第五章 巻き込まれた少女 1
八月の鋭い陽射しを照り返して、東京スカイツリーがきらきらと聳え立っている。
いま住んでいる秋葉原からも、以前住んでいた亀戸のガラス工場からも、この巨大な塔は見えていたのだけれど、やはり近くで見るとその美しさに飲み込まれる。
円筒から三角錐に変わっていくボディラインは狭い立地で巨躯を支える工夫だ。物理的に麗しい。
増渕孝治がこうして巨塔を見上げてから、すでに三十分ほど経っていた。
「口が開いているわよ」
聞き覚えのある声がして視線を降ろす。刀根マリだ。白いタンクトップにジーンズ姿で仁王立ちしている。
「こんな所で突っ立っていたら熱中症になるわ」
「待ち合わせ場所を決めたのは刀根さんでしょ。それに三十分も遅刻してくるし」
「デートじゃ、これくらいは遅刻のうちに入らないわ」
「デートじゃないでしょ! 調査でしょ」
「そんなことより、色々分かったわ」
相変わらずこちらの話には耳も貸さず、自分のぺエスで話を進めていく。
沖縄から戻ってきてからずっと、刀根はスマートフォンの契約者になる富田博の身辺を調べていた。
外資系コンサルティングファームに勤め、有名ブランドの立ち上げにも関わるエリートだった博は、二年前に交通事故で妻を亡くしたのを機に退職した。乗っていたポルシェを処分し、自宅のガレージを改造してジュース屋を始めたという。
家族は
検索したルート通りに東武伊勢崎線沿いに少し歩き、踏切を渡って細い路地が錯綜する住宅街に入った。一戸建てが並んだ先の、若い女性たちが十人ほど行列を成している小さな三階建て住宅の前に、〈ふるーつじゅーす〉と書かれた木製の立て看板が出ていた。一階がログハウスを模した板張りの店舗になっている。
「思ったより流行っているわね」
刀根が真っ赤なハンカチで汗を拭い列に並ぶ。行列にいる男は増渕だけだ。違和感に身を捩っていると、エプロン姿のツインテールの少女が、氷水の入った紙コップをトレイに載せて店から出てきた。
「暑いですから、お水飲んでくださいね」少女が並んでいる客に氷水を配っていく。
刀根が「気が利くわね」と受け取って一気に飲み干した。少女はちょっと驚いたように口角を上げて、「もう少しお待ちください」と店の中へ戻っていく。
タブレットにコピーしてきた画像データを読み出した。時間を逆行したスマートフォンで最初に撮影されていた、富田博とツインテールの少女とのツーショットだ。
「彼女ですね」刀根に画像を見せる。
「娘の美紗紀で間違いないわね。夏休みだから店を手伝っているんだわ」
「アルバイトの娘かも知れませんよ」
店から外国人の一団が出てきたので慌ててタブレットの電源を落とした。
美紗紀と思われる少女が顔を出して一団を見送る。
「ありがとうございました」
「美味しかった。また来るね」
金髪の青い瞳の女性が綺麗な日本語で応えて帰っていくと、美紗紀は並んでいた女性客を店に招き入れた。
「SNSで紹介でもされているんでしょうか」
「確かめるしかないわね」
刀根がそう言ったので検索していると、「何を調べてるの?」と覗き込んでくる。
「どこにも紹介されていませんね。それどころかホームページすらありませんよ」
「何のことよ?」
「いま、SNSで紹介されているのか確かめろって言ったじゃないですか」
「言ってないわよ」刀根が眉根を寄せた。
暑さでどうかしてしまったのかと思ったけれど、続けた言葉で誤解だと分かった。
「それより、あの娘が美紗紀だって確かめる方法でも考えなさいよ」
「ああ、そういうことか。それはジャーナリストの腕の見せ所じゃないですか」
刀根が凶悪な顔になって睨み返してくる。また何か文句を言われるのではと身構えたけれど、ちょうど店から制服姿の女子高生らしき二人組が出てきて、見送った美紗紀と思われる少女に店内へ案内された。
外観と同様に、ログハウスをイメージして造られた店内には、テーブル席が六つあり、一番奥がカウンターになっていた。そこに種類ごとに篭へ盛られた果物が並んでいる。画像データにあった中年男――富田博が、山盛りの果物の奥でミキサーを操作していた。
カウンターの隅に小さな額に入った女性の写真と、小指くらいの人形が飾られている。女性は交通事故で亡くなった奥さんだろう。人形は奥さんが気に入っていたものだろうか。
接客は少女がひとりでやっているようだ。入り口に一番近い席に案内され、手書きのメニューを渡された。可愛らしい文字に果物のイラストが描かれている。この少女が書いたのだろう。
少女が手慣れた様子で、「何になさいますか」と注文を訊いてくる。
「おすすめは、なあに?」
刀根が聞いたこともない優しい声を出した。逆に恐ろしくなって鳥肌が立った。
「きょうはバナナがちょうどいい具合に熟しています」
即座に切り返した少女に、刀根が感心したように振舞う。
「あなた、アルバイトにしてはしっかりしているわね」
少女は照れたように、「私じゃないです」とカウンターの奥にいる博を見た。
「父が毎日果物の具合を見て、おすすめを決めているんです」
「お父さん? マスターが?」
少女が「はい」と答えると、刀根が自慢げに髪をかき上げてこちらを一瞥した。その目が〈確認終了〉と語っていた。
「お手伝いしているのね。えらいわ。じゃあバナナジュースを二つもらえる?」
刀根の注文には黙って従った。また画像データを読み出していたのだ。タイムスリップして最初に撮られた画像――入れ墨男の瞳に写り込んだツインテールの少女だ。 美紗紀がカウンターに戻ったのを確認して、そっと刀根に見せた。
「彼女が邪馬台国に行くんですね。スマホは父親が契約して娘に持たせるのかな」
富田親子が仲睦まじく注文の確認をしているのを見て、刀根は何やら考えているようだ。
「あんた、あの親子がスマホを買う前に私たちが手に入れちゃったら、歴史が変わるって言っていたわよね。どうにかならないの?」
「どうにかって、もう彼女とスマホはタイムスリップしているわけですし」
「そこが解らないのよ。美紗紀ちゃんはまだ此処にいるじゃない」
「違うんですよ。もう邪馬台国に行ったあとなんです。画像データを見たじゃないですか」
「なんか釈然としないなあ、そのデータ通りに私たちが動かないとならないなんて変じゃない。未来の出来事が過去を決めるってこと?」
刀根の言葉に衝撃を受けた。未来が過去を決める。……ここ数年の朦々としていた想いが像を結びそうになった。
「お待たせしました」
美紗紀がバナナジュースを持って来た。慌ててタブレットを伏せる。美紗紀がバナナジュースを丁寧にテーブルに置いた。フルーツのイラストが入ったグラスだった。
「可愛いグラス。あなたが選んだのね」
「分かりますか。お店を開く時に探し回ったんですよ」
「それは分かるわよ。おじさんにはこのグラスは選べないわ」
美紗紀はくすくすと笑った。カウンターの奥で父親の博も笑みを浮かべている。
「そのバナナのイヤリングも可愛いわね。お母さんと選びに行ったの?」
美紗紀の笑顔が少し曇ったように見えた。それはそうだろう、この店を始める前に母親を亡くしているのだ。それを知っているのに、刀根は何てことを言い出すのだ。増渕は取り繕うようにバナナジュースを飲んで、「おいしい!」と大袈裟に褒めた。
「母とは行けませんでした」
「ごめんなさい。何か余計なこと訊いたみたいね」
「いいんです。グラスとイヤリングを気に入ってもらえて良かったです」
娘と刀根のやりとりが聞こえていたのだろう、博が「何か粗相でもありましたか」と、カウンターの奥から出てきた。
「いえ、この男が変なことを言ったみたいで」
刀根がこちらを見た。責任を押し付けるつもりだ。「すみません」と取り敢えず頭を下げた。博は美紗紀に、外の客へ氷水を出すように言ってテーブルから離し、小声で話し始めた。
「この店はずっと妻がやりたがっていたのですが、開店前に亡くなってしまいましてね。娘は母親の代わりをやっているつもりなのです。お許しください」
博が頭を下げると、刀根がまた顎をしゃくる。
「いえいえ、こちらこそ申し訳ございません」
頭を下げた増渕を見て博が恐縮したように言う。
「では、特製ジュースを飲んでいって下さいませんか。さっぱりしますよ」
博が出してくれたのは、スイカとレモンで作った爽やかなジュースだった。
刀根も驚きの声を上げたほどに、本当にさっぱりして店を出た。
「いい親子でしたね」
「美紗紀ちゃんをタイムスリップなんかさせちゃ駄目よ。あんたは何か方法を考えなさい」
増渕はにんまりと笑みを浮かべた。刀根が睨み付ける。
「また、その憎たらしい顔! 何か思い付いているのね」
「未来が過去を決めてしまえばいいんですよ」
本当にそんなことが出来るのか、それはアパートに帰らないと分からない。でもきっと、あいつなら出来る筈だ。
「よく分からないけど、じゃあこっちは任せたわよ。私は沖縄に行ってくる」
「木之下さんのことですね」
増渕が確認すると、刀根は答えずに少し悲しそうな顔をして駅へ向かっていった。
ボロアパートに戻って右隣の部屋――二〇一号室のドアを叩く。
「大賀くん。増渕です」
「すんません。二分後にもう一度ノックしてもらえないっすか」
部屋の中からガチャガチャと音が聞こえてくる。また驚かそうとしているのだ。
二〇一号室の入居者――
研究成果を教授に奪われた大学院時代の不遇を物ともせず、此処で新たな姿勢制御装置を開発して、人間と全く同じ動きをするメイドロボットを作り上げた凄い男なのだけれど、人の驚く顔が好きだという少々変わった一面がある。
まあ、そんな大賀だからこそ、ロボットに組み込むサプライズがマニアの間で人気を集め、相当な収入を得ているらしいのだ。
「もういいっすよ。ノックしてください」
「大賀くん。増渕です」
言われた通りにもう一度ノックして、初めからやり直した。
「孝治、本当に孝治なの?」
女の声がして勢いよくドアが開き、メタリックの骨組みと機械が剥き出しの人型ロボットが顔を覗かせた。顔と言っても映像認識用のカメラレンズが二つあるだけなので、カマキリのようだ。喉には最新技術の難聴者用スピーカーを備えていた。
「ああ孝治。生きていたのね」
ロボットが二つのレンズをこちらに向ける。優しく頬を撫でられた。指先の動きは滑らかで人間そのものだ。
「愛し合った二人が、五年ぶりに再会したという設定っす」
いつものように白衣を着た大賀が、いつものようにメロンパンを頬張って、いつものように人の驚いた顔を見て喜んでいる。ロボットがレンズの横の細い管から水を流し始めた。恐らく泣いている設定だろう。
「何も言わずに出て行って、今まで何処にいたのよ」
抱き締めてくる力加減も人間のそれと同じだ。久しぶりの感触だった。
「驚きました? まるで感情があるみたいでしょ」
増渕が「ああ」と頷くと、大賀は目の前まで来て自慢げに胸を張る。
「設定に応じた会話と、状況に合わせて姿勢を制御しているだけなんすけどね」
大賀がロボットの背にあるスイッチを押すと、増渕に抱き付いていた腕がだらりと垂れ下がった。
「人工知能まで作ったのか」
「似たようなものなんすけど、増渕さんが考えているような思考するものではないっすね。分かりやすく言うと、ある人物の言動をコンピュータが再現しているだけ。映像と音声情報を解析して、行動パターンを選択してるっす」
「再現? このロボットが考えているわけではないのか」
「そうっす」
大賀はロボットを玄関の脇に寄せ、増渕を招き入れた。
「その娘は、ぴのむちゃんの真似をしているだけっす」
「ぴのむちゃん? あのピュアハートの?」
ピュアハートは秋葉原駅の電気街口を出てすぐにあるメイド喫茶だ。その人気メイドのひとりがぴのむちゃんで、大賀が惚れ込んで何度も誘っていたのだけれど、いつも袖にされていた。あれは交際を迫っていたのではなかったのか。
「彼女の思考を学習させました。どんな時にどう動いて何と話すのか。データを取るのに三カ月も通っちゃったっすよ。此処に来てくれれば早かったのに」
大賀は作業台の上に置いてあった二つ目のメロンパンを手に取って、「さあ、飲みに行きますか」と袋を開けた。
大賀の部屋はまるで手術室のようだ。中央に大きな作業台があり、天井から手術用の照明灯が延びている。作業台には製作途中のロボットが横たわっていて、その頭や胴体から幾つもの配線が周囲に置かれた五台のコンピュータに繋がっていた。
壁一面の棚には腕や脚、胴体などバラバラの部品が置かれている。頭部の幾つかには人気アニメのキャラクターと思われる、プラスチック製の顔が取り付けられていた。増渕はそのひとつを手に取って、改まって言った。
「きょうは、ロボットを売ってもらおうと思ってね」
大賀は大いに驚いた顔をした。こちらに椅子を差し出して座るように勧め、自分は床に転がっている大きなクッションに腰を下ろす。
「構わないっすが、増渕さんの収入ではちょっと……」大賀はその先を言い淀んだ。
「大丈夫。大きな仕事で入金があったんだよ」
大賀は「へーっ」と感心して、「それでも」と言葉を継ぐ。
「安くても五百万は掛かりますよ。うちは全てオーダーメイドっすから、どんな仕様にするのかでどんどん費用が嵩んでいきます」
「さっきの、人の真似をするロボットは?」
「あれは実験機。非売品っす」
大賀がメロンパンを頬張る。
「見た目を人間そっくりに造れるのかな」
大賀が訝しむような表情を浮かべて、食べ掛けていたメロンパンを作業台に置く。
「それじゃあロボットである必要はないっすよ。人間を雇ったほうが早いし安い」
この反応はそっくりに造れるということなのだろう。覚悟を決めて、これまでの経緯を全て話し、タブレットに入っている美紗紀の画像を見せた。
話を聞いている間、大賀は手にしたメロンパンを齧ろうとしては止め、作業台に置こうとしてはまた手に取ったりしていた。混乱しているのだろう。でも信じてくれてはいるようで、話を遮ることはなかった。まあ、こんな作り話をする理由もないと考えたのだろう。増渕も嘉手納基地で初めてこの話を聞いた時はそうだった。
「この少女の代わりに、うちのロボットをタイムスリップさせるということっすか」
大賀はおもむろに立ち上がって、作業台に横たわっているロボットの頭を撫でた。
「未来が過去を変えるなんて、本当に出来ますかね」
「僕はそう信じる」と言い切った。自信があったわけではない。そう願ったのだ。これがうまく行けば、これまで避けてきた自分の過去に向き合う考えも変わるのかも知れない。それに、このボロアパートの住人なら皆同じ想いの筈だ、と思った。
少し間があって、「面白い。この話、乗りました」と大賀が大声を出した。
「まずは少女のデータ集めからっすね。その娘を此処に連れて来れますか」
前のめりになっている大賀に気圧されて、「何とかする」と言ってしまった。
大賀がクッションに座り直して、ロボットにはどんな機能が必要なのか、あれこれと訊いてくる。二人でタブレットにコピーした画像を確認した。
時間を逆行して最初に撮影されている画像――入れ墨男のアップにはGPS情報はない。内蔵時計の記録では〈201810031722〉二〇一八年十月三日午後五時二十二分となっている。七枚目、最後に撮影された少女の画像――壱与だと思われる――の記録は、〈201810061308〉十月六日の午後一時八分だ。恐らくスマートフォンのバッテリーが無くなったのだろう。
つまりタイムスリップしてから三日間で七枚の画像を撮影さえすれば、このスマートフォンをめぐって起きた出来事に矛盾は生じない筈だ。
大賀が全ての画像を見て残念そうに言った。
「せっかく過去に行ったのだから、もっと色々と撮影すればよかったのに。依頼主もがっかりしていたっしょ?」
「どうだろうね。これだけじゃ邪馬台国の証明にはならないとは言ってたけど。でもスマホのバッテリーが無くなったんじゃ……」
そこまで言ってこの計画の問題点に気付いた。
「ロボットのバッテリーは三日間も持つのか」
「電気自動車用のリチウムイオンバッテリーを使ってますけど、三日どころか八時間が限界っすね。姿勢制御やコンピュータが物凄く電気を食いますから」
大賀が棚からコンクリートブロックほどの大きさのバッテリーを出し、作業台に置いた。
「うちのロボットは家庭内での使用に限られてますからね。いつでも充電できる環境にあるから問題にはならないっす」
「何とか出来るでしょ」と言ってみる。技術者を焚き付ける言葉だ。
大賀はにやりと笑みを浮かべて楽しそうに応えた。
「考えなきゃならないことが山ほどありますね」
二人で話しているうちにロボットの仕様が決まっていった。まずは美紗紀にそっくりであること、次にスマートフォンの操作が出来ること、そして三日間の稼動が可能なこと、最後にスマートフォンを卑弥呼の祠に納めることだ。ある程度のコミュニケーション能力も必要になるだろう。中国語や琉球語をインストールしておいた方がいいかも知れない。大賀なら造れるのだろうけど、問題は……。
「費用はどのくらいかかる?」心配になって訊いた。
「それは結構っす」大賀が軽い感じでけろりと言う。
「その代わりに、増渕さんにも協力してもらいますよ」
人懐っこい顔で、大賀は残っていたメロンパンを口に放り込んだ。
……さて、あとは美紗紀をどうやって誘い出すかだ。
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