第四章 地獄での約束 5

 二カ月後、木之下は大勢の捕虜と共にハワイの収容所に居た。


 建設現場での重労働が課せられ、毎日のように軍事機密を聞き出そうと尋問が繰り返されている他の捕虜たちとは違って、木之下は病室で人並みの治療と食事が提供されていた。洞穴で声を掛けてくれた青年の口利きらしい。


 あの青年――ドナルド・キーン。彼にはそれまでの経緯を洗いざらい話した。キーン青年は飛行場建設や軍の陣地のことよりも、日本文化に興味があるそうだ。木之下が筆談で説明する遺跡や、邪馬台国をとても面白がっている。週に二度、病室にやって来ては戦争とは全く関係のないことを訊いてくるのだ。


 八月も半ばになると話題も無くなり、木之下は四角い鏡状の出土物を見せてみた。キーン青年は珍しそうに手に取り、じっくりと観察して「英語ノヨウナ文様デスネ」と、掠れている文字らしきものを紙に写していった。


 最初の文字は〈D〉、次は〈O〉、続いて〈C〉〈O〉〈M〉、あとは読み取れないようだ。

 

「コレハ〈ドゥ、カム〉カナ? 卑弥呼ガ貴方ニ、来イ、ト言ッテイルノデスネ」


 悪戯っ子のような笑みを浮かべて、キーン青年は四角い出土物を木之下の手に優しく置いた。


 青年が病室を出て、入れ替わりに若い看護婦が入って来た。包帯を替える時間だった。この看護婦が木之下の入所以来ずっと面倒を看てくれている。琥珀色の綺麗な瞳に栗色の髪をした日系三世だった。


 いつものように喉に巻いている包帯を外し、呼吸のために開けられている孔を消毒する。銃剣で咽喉を吹き飛ばされて声を失った木之下を、彼女は「声と引き換えに神様が生きる道を与えてくださったのよ」と、何度も慰めてくれた。


「戦争が終わりましたよ」


 包帯を巻き終えて、不意に彼女が言った。


「新型爆弾が使われて、日本は無条件降伏を受け入れました」


 身を乗り出して〈やっと終わったのですね〉と叫んだ。

 しかしそれは声にならず、しゅうしゅうと喉を鳴らしただけだった。


 ――そこで目が覚めた。


 昼食後にまた眠ってしまったようだ。近頃は眠っている時間が多くなった。こうしていつかは目が覚めなくなるのだろう。妻のケイがベッドの横で、あの頃と同じ琥珀色の綺麗な瞳でこちらを見詰めている。お互いに随分と齢をとったものだ。


「どうしたの? うなされていたわよ」


 木之下は枕元のサイドテーブルから人工声帯を取って喉に当てた。


「キミノ、ユメヲ、ミテイタヨ」

「私の夢でうなされていたの? ひどいわね」

 

 ケイは持っていたシャツとズボンをベッドの足元に置き、木之下を抱え起こした。


「センソウノコロヲ、オモイダシテイマシタ」

「もう思い出すのは止したほうがいいわね。只でさえ永くないのに寿命が縮むわよ」


 手際よく木之下を着替えさせて、ケイはベッドの脇に車椅子を持ってきた。ケイの肩を借りて車椅子に座る。


「そろそろバーディーが来るわ」


 ケイはクレメンズをファーストネーム〈ロバート〉の短縮形〈バーディ〉と呼ぶ。英語圏では当たり前のことなのだそうだ。だが米国の軍人というだけで気を許せず、木之下は今でもそれが出来ずにいた。クレメンズと娘が、ケイと三人で食事や映画に行く時も留守番に徹している。気難しい親父に見えているのだろう。


 あの出土物がスマートフォンだと分かって、クレメンズに調査の話を持ち掛けた時にはとても喜んでいた。真面に向き合ったのは二十年ぶりだった。この計画がうまく行けば家族はばらばらになるのかも知れない。しかし人生の殆どは家族との時間に費やしたのだ。そうなってもケイは許してくれるだろう。


「最近よく出掛けるけど、あんまり無理しないでよ」


 ケイが玄関の大きな扉を開けた。ちょうどクレメンズの乗ったハンヴィーが駐車場に着いたところだった。運転手が駆け寄って来て、ケイから車椅子を引き取った。


 嘉手納基地の士官用住宅でクレメンズ――娘夫婦と同居を始めて四年になる。住み始めた頃は、この忌々しい中飛行場の跡地で暮らさなければならない運命を呪った。忘れていたセツ子を思い出し、地獄のような沖縄の戦場が夢に現れるようになった。


 此処で暮らす日々が次第に苦痛になっていった。そこに刀根記者の孫娘が訪ねてきたのだ。沖縄の神々が巡り合わせたのだと思った。人生の最後にセツ子との約束を守る機会を与えてくれた。否、約束を守れと命じられたのかも知れない。今のところ八咫烏は思った通りに動いてくれている。あとは日本政府がどう動くかだ。


 士官用邸宅には駐車場が四台分あるが、使っているのはクレメンズのキャディラックだけだ。空いているスペースにハンヴィーが斜めに突っ込んで停まっている。運転手の手助けで後部座席に収まると、隣に乗っていたクレメンズが嬉しそうに言った。


「先ほど国防長官から、観測結果を楽しみにしていると連絡がありました。お義父さんのお陰で私もアメリカの歴史に名を遺すことが出来ますよ。本当にありがとうございます」


 木之下は黙ったまま、掌に載せた奇妙な勾玉を見詰めていた。セツ子の形見だ。


 反応のない木之下を見て、クレメンズは残念そうに短く溜息をついた。運転手に出発するように指示を出す。


「ただ、ひとつ問題がありましてね、先日の侵入者に対する発砲です。お義父さんの言う通りに発表しましたが、予想以上の騒ぎになっています。何とかしないと」


 木之下はセツ子の形見をポケットに仕舞って、人工声帯を喉に当てた。


「モット、ケイビヲカタメテオイタホウガ、イイデスネ。ココデヨワキニナレバ、テロリストニツケコマレマス」

「あの侵入者は何者なのですか」

「アノスマートフォンヲ、ズットネラッテイル、レンチュウデス」


 クレメンズは腕を組んで考え込んでいるようだが、対テロ戦争を掲げている米国にとって他の選択肢はない筈だ。この計画はアメリカが威信を懸けて守るだろう。


 ハンヴィーは住宅地を抜けて滑走路沿いに海へ向かう。ちょうど貨物機が着陸してくるところだった。巨体が重低音の羽音をたてて追い越していく。並んだ戦闘機の脇を抜けて、滑走路の一番南側にある巨大な格納庫の前でハンヴィーが停まった。


 幅が百メートルはあろうかという扉の前に、迷彩服姿の一団が整列して敬礼をしている。周囲には高圧電源ケーブルの巻かれたロールや、建設用鋼材の束が幾つも置かれていて工事現場のようだ。この格納庫をタイムスリップ現象の観測施設に改造していたのだ。


「やっと完成です。私も初めて見ますよ」


 クレメンズが車を降りて答礼し、一団に合図を送った。金髪の若い女性隊員がこちらに駆けて来る。ハンヴィーの荷台から手早く車椅子を降ろし、手を添えて木之下を座らせた。


「サンクス」木之下が礼を言う。

「どういたしまして」女性隊員は綺麗な日本語で答えた。


 チームリーダーと思われる、立派な口髭を蓄えた男が手を上げた。格納庫の巨大な扉がゆっくりと動き始める。身体が通るくらいに扉が開くと、研究チームの一団は中へ入っていった。


 女性隊員が車椅子を押して、満足そうに格納庫を見上げているクレメンズに並ぶ。開いた扉の奥からは肌を刺すような冷気が漏れ出していた。クレメンズが女性隊員をちらりと見て耳打ちしてくる。


「こう見えても、エリザはアメリカ空軍が誇る地球物理学研究所のエースですよ」


 失礼な物言いだと思った。この女性隊員――エリザは見るからに聡明ではないか。


「このプロジェクトに参加できて光栄です」

 

 エリザが覗き込んできて、その大きな青い瞳をきらきらさせて微笑んだ。


 僅かに開いた扉がすぐに閉まり始めた。格納庫の冷気を保つためなのだとエリザが説明しながら、車椅子を押して扉の隙間へ滑り込む。


 格納庫の中央には直径二十メートル、高さ八メートルほどの巨大な金属製の円柱が立っていて、そこから同心円状に波形やグラフを映し出している膨大な数の機器が配置されていた。骨だけの傘のような巨大なドームが全体に覆い被さっていて、その骨にアンテナやカメラがびっしりと取り付けられている。


 クレメンズが円柱の前まで進み出て、満足そうに「マーベラス!」と声を張った。  

 口髭の男が英語であれこれとクレメンズに施設の説明を始める。興味を惹かれる話ではなかった。そもそもタイムスリップ現象などどうでもいい。高速で数字を打ち出しているモニターを漫然と見ていると、エリザがデスクに置かれていた毛布を膝に掛けてくれた。


「その数値はスーパークロックの計測結果です。ストロンチウム光格子時計と言っていま最も正確に一秒を計測できる装置です。日本が開発した世界に誇る技術ですよ」


 エリザが部屋の中央にある巨大な円柱の上を指差す。


「あの円柱はワイヤーチャンバーといって素粒子を検出する装置です。時間の逆行に未知の素粒子が関わっているのかどうかを調べます。あの上にストロンチウム光格子時計が載せられています。そもそも時間は地球の自転を基準に決められました。地球が一回転する八万六千四百分の一が一秒です。しかし自転は一定ではありません。そこで殆ど狂いのない原子の共鳴周波数が基準とされました。現在はセシウム原子の共鳴周波数が一秒の基準です。小数点以下十六桁まで正確に一秒を刻み、誤差は二千万年に一秒です。ストロンチウム光格子時計はそれを遥かに凌ぐ正確さです。計測できるのは小数点以下十八桁。誤差は三百億年に一秒です。これだけ正確ですと、僅かな高低差での重力による時間のも計測できるのです。今回の実験ではタイムスリップの時に、時間そのものがどのように変動するのかを計測します」


「ソレハ、オモシロソウダ」適当に話を合わせると、エリザが「興味ありませんか」と微笑んだ。


「珈琲でも飲まれますか。此処で飲む珈琲は格別ですよ」 

「イヤ、ケッコウ。ツヅケテ」


 エリザは計測機器の間を縫うように、ゆっくりと車椅子を押していく。


「私たちはとても興奮しています。時間の正体を解明できるかも知れませんから」


 その声の高ぶりから、エリザが楽しそうに話している表情が想像できた。


「時間とは様々な定義や理論はあるのですが、何か、ということは分かっていないのです。未来に向けて一方向にしか進まないということすら、なぜなのか分かりません。それなのにスマートフォンがその時間を逆行したなんて、人類の理解を超えた現象なのです。しかし時間の逆行を可能だとする理論はあります。ワームホールいう言葉を御存知ですか」


 木之下は微笑みながら首を横に振る。エリザは巨大な円柱――ワイヤーチャンバーの真下を貫くように通っている溝の前に車椅子を止めた。金属製の格子状の溝蓋の下には太いパイプが走っている。


「ワームホールとは、現在の時空間と別の時空間を繋ぐトンネルのようなものです。もちろん理論上の話で現在の人類には作り出すどころか見付けることすらも出来ていません。重力が大きく関係していると考えられていて、この溝の中の装置はその重力を計測するためのものです。滑走路に沿って四キロほど敷設しています。パイプの中にはレーザーが飛んでいて、重力の僅かな変動でも見付けられます。それにワームホールには物理の常識を覆すマイナスの質量を持った未知の素粒子が必要なのです。此処には現在考えられている理論の検証に必要な計測器が全て揃えられています」


「タイムスリップノヒガ、タノシミデスネ」

「はい!」エリザは満面の笑みで、また木之下を覗き込んだ。


「空軍に入隊して、初めて良かったと思っていますよ」


 エリザは言い終わると、滔々と実験の意義を語っている口髭の男を一瞥した。時間を操ることが出来れば核兵器以上の抑止力になると、先ほどから力説している。

 スターリンも毛沢東も米国の脅威になる以前に消し去ることが出来るらしい。世界中がそのことを知るだけでも逆らえなくなるそうだ。その国の根幹に係わる歴史を米国が握ることになる。この実験はその第一歩なのだという。


 あまりに馬鹿馬鹿しくて呆れていると、エリザが軽蔑するような口調で囁いてきた。


「核兵器も、アメリカの独占に危機感をもった科学者たちがソ連に情報を流したのです。あの男が言っているようなことには私がさせませんから」


 口髭の男の熱弁が終わってクレメンズだけが嬉しそうに拍手をしている。


 スマートフォンの発売まであと二カ月を切ろうとしていた。

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