、そうでしょう。おいらも腹減ってましたから。それでポケットに入ってたメロンパン食べて待ってました。でも、それだけじゃ足らなくて、大通りのコンビニまで買いに行ったっす。ミサキⅡを店の前に残して。失敗だったっす」


「でも知らない人が見てもロボットだとは分からないよ。盗もうなんて思わない」

「だからなんすよ。普通の人間と変わらない。ちゃんと受け答えもします。素直に」

「素直?」

「そうっす。ミサキⅡには人を騙すという選択肢はありません」

「だって、この間、僕を騙したじゃないか」

「ミサキⅡは騙してないっすよ。素直な反応をしただけっす」


 そうだったか? 思い出してみると、そうだったかも知れない。


「それで?」

「そう、それでメロンパンを持って店の前に戻ったら、ミサキⅡと写真の男が話していた。男は実験と何の関係があるのか訊いてました」


 あっ、美紗紀が実験に巻き込まれると教えてしまったのは……


「ミサキⅡは男に素直に答えてしまった。きのうゼンゾウさんのところで写真を見ていたので、知り合いだと判断したのでしょう。タイムスリップする予定だと。その男はおいらが近付いてくるのに気付いて、ミサキⅡを引っ張って連れて行ってしまったっす。おいらはこの体型でしょ。追い付けません」


「ミサキⅡは抵抗しなかったの?」

「人間に抵抗するようなプログラムは組んでないっすよ」


 そういうことか。八咫烏はミサキⅡを盗んだのではない。美紗紀が米軍の実験に使われないように保護したつもりなのだ。どうしたものか、刀根に連絡しておくか? 否、考えようによっては、このままでもいいのか? スマートフォンを沖縄に運ぶのは米軍だとばかり思っていた。でも本当は八咫烏なのかも知れないのだ。


 とにかくミサキⅡとスマートフォンが一緒にあればいい。米軍の観測施設だろうが、沖縄の洋上であろうが、これから起こる出来事と、すでに起こった出来事に齟齬が生じなければそれでいい。大賀にその考えを話してみた。けれど……。


「スマホは……此処にあります」


 大賀が申し訳なさそうに、胸ポケットからスマートフォンを出した。


「ええっ? ミサキⅡに持たせてなかったの?」

「すみません。まさかこんなことになるなんて思ってなかったっすから」


 僕もそうだと言いたかった。言ってどうにかなるものでもないので止めた。刀根に連絡しておいたほうが良さそうだ。いま八咫烏に一番近いのは刀根なのだ。


 作業台に置いてあった自分のスマートフォンを手に取る。その時着信音が鳴った。タイミングが良すぎて驚いたけれど、既の所で落とさずに済んだ。画面には〈美紗紀ちゃん〉と表示されていた。渡したばかりのスマートフォンから掛けてきている。


「増渕です。美紗紀ちゃん、どうしたの?」

「増渕さん、どうしよう。お父さんがさらわれたかも知れない」

「ええっ?」


 思わず立ち上がってしまった。


「発表会のあと、金髪の女の人が車に乗せて行ったの。一度だけ心配するなと電話があったきり、まだ帰って来ない。あの女の人、お店にも来てくれてたんだけど、あの人が増渕さんの言っていたアメリカ軍の人なの?」

「いや、そんな女の人は知らない」


 そうか、米軍はまだタイムスリップするのが美紗紀だと知らないのだ。そういえば夕方に博から着信があった。あれは米軍との接触を知らせるものだったのか。僕が気付かなかったのだ。僕の所為だ。

 それにしても拉致するなんて。否、美紗紀を助けるために、博は自ら進んで連れて行かれたのか? あの父親ならそうする可能性もある。


「お父さん、ずっと電話に出ないんです」

「いま何処? お店?」

「もうすぐ増渕さんのアパートです」

「分かった。気を付けておいで」


 電話を切ると、気が抜けて椅子に崩れ落ちた。


「美紗紀ちゃんすか」


 大賀がいつになく深刻そうな声を出した。やりとりを聞いて察したのだろう。


「お父さんが帰って来ないらしい。連絡も取れないって」

「位置情報を追跡してもらったらどうっすか」


 ……ゼンゾウさんか。


 大賀に部屋で美紗紀を待つように頼んで二〇三号室を訪ねた。ゼンゾウさんは相変わらず短い言葉で迎え入れ、快く依頼を引き受けてくれた。


 コンピュータを操作して、ものの三分ほどでモニターに福生市の地図が現れた。ポインターが指していたのは米軍の横田基地だ。


 やはり米軍か。軍の輸送機か何かで博を嘉手納基地まで連れて行くつもりなのか?


 かちゃかちゃとゼンゾウさんがキーボードを叩き、モニター画面を切り替えた。何処が管理しているものなのか分からない。英語で書かれた飛行機の運行表だ。日付と機種名の横に発着空港を示す四文字のコードと、その発着時間が並んでいる。


 ゼンゾウさんが列のひとつを指差した。出発地〈RJTY〉。ゼンゾウさんは「横田」と言った。次に到着地〈RODN〉を指して「嘉手納」と、こちらを向く。米軍輸送機のフライトスケジュールだ。出発時間は〈1900〉――午後七時。博はこの便に乗せられるのだろうか。五分後だ。


 博に電話を掛ける。……出ない。何度も掛け直す。出ない。もしかすると米軍にスマートフォンを奪われているのかも知れない。


 着信音が鳴った。慌てて出る。


「どういうことよ!」


 藪から棒に怒鳴られた。刀根だ。


「どうしました?」

「いま久我の車が来たけど、美紗紀ちゃんが乗ってるじゃない!」 

「いや、それは違うんです」


 刀根の息が上がっている。久我の車を追い駆けて走っているのだろう。


「あんた! ちょっと停まりなさいよ! 待ちなさい! こら待て!」


 刀根の怒鳴り声が聞こえてくる。その声に交じって急ブレーキの音が響いた。


「危ないわね! もう少しで死んじゃうところじゃないの!」


 久我に叫んでいるのか? がんがんと何かを叩いている。ああ、また何か無茶なことをしているのだ。


「刀根さん! 刀根さん!」

「開けなさい。何よその顔! 大の男が怖がってんじゃないわよ! 開けなさい!」


 電話は繋がっているのだけれど応答がない。そのうちに切れた。


 もうだ。


 ゼンゾウさんが肩を突いてきて、ドアの方を指差した。白いワンピースを着た美紗紀が大賀と並んで立っていた。


「美紗紀ちゃん、ごめん」


 美紗紀が眉を寄せて増渕の前に膝を突く。


「どうして増渕さんが謝るんですか」

「お父さんはいま米軍の横田基地にいる。僕の所為だ」

「横田基地?」

「そう。それでこれから沖縄に連れて行かれるんだと思う」

「お父さんは大丈夫ですよね。殺されたりとかはないですよね」

「それはないよ。タイムスリップとは何も関係ないからね。早々に解放されるんじゃないかな。米軍がいつ気付くかだけど」


 美紗紀は「よかった」と眉を開いた。誰かに大丈夫だと言って欲しかったのだろう。米軍が本当に何もしないのかは分からなかった。美紗紀のことを訊き出すために手荒い真似をする可能性もあるのだ。ただ無暗に心配していても仕様がない。


「それでどうするんすか」


 大賀が手にしているスマートフォンを突き出してきた。


「これでまた美紗紀ちゃんとスマホが一緒になっちゃいましたよ」


 そうだ。それを避けるためにミサキⅡを作ってスマートフォンを二台も用意したのに。


「明日の夕方に嘉手納基地の沖合にあるのは、すでに決まっていることっすよね」


 大賀がスマートフォンを増渕の手に握らせた。 


「もう増渕さんが行くしかないと思います。じゃないと歴史が変わっちゃいますよ」

「じゃあ、私も連れて行って下さい」

「そんなことをしたら、美紗紀ちゃんがタイムスリップに巻き込まれるかも知れない」

「ミサキⅡは? あいつら、……八咫烏でしたっけ、何処に連れてったっすかね」

「朝霞駐屯地にいるよ。自衛隊が運んでくれるといいんだけど」


 増渕はもう一度刀根に電話を掛けた。けれど、出ない。


「くそっ!」


 珍しく増渕が悪態をつくのを見て美紗紀も声を張る。


「もう私が行くしかないと思います。増渕さんは頑張ってくれたけど、本当は私が邪馬台国にいく筈だったわけだし、過去を変えたら大変なことになるんですよね。それにもう時間がありません」


 それはそうなのだけれど。


「行く手段がないんだ。飛行機もフェリーも止まってる。どうしたらいいか」

「そんな! じゃあ、この世界は終わるのですか」

「分からない。何が起こるのか」


 突然、ゼンゾウさんが「ウナギ」と大声を出した。


「ウナギ?」


 全員が声を揃えて訊き返し、怪訝な顔でゼンゾウさんを見詰めた。


「ウナギ! ウナギ!」とゼンゾウさんは繰り返し、自分の言葉が通じないと分かったようで、少し不愉快そうに「ヤクザ」と言い直した。


 ヤクザとウナギ……丸岡興行のことを言っているのか? そういえば刀根に沖縄へ呼び出されたあの日、丸岡興行の依頼でハードディスクのデータを消した。あれは台湾とのシラスウナギの密貿易に関するものだった。


「丸岡興行ですか」


 ゼンゾウさんは頷いて、今度は「船」と言った。


 密貿易に使う船のことか? そうした船は取り締まりを振り切るために大馬力のエンジンを積んでいて、もの凄いスピードが出るとニュースで見たことがある。


「頼んでみます」と、自分の部屋に戻った。


 作業台の引き出しに放り込んでいる名刺の束の中から、〈丸岡興行〉と書かれた一枚を見付けて摘まみ上げる。


 テレビが点けっ放しになっていた。作業台の上からリモコンを探して電源を切ろうとテレビに向ける。流れていた画面を見て、その手が止まった。


 天気予報だった。日本列島のイラストに台風の進路予想が描かれている。沖縄本島と石垣島の間を抜けて北上していく進路だ。


「……猛烈な勢いに発達した台風二十五号はフィリピンの東の海上にあり、中心気圧九百十五ヘクトパスカル。明後日には沖縄、先島諸島が暴風域に入ると考えられ十分な警戒が必要です……」


 何でこんな時に。……やはり未来が過去を変えるなんて出来ないのか。

 脱力した手からリモコンがぽろりと落ちた。

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