第四章 地獄での約束 2
どれくらい経ったのだろう。時間の感覚が無くなっていた。五分だったのか、三十分だったのか……。よく聞き取れなかったがセツ子の声がした。目を開けるとセツ子が心配そうな顔で覗き込んでいる。無事そうだ。よかった。
誰かに軍靴を脱がされる。足元に国民服を着た二人の男がいた。
「ひどい捻挫だ。自力で下りるのは無理だな」
軍靴を脱がせた男が、もうひとりの男に「縄を持ってきてくれ」と指示して、木之下の顔に手提げ電灯をかざした。
「名前は言えるか」
「木之下慶作」絞り出すように答えた。
「よし」男はセツ子の頭を撫でて、「大丈夫だ」と優しく囁いた。
脇に手を掛けられ上半身を起こされる。
「その子から話は聞いた。安心しろ。すぐに洞穴へ連れて行く。他に怪我は無いか」
「いえ」と首を振った。
男はセツ子から水筒を受け取り、布切れに水を含ませて木之下の足首に巻いた。ひんやりとした温かさが身に染みる。
「儂らが水汲みに来ていて良かったな」
もうひとりの男が縄を持って戻ってきた。国民服の二人は手際よく縄で輪を作って木之下の両脇に通し、崖縁まで連れて行く。
「縄から手を離すなよ」
振り返ると二人の男が縄を掴んで頷いた。ずり落ちるように崖に身を躍らせる。縄が脇に食い込んでゆっくりと滑り落ちていった。足が着いたが体を支えきれずに尻餅をついた。縄が緩んで男たちが下りてくる。
「
男のひとりが手を伸ばして、跳び下りてきたセツ子を抱きとめた。
次の崖を下りると、セツ子と同年代の少年が、竹槍に漁網を括りつけた簡易な担架を持って待っていた。続いて下りてきた男二人がその担架に木之下を乗せて運ぶ。さっきまで聞こえていた川の音が次第に小さくなっていった。
崖の斜面が縦に裂けているところで男たちは担架を降ろした。この裂け目が洞穴の入口らしい。大人ひとりがようやく通れるほどの幅だった。男のひとりが手を貸して木之下を立たせ、裂け目に押し込んだ。
「自力で奥まで進んでくれ」
壁面に背中を付け体を支えて奥へと進む。裂け目は大きく湾曲していて、少し進むと蝋燭の明かりが見えてきた。突然、背中側の壁が無くなって仰向けに倒れそうになる。五十代半ばのがっしりと肩幅の広い女性がそれを受け止めてくれた。女性は木之下を木箱に座らせて軍靴を脱がせ、腫れ上がった左足を水桶に漬けた。
「ありがとうございます」
「気にすることはないよ。お互い様だ」
女性は裂け目から入ってきたセツ子に目をやる。
「あんたも赤の他人のあの子を助けたのでしょ」
セツ子が駆け寄ってくる。
「正次郎さんが一緒に居てもいいと言ってくれました。此処は安全だそうです」
「そうしなさいよ。その足じゃ、二、三日は真面に歩けないよ」
セツ子に続いて戻ってきた男が、「こんな時だ。遠慮はするな」と水桶の中の足に触れた。手提げ電灯を持っていた男だ。暗闇では分からなかったが六十路を越えた小柄な男だった。
「此処には儂らの家族しかおらん。気遣いは無用だ」
木之下は洞穴内を見回した。瓢箪型でかなりの広さだ。出入り口の裂け目がある六畳ほどの空間には食器棚や七輪、食料を入れた木箱、大きな
「木之下慶作くんだったな。
正次郎は「ああ」と思い出したように、いとに言った。
「何か食わせてやってくれ。きょう一日何も口にしていないそうだ」
いとは嫌な顔ひとつせず、「くずもちが残っていますよ」と食器棚から皿を二つ出した。洗面器からわらび餅のような芋くずを取り分けて、セツ子と木之下に渡す。
セツ子はそれを指で摘まんで口に放り込んだ。
「甘い。久しぶりに食べました」と笑う。
「そうかい。それは良かった」
崖の上に縄を持ってきてくれた男と、崖の下で担架を持って待っていた少年が、布団を抱えて戻ってきた。近くの家から拝借してきたのだろう。
「
真徳と呼ばれた体格のいい男は、少年に奥の空間の空いた場所へ木箱を並べさせ、持ってきた二つの布団を敷いた。
真徳はいとの弟。少年は間もなく十四歳になる孫で、名前は
正次郎は竹槍から漁網を外して入口に立て掛けた。
「戦闘が落ち着くまで此処に居ればいい。向かいの高台は友軍の陣地だ。連合軍が来ても追い払ってくれるだろう」
「感謝の言葉もありません」
「食って寝ろ。それとも痛くて眠れないか」
木之下はかぶりを振って芋くずを食べた。優しい甘みに目頭が熱くなる。
久しぶりに安堵の中で眠りに落ちた――。
どのくらい寝ていたのだろう、高射砲の爆音で目が覚めた。すでにセツ子やいとは起きている。セツ子が幼い女の子二人に本を読んでいた。良子と悦子だ。いとは三十前後の細面の女性と食事の支度をしている。この女性が千代子――三男の嫁なのだろう。野草を刻んでいた千代子がこちらに気付いて会釈をした。
「申し訳ない。寝坊してしまいました。正次郎さんは?」木之下は立ち上がった。
「いま様子を見に行っているよ。あんたは怪我人なのだから寝てなさい」
いとに睨まれる。まだ足首に痛みが残っていて少し
「無理しないでよ」
「何かお手伝いでも」と壁に手をついたが、千代子が駆け寄って来て座らせられた。
「セツ子ちゃんが娘たちを見てくれているので、随分助かっていますよ」
千代子が足首の布切れを取り、水桶に漬けて巻き直してくれていると、文雄が背嚢にひかげへごの新芽を詰め込んで帰ってきた。
「爺ちゃんはどうした?」いとが訊く。
「城跡の方を見に行った」
文雄は背嚢を千代子に渡して、再び裂け目に取って返した。
「どこ行くの」千代子が文雄の手を掴んで止める。
「水を汲んでくる」
「暗くなってからにしなさい」
同年代のセツ子が来て洞穴に居辛くなっているのか、それとも格好の良いところを見せようとしているのか。この年頃の男子は難しい。何れにせよ、彼を危険に晒すわけにはいかないと思い、母子の会話に割って入った。
「文雄くん、この辺りのことを教えてくれないか。状況を分かっておきたいのです」
木之下の言葉に動きを止めた文雄は「分かりました」と、少しほっとしたように答えた。どうやら居辛くなっているようだ。千代子が木之下に頭を下げて食事の支度に戻る。
文雄は少し考えて、洞穴内から大きく平たい石と三角錐の石を探して持って来た。木之下の正面に座って目の前に平たい石を置く。
「これが僕たちのいる新垣の丘です」
木之下から見て石の左側の縁に指を沿わせ、文雄は「普天間川はこう流れています」と、こちらを窺う。
「文雄くんが北側ということですね」
文雄は満足したように頷き、続いて木之下側の石の端を指した。
「此処がこの洞穴です」
「一番南の端だね」
文雄は「はい」と答え、石と自分の間――丘の北側に指で円を描いた。
「この辺りに友軍が高射砲の陣地を作っています」
「来る途中に山城の城壁を見たのですが、それは何処ですか」
文雄は「それはもっと北……」と言葉を止め、もうひとつ平たい石を持って来た。その石を最初に置いた石に繋げるように自分の前に並べ、自分側の端を指差す。
「中城城跡はもっと北、丘陵の北の端になります。其処にも友軍の陣地があります」
「兵隊が大勢いました」
続いて文雄は三角錐の石を、この洞穴だと指差した場所の木之下側に置いた。
「これが向かいの丘です。全体が友軍の陣地になっています。彼らは一六一・八高地陣地と呼んでいます」
「一六一・八とは?」
「高さが一六一・八米突なんです」と、文雄は三角錐の頂点を指した。
その陣地を造るのには文雄も駆り出されたらしい。洞穴を利用して作ったトンネルが重機関銃や迫撃砲などを設置した火力拠点を繋いでいるという。自然の丘をそのまま要塞にしているのだ。頂上の監視哨はご丁寧にも岩石に見えるように造られたそうだ。
「周囲には地雷が埋められているので、近寄らないほうがいいですよ」
「分かりました」と頷いて、万が一のための質問を重ねた。
「此処から那覇まではどの位ですか」
文雄は「八粁ほどです」と言って少し考え、また石を集めてきた。三角錐の石を起点に弧を描くようにして木之下の足元に石を並べていく。
「此処から西海岸まで丘陵が続いています。これが友軍の防衛線だと、爺ちゃんが言っていました。木之下さんが座っているところが那覇です」
目の前に並んでいる石を見ると溜息が出た。
「つまり、この防衛線を越えなければ那覇には行けないのですね」
「那覇に行くのですか。御親戚でもいらっしゃるのですか」
「ええ、まあ」言葉を濁す。
文雄は手に持っていた残りの石を見詰めて、「遠回りになりますが」と三角錐の石から木之下の右足まで一直線に石を並べた。
「こっちの丘陵は
「ありがとうございます」礼を言って、敢えて少し大きな声で文雄を褒めた。
「文雄くんは教えるのが上手ですね。将来は学校の先生でしょうか。それとも学者様かな」
文雄が満更でもなさそうな笑みを浮かべて、ちらりとセツ子を見る。セツ子は視線を感じたのか、文雄を見返して微笑んだ。正次郎と真徳が帰ってきたのはその直後だった。
「
洞穴に入って来るなり正次郎がまくし立て、真徳が続けた。
「連合軍は沖縄を南北に分断するつもりだ。北に逃げた奴らは友軍も少なくて大変だ」
慌てて逃げ帰って来たのだろう、二人とも息が上がっている。心配そうな顔をしている文雄を正次郎が怒鳴り付けた。
「此処は心配せんでいいと言っただろうが。男のお前がそんな顔をしていてどうする。母ちゃんと妹たちを守るのはお前の役目なのだぞ」
いとが湯飲みに水を入れて二人に渡す。正次郎はそれを飲みかけて手を止めた。
「水はまだあるのか」
「ありますよ」
いとが答えると、正次郎は一気に飲み干した。
「暫らく水汲みには出んほうがいいな」
昨夜の騒ぎで水汲みが出来なかったのだ。申し訳ない。足が治ったら真っ先に水を汲みに行こう。そう心に決めた。
難なく歩けるようになったのは、此処に来て三日目――四月四日だった。
夕刻、セツ子と文雄が文机に向かい合って勉強をしていた。外に出られない御陰で二人は随分と仲良くなっている。勘のいいセツ子のことだ、文雄に気を使って自分から積極的に話し掛けたに違いない。
歩く度にセツ子が心配そうな視線を向けてくる。大丈夫だ、と手で合図を送って水甕を覗いた。かなり減っている。これでは三日も持たないだろう。汲みに行かなければ……。裂け目の横で木箱に座っていた正次郎が、外を睨み付けたまま声を掛けてきた。手には竹槍が握られている。
「足はどうだね」
「お蔭様で、もう大丈夫です。水を汲んできます」
「いずれ誰かが行かなきゃならんが、まだ残っとるだろ」
「早めに行っておいたほうが良いと思います。これから戦闘が激しくなるかも知れません」
正次郎は少し考えてこちらを向き、「一人では危険だ。儂も行こう」と立ち上がった。
「いえ、何かあった時のために此処に残ってください」
正次郎は聞く耳を持たず、竹槍を置いて水桶を二つ手に取る。
「真徳がおる。あいつは儂と違って元軍人だ。よっぽど頼りになる」
吐き捨てるようにそう言って、正次郎は洞穴を出た。木之下も二つ水桶を持って跡を追う。
外には黒煙が立ち込めていた。銃声や爆音も鳴り続いている。油が焼けたような臭いが鼻を突く。身を屈めて周囲を窺った。此処からは友軍も連合軍もその姿は見えなかったが、隣の一六一・八高地陣地からは迫撃砲が続けざまに撃たれていた。
「もうすぐ日没なのに、まだ続けているのか」
正次郎はそう愚痴って崖沿いに進み始めた。丘の南側を回り込んでいくと、木立の隙間から焼野原が見えてきた。
「酷いことしやがる。これでは軍人も民間人もあったものではないな」
正次郎が歩みを止めて目の前の光景を睨み付けた。連合軍の兵士が村人たちの遺体を普天間川に放り込み、川にいる兵士がそれを対岸の土手に積み上げていた。遺体を弾除けにして、こちらの丘陵に向けて発砲している。反撃する友軍の弾が遺体に当たる度に、肉片が飛び散っていた。
友軍が何処から撃っているのか分からない。それは連合軍も同じようで、二台の〈M4中戦車シャーマン〉が燻ぶり続けている集落を踏み潰しながら、目標を探るように丘陵のあちらこちらに砲撃を繰り返していた。
「川はもう駄目ですね。別の水源を見付けないと」
「丘の反対側で井戸を探すしかないな」
来た道を戻り、洞穴を通り過ぎて、東側の斜面を登っていくと海が見えた。その手前に家屋が点在している。まだ連合軍の手は及んでいないようだった。
井戸を探すのに手間取ってしまい、洞穴に戻ってきた頃にはすっかり夜が更けていた。セツ子が心配している筈だ。出来る限り明るく振舞おう。そんなことを考えていると、正次郎が入口の前で急に水桶を降ろして中を窺った。
「どうしました?」
「何か変だ」正次郎が息を殺す。
入口に取り付いて耳を澄ますと、微かに男たちの声が聞こえてきた。
「連合軍の奴らでしょうか」
慌てて中に入ろうとする木之下を制して、正次郎はゆっくりと裂け目に入った。
「やあああああっ」
雄叫びを上げて正次郎が洞穴に飛び込み竹槍を構える。瞬時に三つの銃口が正次郎に向けられた。
……友軍の兵士だった。
三人の兵士が真徳やいとと話している最中だったようだ。セツ子と文雄は、正次郎の雄叫びに驚いたらしく、目を丸くしてこちらを見ている。兵士のひとりが構えていた小銃を下げ、ほっとしたように言った。
「脅かすな。撃つところだったぞ」
正次郎が愁眉を開いて竹槍を元の場所に戻す。
「どうされました? 食糧の供出ですか。芋なら少しありますよ」
正次郎に答えたのはいとだ。
「此処から出ていけと仰っているよ」
「どうして私たちが出て行かねばならんのですか」正次郎が穏やかに兵士に訊いた。
「知っていると思うが、連合軍がそこまで来ている。我々は此処を拠点に一六一・八高地陣地と連携して敵を迎え撃つ」
水を汲みに行った時に交戦していた部隊の残党だろうか。この洞穴に陣を張り直すつもりらしい。裂け目から覗き見ていると、兵士が気付いて「誰だ」と銃を向けてきた。刺激しないように、手を上げてゆっくりと洞穴に入る。
「何だ貴様。どうしてこんな所にいる! 部隊はどうした!」
答えに窮していると、正次郎が口から出任せを言った。
「そいつは北谷にいる甥っ子だ。病気でな。八重山熱だ。連合軍の上陸で妹と逃げて来た」
兵士は正次郎を一瞥して、「まあいい」と銃を下げて続けた。
「とにかく、すぐに退去しろ。これは軍命である」
「私たちは何処に行けばいいの」
いとが食い下がったが、「軍命だ」の一言で退けられた。
「荷物を纏めるぞ」
正次郎が諦めたように、いとに言った。
木之下とセツ子は二人で背嚢一つしか持っていなかったのだが、いとがもうひとつ背嚢を渡してくれた。中に二人が着られそうな服や下着が詰まっている。いとにそっと頭を下げた。
正次郎に頼まれて、芋やひかげへごの新芽を麻袋に詰めていると、兵士のひとりに小銃を突き付けられた。「食糧の供出を命じる」と冷たく言い放つ。反論しようとしたが、真徳が「いいんだ」と遮るように大声を出したので手を止めた。
「協力に感謝する」
小銃を突き付けていた兵士は、真徳に敬礼して洞穴を出て行った。
裂け目の手前に皆の荷物を集めていると、その兵士が戻って来た。
「物資を搬入する。手を貸してくれ」
兵士は木之下と正次郎、真徳の三人に外へ出るように命じた。
外には八つの弾薬箱と二丁の九九式軽機関銃が置かれ、小銃を肩から下げた十人の友軍兵士たちが囲んでいた。手に十字鍬や円匙を持っている者もいる。置いていた水桶は蹴り飛ばされたのか、兵士たちの足元に転がっていた。
弾薬箱が大きすぎて裂け目を通すことが出来ず、大量の弾薬と装弾器や手榴弾は水桶に移し替えて洞穴に運び込んだ。セツ子やいとたちは洞穴の中で兵士の寝床を作り、兵士たちは裂け目の壁面を削って二丁の軽機関銃を設置した。
「ご苦労だった」と解放された時には夜が明け始めていた。
千代子が負ぶい紐を襷に掛けて眠っている悦子を背負い、男たちが荷物を担いだ。
「さあ、どうしましょう」
いとが途方に暮れたように呟いた。
「北に行くのは無理だ。友軍が陣地を構えている
正次郎はそう言ったが、決めかねているようで腕を組んで明るくなり始めた空を仰いだ。
「友軍の陣地があるということは、激戦地になるかも知れません」
木之下は進言した。連合軍は飛行場や高射砲陣地のような、友軍の防衛拠点を徹底的に潰しに来るのだ。
「そうだな」正次郎がまた空を見上げる。
「連合軍に投降しましょう。こんな小さな子どもを連れて戦場を逃げ回るなんて無理です」
千代子が思い詰めたようにそう言うと、真徳が激高して怒鳴った。
「馬鹿なことを言うな! そんな恥ずかしい真似が出来るか! 投降するくらいなら此処で自決しろ。嫌なら儂が殺してやる!」
掴み掛かろうとする真徳と千代子の間に、木之下は割って入った。
「投降しても嬲り殺されるだけです。逃げて生き残るのです」
千代子は聞いていなかった。恐怖に引き攣った形相で真徳から目を離さない。
正次郎が真徳を引き離して、「すまなかった」と頭を下げた。
「儂が早く決断すれば良かったな。南に向かおう。とにかく友軍が……」
「爺ちゃん!」
文雄が正次郎の言葉を断ち切って何かを指差している。
五十米突ほど先の木立の中を、連合軍の歩兵部隊が一六一・八高地陣地に向かっていた。
木之下はセツ子と文雄の手を取って近くの藪に身を屈める。隣の薮には正次郎が良子を抱いて伏せた。良子が騒がないように口を塞いでいる。いとと真徳の姿は見えなかったが何処かに隠れたのだろう。千代子を探す。
……千代子は悦子を背負ったまま両手を上げて、連合軍の部隊に向かっていた。兵士たちは陣地からの攻撃を警戒しているのか、千代子に気付いていない。
「母ちゃん駄目だ。そっちには地雷がある」
文雄が呼び掛けるが千代子は歩みを止めない。木之下の手を振り解き、文雄は藪から飛び出して千代子に駆け寄っていった。
爆発音がして身体が宙に舞う。文雄だった。
音に驚いた連合軍の兵士たちが闇雲に射撃を始めた。それに呼応したように、兵士の後方から一六一・八高地陣地に砲弾の雨が降り注ぐ。友軍が反撃を開始すると、連合軍の部隊は銃弾を避けるようにこちらに向かってきた。
火炎放射器を担いだ兵士の前に、千代子が手を上げて立ち塞がる。兵士は躊躇なく千代子を焼き払った。文雄が叫ぶ声が響き渡る。足を失って身動きが出来ず、声を振り絞って連合軍の部隊を威嚇している。その咆哮で文雄の位置に気付いた兵士が火炎放射器の噴射口を向けた。
すぐ脇で銃声が鳴り響き、木之下はセツ子を抱えて身を竦めた。洞穴に陣を移した部隊が九九式軽機関銃で連合軍を迎え撃っていた。
友軍の放った弾が、火炎放射器を持った兵士が背負っている燃料容器に命中した。大きな炎の塊が吹き出して、兵士が地面に叩き付けられ燃え上がる。
予想もしていない方向からの攻撃だったのだろう、連合軍の兵士たちは怯えたように小銃を乱射しながら後退を始めた。
「早く逃げろ!」洞穴の中から友軍の誰かが怒鳴った。
木之下はセツ子の震える手を引いて東側の丘を駆け上がった。振り返るとまだ正次郎が藪の中にいた。一点を見詰めたまま動かない。視線を追う。左足の膝から下がない文雄を、いとが抱えて引っ張って来ようとしていた。二人の友軍兵士が洞穴から出てきて、連合軍に発砲しながら駆け寄っていく。
「駄目だ!」木之下は思わず叫んでいた。
丘の上からは連合軍の兵士が筒のようなものを構えたのが見えていた。あれは
友軍の兵士がいとから文雄を引き離す。ほぼ同時に噴進榴弾砲が火を噴いた。白煙の尾を引いて噴進弾が四人を直撃した。閃光と共に爆炎が上がり、いとたちは跡形もなく消し飛んだ。
良子の泣き叫ぶ声が聞こえて藪に目を戻すと、正次郎が連合軍に向かっていた。良子がその跡を追おうとしている。
「良子ちゃん! 動かないで!」
そう叫んで丘を下りようとすると、木立の影から真徳が現れた。良子を脇に抱えて、わき目も振らずこちらに駆け上がってくる。セツ子が良子を抱きとめた。真徳の左の袖が破れて二の腕から血が流れていた。流れ弾にやられたのか。
「真徳さん、腕が」
「大したことはない。それよりも」真徳が振り返る。
吹き飛ばされた友軍兵士の小銃を正次郎が拾い上げていた。先端に付けられた銃剣を確認して竹槍のように構える。その刹那、正次郎の頭が吹き飛んだ。何処から撃たれたのかは分からなかった。
瞬く間に七人もの命が奪われた衝撃で、木之下はへたり込んだ。
「何をしている。悲しんでいる時間などないぞ」
真徳に襟首を掴まれて、「立て」と怒鳴られる。セツ子も木之下を見て頷いた。
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