第四章 地獄での約束 4
セツ子や良子には友達が出来たようだ。子どもたちと一緒に朝の水汲みに行くようになった。真徳の腕の傷には蛆が湧いた。だが真徳は「これで治りが早くなる」と、そのままにしている。相変わらず食糧はなく、夜中に蛙や蝸牛を獲りに行って飢えを凌いでいた。
状況が大きく変わったのは、五月も終わろうという頃だった。
夕刻、渡久山は駐在所から帰って来ると、木之下に手伝わせて大小二つの木箱を運び込んだ。自分の寝台の周りに、其々の家族の代表者たちを集めて演説を始めた。
「本日、友軍の司令部を首里から南の
渡久山と打ち合わせた通りに、渡された
「渡久山さん、こんな貴重品をどうしたのよ」
「滋養をつけて、この難局を乗り切るのです」
「儂らも兵隊だと言うことだな」
老人のひとりが達観したように呟くと、喜びの声が一転した。
「子どもはどうするの。此処には大勢の子どもたちが居るのよ」
渡久山が「最悪の場合は」と、練乳の木箱の上に小さな木箱を重ねる。
「あくまでも最悪の場合ですが、我々は玉砕です。生きて
渡久山が小さな木箱を開けた。綿を緩衝材にして、液体の入った小さな硝子の薬剤容器が並んでいる。木之下にはその容器に見覚えがあった。まだ部隊にいた頃、戦闘機乗りの青年が見せてくれたのだ。敵地に不時着した時に、捕虜にならないために使う自決用の青酸カリだった。
「これを練乳に混ぜるだけです。何度も言いますが、あくまでも最悪の事態に備えてのことです。そんな事態にはならないと思います」
先ほど呟いていた老人が歩み出てきて声を荒げる。
「これまで嘘ばかりだったではないか! 連合軍に大打撃を与えていた筈なのに、気が付けば那覇まで攻め込まれているとは。もう最悪の事態ではないのか!」
女性たちの騒めきが、すすり泣きに変わった。
「まあ、使うのかどうかは各自で判断してもらって……」
渡久山が取り繕うように言うと、目を真っ赤にした中年女性が手を差し出した。寸刻その手を見て、渡久山は「ああ」と我に返り、練乳一缶と薬剤容器を五つ渡した。
「お子さんは四人でしたね。きっと大丈夫ですから」
「五つありますけど」
中年女性が手にした容器を見て、怪訝そうな表情を浮かべる。
「あなたの分です」
渡久山は相変わらず生真面目そうな顔だ。女性は声を出して泣いた。その泣き声に触発されたように次々と手が差し出される。渡久山は其々の家族構成を覚えているようで、必要な分を手渡していった。最後に木之下に薬剤容器を四つ渡し、小さな木箱は空になった。
集まっていた人たちが家族の元に戻ると、渡久山は空になった箱を自分の寝台に投げつけて、大きな木箱に残っている練乳を子どもの多い家族へ配るように指示してきた。
「渡久山さんの薬と練乳がありませんよ」
渡久山は寝台の敷布の下から手榴弾を出して、悲しげな笑みを見せた。
「私が楽に死んでどうする。最後まで此処を守るのが私の役目だ」
薬剤容器が入っていた小さな木箱に手榴弾を入れて、渡久山は静かに蓋を閉めた。
その日の夜遅く、渡久山が洞穴の入口付近にいた住民たちを奥に連れてきた。手提げ電灯で空いている隙間を確認して、そこに中年女性や老夫婦を振り分けていく。どうしたのかと木之下が見ていると、渡久山が傍らにやって来た。
「ちょっと手伝ってくれ。友軍が来ている」
渡久山と入口の空間に行くと、四方から手提げ電灯に照らされた。
「お手伝いできるのは我々だけです」渡久山が敬礼する。
光の向こうから友軍のひとりが「仕方あるまい」と進み出てきた。その顔に息を呑む。嘉手納の小隊長だった。動揺を見透かされたのか、繁々と顔を覗き込んでくる。
「貴様、何処かで見たことがあるな」
背筋が寒くなった。そして、光の向こう側から聞こえてきたもうひとりの声に凍り付いた。
「そんなことよりも、早く荷物を運び込みましょう」
黍野大尉の声だった。
小隊長が「はっ」と応えて、木之下たちに「付いて来い」と顎をしゃくる。こちらの返事も聞かずに、周りの兵卒たちを連れて洞穴を出て行った。
黍野大尉は渡久山の寝台に座って、悠然と黒眼鏡を拭いている。
「生きていたとは驚きました。あとでゆっくり話しましょうか」
渡久山が黍野大尉を一瞥して木之下の肩をぽんと叩き、「行こう」と洞穴を出た。彼らが自傷癖の一郎を追い出した部隊だと勘違いしているのだろう。
闇の中を水汲み場まで下った。友軍の兵士たちが無線機や弾薬箱を抱えて整列している。小隊長を除くと七人。見知った顔は一人もいなかった。嘉手納にいた頃は小隊には六十人近くいたから、随分と減ったものだ。
命令通りに二つの木箱を持って洞穴に戻る途中、兵卒のひとりに声を掛けた。
「友永軍曹がどうされたのか御存知ですか」
「分からない。今朝の攻撃で部隊は散り散りだ。知り合いか」
「以前に御世話になったことがあります」
「そうか、無事だと良いな」
この兵卒が友永軍曹を知らないのか、知ってはいるが、どうなったのかを知らないのか、判断が付かなかった。何れにせよ、他人のことに構っている状況ではなかったのだろう。熾烈な攻撃に晒らされて、此処に命辛々逃げて来たのだ。
兵士たちは荷物を運び終わると、項垂れるように寝台に崩れ落ちた。洞穴で待っていた黍野大尉が、手にしていた渡久山の帳面を寝台の上に放り投げて立ち上がる。
「少し外に出ましょう。木之下君。否、いまは城間一郎君だったかな」
渡久山が訝しげな顔で見ていたのだが、気付かないふりをして洞穴を出る。丘を登りながら、黍野大尉はこちらを見もせずに話し始めた。
「中飛行場は連合軍に占拠されましたよ。もう彼らの飛行場になっています。苦労して造ったのに、それが今は我々の脅威になっている。皮肉なものです」
気を抜くとずり落ちるほどの急斜面を、一歩一歩尾根を目指す。
「本当に君にはすまないと思っています。彼を殺すつもりはありませんでした」
唐突な言葉に驚いた。
「しかし、あれは空襲で……」
「同じことです。君が走り去ったあと、母屋が崩れましてね。彼が下敷きになったのです。助けられませんでした」
黍野大尉が態勢を崩して木立に右手をついた。人差し指と中指が爛れて癒着している。藤六を助けようとした時に負った火傷だろうか。
「あの少女は無事なのですか」
「一緒に避難しています」
「それは何よりです」
尾根に出ると視界が開けた。北の空が赤く染まっている。那覇の街が燃えていた。
「この戦争は、後世でどんな解釈がされるでしょうかね。君が歴史書を編纂するとしたら、後世に何を伝え残しますか」
黍野大尉は立ち止まり、ようやくこちらを見た。
「そんなことのために、皆死んでいったのではありません」
「それはそうでしょう。しかし、この戦争にも何れ名前が付けられて、良きにしろ、悪しきにしろ、ある意図を持って伝えられていきます。なぜなら、それが拠り所だからですよ。だからこそ歴史を作るには細心の注意が必要なのです」
黍野大尉は胸の衣嚢から恩賜の煙草を取り出し、一礼して咥え火を点けた。
「前にも言いましたが、この国は一からの作り直しになります。これまでの体制は全て否定されるでしょう。列強が分割統治しようとするかも知れませんし、共産主義者が民衆を扇動して違う国に作り変えてしまうかも知れない。勝ち負けだけの問題ではありません。敗戦がこの国を、日本を違う国に変える切欠にされるのです」
黍野大尉は大きく煙を吐き出した。紫煙が木之下の鼻を擽った。
「我々が全力でそれを止めますがね」と、黍野大尉が手を差し出す。
「君にそんな意図があるとは思えませんが、あの出土物は利用される可能性があります。どんな小さな芽も摘んでおかなければなりません。渡してくれますね」
あの四角い鏡状の出土物だ。上着の衣嚢に入っている。もちろん出さなかった。
「逃げる途中で失くしました」
「本当ですか」
黍野大尉がじっとりと顔を窺ってくる。その眼を真っ直ぐに見詰め返した。黍野大尉は暫し木之下の瞳の動きを確認して、燃える那覇の街に視線を移した。
「戦争が終わったら我々の元に来ませんか。時には暴力的な手段を執ることもありますが、我々には発掘の専門家から成る部署もあります。いい話だと思いますがね」
平然と歴史の改竄を行う組織が専門家だと? ただ監視下に置きたいだけだろう。
「お断りします」
木之下の答えを訊くと、黍野大尉は体を翻して「そうですか」と丘を下り始めた。
「間もなく首里は陥落します。沖縄での戦闘は終わるでしょう。しかし、君と我々の戦いは続きますよ。よく考えておきなさい」
五日後、首里が陥落しても戦闘は終わらなかった。軍司令部は沖縄南端に新たな戦線を張って、連合軍との徹底抗戦を繰り広げていた。
雨が降り続いている。
木之下と渡久山は尾根に上って首里方面に目を凝らしていた。一面の廃墟から雨音に交じって微かに銃声が聞こえてくる。
逃げ惑う住人たちが
「大勢逃げて来ているな。見付からなければいいが」
「受け入れる準備をしておきましょう」
「小隊長が駄目だと言っている。避難者が来ても追い返せと命じられた」
「彼らに行く場所なんてありませんよ」
その言葉を掻き消すように爆音が轟いた。艦砲射撃だ。逃げ惑う住民たちに次々と着弾して吹き飛ばしていく。渡久山が視線を振り上げた。つられて空を見上げる。暗く垂れ込めた雨雲の下に機影が見えた。
「
渡久山は
追い駆けて洞穴に戻ると、渡久山が小隊長に殴り飛ばされているところだった。
「止め給え」黍野大尉が声を張った。
「しかし……」小隊長が振り上げた拳を止めて震わせている。
黍野大尉がその拳を降ろさせて、倒れている渡久山を引き起こした。
「今後の偵察は我々に任せてもらえませんか」
木之下は歯を食いしばって立ち竦んでいる。小隊長が顔を近付けて怒鳴った。
「貴様は洞穴から出ることを禁ずる。分かったな」
突き飛ばされた渡久山を受け止めて、木之下は奥の寝台まで連れて行った。セツ子と真徳が心配そうに見ている。
渡久山は寝台に腰掛け、口に滲んでいる血を手の甲で拭った。
「島民がやられているのにどうして助けに行かないのかと訊いたら、行き成り殴られたよ」
「兵隊七人程度では何も出来やせんよ」
真徳が悲しげに呟いて、眠っている良子の顔を見詰めていた――。
次の日の朝、真徳と良子は寝台の上で亡くなっていた。
遺体の傍らには練乳の缶と、二つの空になった薬剤容器が転がっていた。余程苦しかったのだろう、真徳は喉を掻きむしって何かを睨み付けるような形相だった。
セツ子を起こして二人の死を告げる。
「渡久山さんを呼んで来てくれますか」
セツ子は口に手を当てて寸刻遺体を見詰めていたが、すぐに頷いて駆けていった。死後硬直が始まっている真徳と良子の身体を伸ばし、布団に包んでいると、慌てた様子でやって来た渡久山が、手提げ電灯で二人の遺体を確認して手を合わせた。
「奥に運ぼう」
渡久山が耳打ちしてくる。洞穴の奥に遺体を安置するところがあるようだ。真徳を運んでいると、暗闇の中の住人たちが気付いて、其処彼処から嗚咽が漏れ始めた。
居住区を抜けた洞穴の一番奥には、急角度で地下へ落ち込んでいる場所があった。手提げ電灯の光が届かないほどに深い。斜面に真徳を寝かせる。遺体はずるずると自然に滑り落ち、暫くするとどぼんと水に落ちる音がした。
続いて良子を運ぶ。その大きさに子どもだと分かったのだろう、嗚咽が先ほどにも増して大きくなった。
良子を斜面に滑らせたその時、洞穴全体がびりびりと揺れ始めた。爆弾が落ちたのではない。これは……戦車がこの丘の上を走っているのだ。嗚咽が騒めきに変わり、子どもたちが不安そうな声を上げ始めた。
「子どもらを静かにさせろ!」小隊長の声が洞穴内に響いた。
木之下と渡久山は洞穴の入口へと急いだ。その途中、友軍の兵卒が泣いている子供に布団を被せて押さえ付けていた。木之下は咄嗟にその手を掴んでしまった。
「何だ貴様!」兵卒が木之下の手を振り解いて小銃を突き付ける。
布団から出て泣きじゃくる子どもを母親が抱き寄せる。
「静かにさせます。静かにさせますから」
母親も泣いていた。その手に握られている練乳の缶を見て、兵卒は「早くしろ」と小銃を下げた。
揺れは一層激しくなり、今や戦車のきゅるきゅるという走行音まで聞こえている。
洞穴の入口では斜面の手前に寝台が積み上げられていて、それを盾に兵士たちが光の差し込んでくる頭上へ小銃を向けていた。小隊長が寝台の脇に屈んで外を睨み付けている。
「君たちは下がっていたまえ」黍野大尉がこちらに気付いて近付いてきた。
戦車の走行音が止まった。
黍野大尉が入口に振り返る。沢山の軍靴の音と英語で話す声が聞こえてきた。洞穴内の空気が張り詰める。誰もが息を潜めていた。
静寂の数秒のあと、辿々しい日本語が沈黙を切り裂いた。
「誰カ居マスカ。何モシナイカラ、出テ来ナサイ」
投降の勧告と併せて大量の紙が洞穴内に撒かれた。銃を構えている兵士たちの肩が少し上がる。引き金に指を掛けたのだ。
「両手ヲ上ゲテ、大人シク出テ来ナサイ」
連合軍は……入って来ない。
拍子抜けした兵士たちの視線が撒かれた紙に落ちる。
〈生命を助けるビラ〉
そう日本語で書かれていた。投降のやり方が説明されている。男は褌一丁でこの紙を両手に掲げて出て行くだけで、食料や衣類を貰えるらしい。
静まり返った洞穴内に兵士たちの心の騒めきが伝わってくる。
沈黙に業を煮やしたように渡久山が駆け出した。隅に置いてあった小さな木箱から手榴弾を取り出して、「天皇陛下万歳!」と兵士たちに向かって叫んだ。
「馬鹿者! そんなことをして陛下が喜ばれるとでも思っているのか!」
黍野大尉が制止したが、それを振り切って渡久山は入口を駆け上がっていった。連合軍の驚く声が聞こえた直後、爆発音が轟いて下腹を殴られたような衝撃が走った。洞穴の外と中で悲鳴が上がる。
兵卒のひとりが、〈生命を助けるビラ〉を拾おうと手を伸ばした。その手を舐めるように真っ赤な舌が入口から垂れ下がる。火炎放射器の炎だった。紅蓮の舌は、積み上げられた寝台と兵士たちを飲み込み、尚一層大きな炎の塊になってあっという間に洞穴の天井を焦がした。
炎に包まれた兵士たちが悲鳴も上げられずに倒れ込み、ばちばちと脂の焼けるにおいを撒き散らした。熱気に押されるように木之下と黍野大尉は退いた。
洞穴の奥は嫌に静かだった。炎に照らされて、薬剤容器を手にした母子の遺体が寝台に転がっているのが見えた。沢山の人たちが死を選んでいた。セツ子は大丈夫だ、と自分に言い聞かせながら、木之下は洞穴の奥へ急いだ。
セツ子が寝台の上に仰向けで倒れている。
青酸カリを飲んではいなかった。頭を撃ち抜かれている。何がどうなっているのかわけが分からず涙も出ない。まだ温かいセツ子を抱え起こし、焦点を失っている眼を閉じさせる。奇妙な勾玉の首飾りがはらりと落ちた。それを摘まみ上げて上着の衣嚢に突っ込んだ。
「その娘が悪いんだ。投降するなんて言い出すから」
暗闇の中から小銃を構えた兵卒が現れた。先ほど子どもに布団を被せていた兵卒だった。真っ青な顔をして、「玉砕だ。玉砕だ」と身体を震わせている。
呆然と立ち尽くす木之下の横で、黍野大尉が二式拳銃を構えた。
「銃を降ろせ。貴様がやっていることは、ただの人殺しだ」
ただの人殺し? 戦争ならばよいとでも言いたいのだろうか。なんて身勝手な。殺人だろうが戦争だろうが、生きたいと願っている人を巻き込んでよいわけがない。
日本も連合軍も糞喰らえだ。セツ子が死んだ混乱の中から怒りと悲しみが溢れ出して爆発した。
「もうやめてください!」
木之下の大声に驚いた兵卒が小銃の引き金を引く。撃鉄が落ちる音だけが響いた。弾が入っていなかった。黍野大尉が二式拳銃を兵卒の額に向ける。だが癒着した指でうまく引き金が引けないようだ。
その僅かな隙に兵卒が銃剣を突き出した。その切っ先が木之下の喉を貫く。黍野大尉が兵卒を掴んで引き倒した。喉から銃剣が抜けた勢いで木之下も崩れ落ちる。
錯乱状態になって逃げようとする兵卒の後頭部に、黍野大尉が拳銃を突き付けた。その光景が突然眩い光に包まれる。洞穴に雪崩れ込んできた連合軍が投光器を照射していた。ゆっくりと黍野大尉が振り返る。その頭を連合軍の弾丸が吹き飛ばした。
「大丈夫デスカ」連合軍の青年が覗き込んできた。
返事をしようとしたが声が出ない。喉元からしゅうしゅうと音がして痛みが走る。
青年に抱え起こされ、痛みと共に意識も薄れていった。
誰かが鎮静剤を注射したようだ――。
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