第四章 地獄での約束 3

 二時間近く休みも取らずに丘陵を歩き続けた。眼下には澄んだ翡翠色の海が広がっている。絶え間なく聞こえていた銃撃の音も今は遠く、穏やかな海と先ほどの惨劇との格差が大き過ぎて、現実だったのかどうか分からなくなっていた。


 先頭を歩く真徳は六十歳を過ぎているとは思えない強靭さで藪を掻き分けている。セツ子も弱音ひとつ吐かずに付いて来ていた。木之下が背負っている良子は泣き疲れて寝ているようだ。


「少し休みませんか」木之下は息も切れ切れに言った。


 真徳が立ち止まり、ようやく歩き詰めだったことに気付いたように「ああ」と腰を降ろした。セツ子に頼んで草を敷いた寝床を作ってもらい良子を寝かせる。普段は快活なセツ子が言葉少なに良子の枕元に屈み込んだ。相当に参っているようだ。それはそうだろう。大人でもあんな場面を目の当たりにして平気でいられるわけがない。真徳に怒鳴られなければ、自分もあの場から動くことが出来なかっただろう。どれだけの沖縄の人たちがこんな思いをしているのか。


「怖かったね」とセツ子の髪を撫でた。

「みんな殺されてしまいました」セツ子は眼を伏せたままだ。

「残念です。でも今ごろは友軍が仇を取ってくれていると思います」

「木之下さんは死なないでください」


 何と言えばいいのか分からなかったのだが、もうこれ以上セツ子を心配させたくなくて「分かりました」とだけ答えた。セツ子が背嚢からあの四角い鏡のような出土物を出して、木之下の胸の衣嚢に入れた。


「約束ですよ。生き残ってあの祠の調査をしてください」


 そして小声で、「私は連合軍に投降してでも生き残ります」と付け加えた。


「ちょっと手伝ってくれ」真徳が油紙に包んでいた白い塊を背嚢から出した。

「豚の脂だ。塗ってくれるか」と、袖を捲って傷を見せる。


 銃弾か噴進榴弾の破片が掠めたのだろう、筋肉質の二の腕が切り裂かれていた。かなり深い傷だったが骨には達していないようだった。

 真徳が襤褸切れを噛んで、「いいぞ」と歯を食いしばる。豚の脂は指に取ると体温ですぐに溶け始めた。慌てて傷に塗り込む。真徳は短い呻き声を漏らして痛みに耐えていた。


 手当てをしている間にセツ子は寝てしまっていた。真徳も暫くは休むつもりになったのだろう、軍靴の紐を緩めて、良子の寝顔を見ながら深い溜息をついた。


「セツ子ちゃんには家族がいないと言っていたな。良子も独りぼっちになってしまった」

「父親は出征していると聞きましたが」

「とっくに死によった。サイパンだ。千代子が黙っていただけだ」


 真徳は背嚢を枕に体を横たえた。


「この戦で生き残っても、そのあとはどうやって生きていけと言うのか」

「真徳さんがいるではありませんか」

「こんな老いれだ。いつまで面倒をみてやれるのか分からん。勝っても負けても地獄が続くだけだ。一層のこと死んでしまったほうが楽なのかも知れん」

「そんなことはありません」


 否定はしたものの寸刻揺らいだ。いまセツ子と約束したばかりだというのに。その考えを打ち消すようにかぶりを振る。


「セツ子ちゃんはどうする」


 生き残ったあとのことなど考えられなかった。


「戦が終わったらさよならか。焼け野原にあの娘を残して、お前は本土に帰るのか」

「それは……」続く言葉が出ない。

 真徳が「少し寝ておこう」と言って背を向けた。


 セツ子の寝顔を見ながら、その行く末を考えていると眠れなくなった――。


 昼過ぎから再び歩き始めて東の空に星がちらつき始めた頃、瓦礫の山となった海沿いの町に出た。どうやら空爆の標的になったようだ。ちらほらと友軍の兵士たちが歩いている。海岸線に滑走路が見えていたのだが、他にも軍の施設があるのかも知れない。


 瓦礫の中を彷徨っていると、爆撃で捻じ曲がっている鉄路の先に、半壊した混凝土コンクリート造りの駅舎があった。崩れかけた柱に書かれている〈與那原驛よなばるえき〉の文字が辛うじて読める。


「何処も彼処も酷いものだ」真徳が混凝土の破片を蹴り飛ばした。 


 セツ子は良子の手を引いて、横転している車両を見に行った。良子の気を少しでも紛らわそうとしているようだ。


 駅舎に入ると駅前の広場に友軍の一団が見えた。その中に見覚えのある、黒眼鏡を掛けた背の高い黒い軍服姿の男がいる。黍野大尉だった。咄嗟に壁際に隠れた。真徳も木之下に駆け寄って隣で身を屈める。 


「どうした? 友軍だぞ」


 真徳の言葉に軽く頷いた。真徳は察したようで口をつぐむ。崩れかけた窓枠の隙間から様子を窺い、聞き耳を立てた。黍野大尉は士官と話していた。嘉手納の本部に居た小隊長だ。中飛行場を捨てて、部隊ごと此処に移って来ているのだろう。


「東飛行場の再建は不可能でしょう。現状で人員を集められると思いますか。我々の部隊だけでは、滑走路を使えるようにするまで半年は掛かります」


 黍野大尉の話に相槌を打っていた小隊長が俄かに手を上げた。その合図を待っていたかのように、二人の前に九五式小型乗用車がやって来る。小隊長が扉を開けた。

 黍野大尉は、「それに……」と助手席に乗り込んだ。


「再建を始めたとしても、偵察機トンボに見付かれば艦砲射撃の的になるだけですよ。作戦変更を進言しておきます」


 小隊長が「はっ」と敬礼して、九五式小型乗用車は走り去った。

「撤収するぞ」小隊長の号令で一団が駅舎から離れていく。


 止めていた息を吐いて瓦礫に凭れ掛かった。真徳が立ち上がって伸びをしながら言う。


「理由は聞かんが、連合軍どころか友軍まで敵とは厄介なことだ。今晩中にもっと南に行っておいたほうが良さそうだな」


 セツ子を呼ぶと良子を連れてやって来た。二人に笑顔が戻っている。否、大人たちの負担にならないように、懸命に笑顔を作っているのだろう。


「お姉ちゃんがくれたの」


 良子が手に握っているものを真徳に見せた。桃色の勾玉だった。

 真徳が「綺麗だな」と良子の頭を撫でて、セツ子を見た。


「ノロなのか?」


 セツ子が「はい」と頷く。


「ならば神々と話せるのだろ。この戦を終わらせるように頼んでくれ」


 真徳はセツ子の肩を掴んで打ち震えた。


「頼む。もう沢山だ。早く終わらせてくれ」


 真徳は膝から崩れ落ちた。誰もがぎりぎりで平静を保っている。それが少しの切欠で弾けてしまうのだ。どう弾けるのかは人其々なのだろうが、抑圧の度合いが大きいほど大きく弾ける。いま沖縄は連合軍だけではなく、此の地を戦場と位置付けた日本にも耐え忍んでいる。それも江戸時代の薩摩侵攻から三百年以上に渡って我慢し続けているのだ。真面でいるにはもう神に頼むしかないのだろう。


 セツ子は首に掛けている不思議な形の勾玉を手に載せて、悲しげに見詰めていた。


「真徳さん……」と抱え起こしたが、それ以外に掛ける言葉が思い付かない。

 真徳はこちらの肩をぽんと叩いて、セツ子に「すまなかった」と頭を下げる。心配そうに見ていた良子に、セツ子が「大丈夫だよ」と微笑んだ。


具志頭ぐしかみ辺りまで行くか」


 真徳は良子を負ぶって駅舎を出た。具志頭が何処なのかは分からなかったが、セツ子の手を引いて真徳に続いた。駅前広場の先に瓦礫の山があり、その裏手の藪から丘陵に続く斜面を登る。セツ子が頑張って歩くというので、真徳から良子を預かって背負った。


 暫く歩いていると、真徳が丘を下りて何処からかさとうきびを取って来た。丸一日何も食べていなかったので、皆で貪るように齧り付く。


 日を跨ごうとする頃、群生する蘇鉄で隠すように置かれた、大きな風呂桶を見付けた。水が溢れている。樋竹を使って岩の隙間から湧き出る水を溜めているのだ。真徳が樋竹から流れ出る水を手で掬い、口の中で少し転がしてから飲んだ。 


「大丈夫だ。飲めるぞ」


 セツ子は空になっている水筒に水を汲み、そこから少しだけ飲んで木之下に渡した。


「近くに誰かが暮らしているということだな」

「見付かったら追い払われますよ」水を一口飲んで言った。 

「島人はそんなことはしない」


 亀甲墓で追い払われたことを言おうとしたが、思い止まった。


「日が昇るまで此処で休もう」


 真徳が木之下の背中から良子を抱き取り、そのまま蘇鉄の前に座って凭れ掛かる。木之下も同じように隣の蘇鉄に身を預けると、寄り添うようにしてセツ子が横になった。すぐに寝息が聞こえてくる。その穏やかな顔を確認して目を閉じた――。


 人の気配がして飛び起きた。薄っすらと夜が明け始めている。風呂桶の周りに、ぼろぼろの学童服姿の子どもたちが列を成していた。ぱっと見ただけでも十人は並んでいる。皆六、七歳だろうか。集団疎開の対象にならなかった、国民学校初等科の二年生以下の子どもたちだろう。順番に水を汲んでいる。誰もこちらを気にしている様子はない。背嚢をセツ子の枕にして立ち上がった。


「おはよう」男子児童のひとりに声を掛ける。

「おじさんたちも逃げて来たの?」 

「北谷からです。君たちはこの辺りの子ですか」

「いろいろだよ」


 その男子は並んでいる他の子どもたちを指差しながら、「この子とこの子は那覇でこの子は浦添」と紹介してくれた。そして二人の男子を引っ張ってきて、「具志頭は僕とこの子たち。みんな一緒に住んでいるんだよ」と照れ臭そうに言った。


「一緒に?」水汲みに並んでいる子どもたちを見渡す。

「大きな洞穴があるんだ。そこにみんないるよ」

「儂らも行っていいかね」


 目を覚ましていたのか、真徳が話に割って入ってきた。


渡久山とくやまさんに聞かないと分からない」男子三人が互いに顔を見合わせる。

「案内してくれるかね」真徳が良子を起こして立ち上がった。


 渡久山というのは隣村の東風平こちんだ出身の巡査だそうだ。去年十月十日の空襲で焼け出された人たちを洞穴に避難させて面倒を見ているという。風呂桶を使った水汲み場も渡久山が作ったらしい。一緒に洞穴で暮らしていて、昼間は駐在所に出掛けていくのだが、この時間ならまだいるというので連れて行ってもらった。


 水汲み場から五分ほど斜面を登ると、その洞穴がぽっかりと口を開けていた。入口の幅は五米突ほどあるが、高さは子どもでも屈まなければ入れないほど低い。中が急角度で落ち込んでいて、岩盤に鉄釘で先端を固定した綱が垂らされていた。


 綱に手を掛けて滑るように下りていく子どもたちを追う。斜面はすぐに緩やかになり、大人が立てる高さの空間になった。肌を刺すような冷気が漂っている。


 入口から差し込んでくる明かりで二十畳ほどの空間が確認できた。並べられた寝台には中年の女性や老夫婦が座っている。洞穴はさらに奥にも続いていて、段々畑のように落ち込みながら地下へと延びていた。そこにも避難者たちがいるようだ。水を汲んできた子どもたちが奥へと進んでいく。自分たちの家族を目指しているのだろう。


 入口に一番近い寝台に座っていた男が、「避難者の縁者さんですか」と真徳に声を掛けた。洞穴暮らしでも警官の略帽と制服を着た、二十代後半の生真面目そうな青年だった。


「渡久山さんですね。城間と言います。避難者を受け入れてくれると聞いたものですから」


 誰もそんなことは言っていなかったが、しかし真徳は真剣な顔でそう言った。渡久山は少し困惑した表情を浮かべ、「まあ、そういうことでしたら」と寝台の下の木箱から帳面と鉛筆を出した。


 帳面には洞穴の見取り図と、避難者たちの名前や年齢、住所などが書かれていた。見取り図には各所に番号が振られていて、避難者がどの位置にいるのか一目で分かるようになっている。ちらりと見ただけだが此処に五十人以上が住んでいるようだ。


 渡久山が見取り図を鉛筆の尻で弾きながら言った。 


「少し手前になりますが四人なら何とかなります。寝台はありませんが、あとで布団と木箱を持って来ますよ」

「ありがたい。恩に着ます」


 渡久山は「こんな時ですから」と、その生真面目そうな顔で頷いた。


「もう一度、お名前を」

「城間です。城間真徳。この子は良子。甥っ子の娘で、両親ともこの戦で亡くなりました」


 渡久山が書き留めていた手を止めて、「それはお気の毒に」と良子の頭を撫でた。


「もう大丈夫だよ。此処には同じ境遇の子も沢山いるし、すぐに友達も出来る」 


 渡久山は「それで、あなたは?」と、木之下に明らかに不審そうな視線を向けた。なぜ二十歳そこそこの若い男が戦いもせずにこんな所にいるのだ、と目が語っている。木之下に代わって真徳が答えた。


「こいつは孫の一郎だ。陸軍に入ったのだが……」


 そこで言葉を切り、人差し指で自分の側頭部をこつこつと叩きながら、渡久山に耳打ちする。


「ここがおかしくなってな、自傷行為を繰り返すというので追い返されてきた」


 渡久山の視線が不審から同情に変わったように見えた。「大変ですね」と真徳を小声で労って、「君は?」とセツ子に訊く。


「一郎の妹のセツ子です。片仮名のセツに、子どもの子と書きます」

「君は確りしているね」渡久山はセツ子に微笑み掛けた。

「どちらからの避難ですか」

「中城村の新垣だ」


 それを聞いて渡久山は納得したように、「それは大変だったでしょう」と言った。

 一六一・八高地陣地が、連合軍と激戦になっているそうだ。


 渡久山は帳面への記載が終わると洞穴の奥へ案内してくれた。一段下がった空間はさらに広く、此処にも寝台が並べられているようなのだが、入口の光が届かず点々と灯った蝋燭が暗闇の中の一部を浮かび上がらせているだけだ。奥にはもう一段下がってまだ空間があるようで、夜空の星の瞬きのように灯火が広がっていた。


 木之下たちには入口から一段下がった空間の隅の一角が与えられた。外の光が辛うじて見えている。隣の寝台に腰掛けている老婦人に挨拶をして荷物を降ろした。渡久山が去っていくのを確認して、木之下は感心したように真徳に言った。


「あんな出鱈目をよく思い付きますね」

「何のことだ?」

「一郎ですよ。自傷癖だなんて」

「出鱈目ではない。本当のことだ。ただ孫の一郎は追い返されてきてすぐに自殺したがな」

「すみません。嫌なことを思い出させてしまって」

「構わんよ。人は色んなものを背負って生きとる。長く生きれば背負うものも多くなる。言っただろ、死んだほうが楽だと思うこともある」


 真徳は自嘲するような笑みを浮かべた。


「これでお前さんのことを友軍に確認されても大丈夫だろ」


 暫くは銃声の聞こえない日々が続いた。

 

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