第三章 八咫烏 2

 嘉手納基地への帰り道は増渕が運転した。相変わらずアルトが付いて来ている。でも不思議なもので、一度話をするとこれまでのような恐怖感はなくなっていた。それよりも口数の減った刀根のほうが心配だった。 

 

「木之下さんのことが気になってるんですね」


 刀根は助手席で悲しそうに月を見上げている。


「そんなに悪い人には見えませんでしたけどね」


 刀根は「そうね」と小声で答えて、膝に載せているトートバッグを撫でた。


「何か知っているんですか」

「本当に知らないわ。でも木之下さんは確かに日本を憎んでいる。私は遺跡の発掘を邪魔されたからだとずっと思っていたわ。でも、空襲で部隊を離れたあと、爺ちゃんも知らない何かがあったのかも知れない」

「たとえ何かがあったとしても刀根さんは無関係でしょ。心配することないですよ」

「私は心配だわ。もう人生の最後を迎えようとしている人が、未だに復讐に捕らわれているなんて哀しすぎる」


 刀根は自分の心配をしているのではなかった。木之下の身を案じていたのだ。案外と心根は優しい女王様なのかも知れない。


「復讐って、八咫烏が言っているだけでしょ。それにスマホに入っているデータが木之下さんの気持ちを変えるかも知れないですよ」


 適当に話しただけだったのに、刀根は急にいつもの調子に戻った。


「そうね。何かあったら木之下さんを救ってあげなさい」

「いやぁ、そこは一緒に救おう、じゃないんですか」

「一緒にやるわよ。私が車掌、あんたは運転手」


 刀根はそう言って笑った。

 その笑顔を見てほっとした。物事は前向きに考えたほうがいいのだろう。刀根の笑顔はそれが正解だと言っている気がした。


 午後十一時。嘉手納基地にはまだ煌々と明かりが灯っていた。ゲートには昼間と同じように自動小銃を抱えた衛兵が立っている。

 緊張しながらビジターカードを見せた。衛兵は顔写真を一瞥してすんなりと通してくれた。


 流石にこの時間ともなるとホテルの駐車場には誰もいない。車を停めるなり、刀根は相変わらずさっさとトートバッグを持ってエントランスへ向かう。

 トランクから荷物を降ろそうとした。違和感があって手を止める。二人とも車から降りているのに、トランクの高さが荷物を載せた時よりも下がっている。なぜだ?


「どうしたの」刀根がエントランスの前で立ち止まった。


 その時、後部座席の足元から忍者のような出で立ちの黒尽くめの男が立ち上がった。驚いて尻餅をつく。声も出ない。さっきコジマの店内に付いて来た八咫烏のひとりだ。蜘蛛のように手足の長い男だった。 


 忍者男は車から飛び出し、先端に鉄鉤の付いた銃をホテルの屋上に向けて撃った。鉄鉤が飛び、そこに付いている細いワイヤーロープがしゅるしゅると伸びて、男と屋上を一直線に結んだ。


 ようやく声を上げようとしたら、駆け寄ってきた刀根に口を塞がれた。


「あいつが木之下さんや米軍のことを調べてくれるわ。このまま行かせなさい」


 何度も頷いた。刀根が鼻まで塞いでいるので息が出来ない。


 忍者男は腰に付けた小さなウインチでワイヤーロープを巻き取りながら、あっという間に壁をよじ登って屋上に消えた。その素早い動きに見惚れているのか、刀根がなかなか手を離してくれない。じたばたと足掻いてようやく振り解く。刀根は何事も無かったように「ああ眠い」とエントランスに入っていった。 


 大量の荷物を持って部屋に戻ると刀根が待っていて、有無を言わさず一緒に中へ入ってきた。今すぐに作業をしろという威圧なのか。自分の監視下に置いておくためなのか。刀根はベッドにしどけなく倒れ込み、「終わったら起こしなさい」と寝息を立て始めた。


 ……さて、仕事だ。


 デジタル顕微鏡を使って読み取り装置を組み上げる。スマートフォンの中では三センチ四方で厚さ数ミリに収まっていたのだけれど、こうして市販品の寄せ集めで作ると書斎机の半分を占める大きさになってしまった。


 ノートパソコンに接続して起動する。顕微鏡のステージの下のライトが点灯した。ステージは自動で前後左右に動くように改造してある。このステージに新型石英ガラスメモリを載せて、刻み込まれた大きさ1ミクロンほどの凸凹に光を当て偏光具合を読み取る。どんな偏光がどういう情報になるのか、コンピュータがそれを計算する方法をアルゴリズムという。アルゴリズムが分からなければデータは読み出せない。けれど、それは増渕が開発したものだった。


 モーターの小さな回転音がしてステージが動き出す。暫くするとコンピュータの画面に次々とファイルが現れた。読み取りに成功したのだ。


 時刻は午前二時になろうとしていた。


 こんな時間に女王様を起こしたら怒られるのではないだろうか。近付いて寝顔を見ながら考えていると、刀根が気配を感じたのか目を開けた。一瞬少女のような短い悲鳴を上げたかと思うと、すぐにいつもの調子に戻った。


「何かした? したなら殺すわ」

 

 シーツで体を隠すようにして、刀根が上半身を起こす。


「何もしてないですよ。否、ずっとデータの読み出しをやってましたよ」


「出来たのね」刀根はベッドから身を乗り出してコンピュータを覗き込んだ。

「ええ、まあ」少し自慢げに言ってファイルのひとつを開く。


 画面には数字とアルファベットが混ざった十一桁の文字列が現れた。


「これは何よ」

「契約者の固有IDです」


 そう説明して、もうひとつ別のファイルを開いた。四十桁の文字列が表示された。


「こっちは端末機の製造番号です」

「米軍が欲しがっている情報ね」

「そうです。でも、これだけでは持ち主の特定は出来ません。通信会社に照会しないと」

「じゃあ訊けばいいじゃない」


 増渕は頭の後ろで手を組み、にんまりと笑みを浮かべてみせた。


「個人情報です。教えてくれませんよ」


 刀根が睨み付ける。今にも引き裂かれそうな凶悪な顔になっている。


「その余裕な感じが憎たらしいわ。何か方法があるのね。早くやりなさいよ」

「犯罪ですけど、誰にも迷惑を掛けないから、今回は特別ですよ」


 自分のスマートフォンを出して、メールアプリを立ち上げる。


「まだ二時だから起きてると思います。と言うか、いつ寝てるか分からないんですけどね」


〈起きていますか? 個人情報の照会をお願い出来ますか〉と送信した。


「誰?」刀根が怪訝な顔をして尋ねてくる。

「アパートの隣人です。凄腕のハッカー……だと思います」


 すぐに着信音が鳴る。ゼンゾウさんからの返信だった。

 〈承〉の一文字。やってくれるらしい。

 契約者固有IDと端末製造番号を送り返した。


「そのハッカー、興味あるわ」

「刀根さんだと、話にならないと思いますよ」

「失礼ね。どういう意味よ」

「刀根さんに問題があるのではないです」


 ゼンゾウさんの説明が面倒だったので、「それよりも」と次のファイルを開いた。十八件の通話記録が表示された。通話先の電話番号と日時、それと通話場所を緯度経度で表しているGPSの位置情報だ。刀根はゼンゾウさんの話を忘れて、「最後の通話はいつ?」と興奮気味に訊いてきた。


 通話記録は日付順に並んでいる。一番下の文字列を確認した。

〈201810030517……〉最初の十二桁が年月日と時刻だ。


「二〇一八年十月三日、午前五時十七分ですね」

「タイムスリップするのはそのあとね。発売日が十月一日だから、買ってすぐだわ」


 一番上の通話記録は〈201810011843……〉となっていた。


「最初の通話は十月一日の午後六時四十三分。これが販売店での通話テストでしょうね。つまり買ったのは発売日当日の午後六時半頃」


 スマートフォンで地図アプリを起動して、最初の通話の緯度と経度を入力した。地図が指し示したのは、東京スカイツリーのすぐ近く、浅草通り沿いの店舗だった。


「買ったのは此処です」


 刀根に地図を見せた時に、他にもタイムスリップの日時を推測できる方法に気付いた。コンピュータに表示されているファイルの中から地図アプリの記録を探す。GPSの電波を受信できてさえいれば、通話をしていなくても一時間に数回は緯度と経度を計測している。時間を逆行する前まではGPSの電波を受けている筈だ。


「あった!」


 刀根がびくりとして、「何が?」と少し裏返った声を出した。


「地図アプリの行動履歴です。最後は……」


 七百行ほどの文字列の一番下を確認する。


〈2018100315362634951277352〉


「十月三日午後三時三十六分。電波が届いている場所に居たのなら、このあと十分か十五分以内にタイムスリップしていると思います」


 日付に続いて示されている緯度と経度を地図上に表示させた。「その場所は」と、そこまで言って言葉に詰まってしまった。


「もったいぶらないでよ」刀根がスマートフォンを奪い取る。けれど、青一色の画面を見て、「どういうことよ」と突き返してきた。

 地図を縮小すると、青に染まっていた理由が分かった。海だったのだ。


「海の上ですね。嘉手納基地の沖合です。米軍は此処にスマホを運び込んだんですね。否、これから運び込むのか」


 画面に並んでいるファイルを見て不思議な気分になった。


「これは、これから起こる未来の記録なんですね。米軍の実験は成功するのかな」


 再びメールの着信音が鳴った。ゼンゾウさんからだ。内容を見てゼンゾウさんが優秀なハッカーなのだと確信した。この短時間で契約者の名前、住所、固定電話の番号だけではなく、マイナンバーや顔写真、クレジットカードの番号まで調べ上げられていた。


「契約者が分かりましたよ。富田博とみたひろしさん、男性ですね。昭和五十三年一月二十日生まれの四十歳。現住所は東京都墨田区押上二丁目。……マイナンバーとかはいらないでしょ?」


「上出来ね」刀根はトートバッグから木之下とクレメンズの名刺を出した。

「すぐ二人に知らせなさい。メールアドレスはこれに書いているわ」


 命令通りにメールを打とうとした時、またゼンゾウさんから返信が来た。そこには製造番号と兵庫県加古川市の住所、会社名が書いてあった。スマートフォンはすでにこの会社で製造されていて、倉庫で出荷を待っているのだろう。


「いまスマホがある場所も分かりました」

「そんなことまで分かるの? じゃあ、富田さんが買う前に手に入れられるわね」

「駄目だと思いますよ。刀根さんは分かってないなあ」 


 即座に否定したけれど、自分がしてしまったことに気付いて口を塞いだ。刀根は見る見るうちに凶悪な顔になって、ついにこちらの頬を抓ってきた。


「腹の立つ言い方するわね! なんで駄目なのか説明しなさいよ!」

「歴史が変わってしまうからです」頬を抓られたまま答えた。


 刀根はきょとんとなって、「ちゃんと分かるように言いなさい」と手を離す。

 分解したスマートフォンを手に取って説明を試みる。


「このスマホは富田さんが契約した……否、するんですよ。その前に米軍が手に入れてしまったら、富田さんは別のスマホを買うことになるじゃないですか」

「うーん? まだ買ってないじゃない」

「そうです。だから手に入れては駄目なんです」


 簡単に理解できる状況ではないことは分かる。過去と現在と未来、それが時間軸の順番に並んでいないのだ。此処にあるスマートフォンは過去で見付かったものなのだけれど、それは今よりも未来から過去へと戻ったものなのだ。


 未来に記録されるデータと違うことを現在で起こすと、このスマートフォンがタイムスリップをするのかどうか分からなくなる。否、これから起こることが記録されているのだから、何をしても歴史は変わらないのか。……よく分からなくなった。


「とにかく、ややこしくなるので、この情報はメールには書かないようにしますね」


 ゼンゾウさんにお礼のメールを入れて、木之下とクレメンズに富田博の情報を送信した。刀根はメールがちゃんと送られたことを確認して、「さあ次ね」と急かす。


「画像データですね」


 開いたファイルには三十枚のサムネイル画像が並んでいた。一枚目の画像にポインターを合わせてマウスをダブルクリックする。


 現れたのは中学生くらいのツインテールの少女と、中年男性とのツーショットだった。背景にはログハウスのような建物の入口が見えている。中年男性はゼンゾウさんが送ってきてくれたマイナンバー情報の顔写真と同一人物だった。


「富田博さんですね。女の子は誰でしょう? 娘さんかな。それとも……」

「タイムスリップしたあとの画像はあるの?」


 ファイルの日付を確認していくと、タイムスリップしたと思われる十月三日以降に七枚の画像が撮られていることが分かった。その七枚の画像にはGPSの位置情報がない。


「七枚あります」


「七枚!」刀根に肩を掴まれた。興奮しているのか、僅か七枚でがっかりしているのか、いずれにせよ物凄い力だ。かなり痛い。


「順番に開きますよ。まず一枚目」マウスをダブルクリックする。


 モニターに男の顔のアップが映し出された。額や頬にびっしりと幾何学模様の入れ墨をした浅黒い男だ。大きく眼を見開いて、こちらを驚いたように見詰めている。


 刀根は言葉を失っていた。

「これは?」と訊いてようやく我に返ったように答えた。


「千八百年前の倭人よ。魏志倭人伝の記述通りね。正確には三国志の東夷伝、倭人の条というのだけど、邪馬台国の描写の中に、男は大人や子供の区別なくみんな顔や体に入れ墨をしている、って記述があるのよ」


「さあ次よ」マウスを持つ手に刀根が手を重ねてきた。どきりとしたその時、サイレンが鳴り響いた。刀根が手を放し、カーテンを開けて外を見る。


「あいつ、見付かったのね」


 刀根の背後から覗くと、三台の軍用車〈ハンヴィー〉が猛スピードで目の前の道路を走っていった。刀根が窓を開けて半身を乗り出す。微かに銃声のような音が聞こえてくる。 


「これ、もしかして発砲してませんか」

「そうみたいね」

「日本でもこんなことあるんですね」

「此処はアメリカだって言ったでしょ」


 銃声は続いていたけれど刀根は冷静に見えた。書斎机の前に戻って、次の命令を下す。


「取り敢えず、読み出したファイルを木之下さんとクレメンズに送りなさい」


 言われた通りにメールの送信を始める。

 其々のファイルを種類ごとに分けて説明を付けたので少し手間取った。刀根がその様子をひとつひとつ確認するように見ていた。


「あの八咫烏の人は大丈夫でしょうか」

「大丈夫だ」男の甲高い声が答えた。


 当の本人がその長い手足で窓枠に張り付いている。驚いて椅子から飛び上がり、横にいた刀根とぶつかって二人してベッドに倒れ込んだ。


 忍者男は落ち着いた動作で部屋に入ってくると、書斎机の上から分解したスマートフォンと新型石英ガラスメモリ、それと増渕のパソコンを手に取って、「悪いが、これは貰っていくぞ」と窓枠に足を掛けた。


「ちょっと待って」刀根が覆い被さっている増渕を跳ね除けて、男の動きを止める。


「木之下さんが何をしようとしているのか分かったの?」


 忍者男が振り返って何かを話そうとした矢先、ドアが蹴破られて自動小銃を構えた兵士たちがなだれ込んできた。

 忍者男は超人的な跳躍で窓から跳び下りて行ってしまった。


 反射的に両手を上げていた。兵士のひとりに声を掛けられる。


「アーユーオーケイ?」

「ヒズコンピュータワズ、ストルゥン」刀根が答えてくれた。


「オウ!」兵士たちはオーバーなリアクションで驚いて無線で何やら報告すると、ぐるりと部屋を見渡して、「ホテルスタッフ、ウィルカムレイター」と出て行った。


「あの調子なら逃げ切れるわね。米軍基地っていっても大したことないわ」


 刀根はそう軽口をたたき、一転して声を荒げた。


「それよりコンピュータ取られちゃったじゃない。まだ画像一枚しか見てないのよ」


 増渕は、書斎机の上に置いてあるUSBメモリを摘まみ上げて、刀根に見せた。


「商売柄、コピーを取っておくのが当たり前になっているんですよね」


 刀根が大喜びで抱き付いてきたけれど、すぐに「何するのよ!」と突き飛ばされた。


 五分ほどしてホテルのスタッフ――と言っても米兵なのだけど――がやって来た。怪我はないか、何を盗られたのか、などと色々と訊かれて、終わる頃には午前四時を過ぎていた。さすがの刀根もベッドにぐったりと臥せっている。


「日本の警察は来ないんですね」隣のベッドに腰を降ろす。

「基地の中だから捜査できないのよ」

「やっぱりアメリカなんですね」

「少し寝かせてくれない。朝九時に木之下さんたちが来るわ」

「此処で寝るんですか」


 刀根は答えなかった。その代わりにすうすうと寝息が聞こえてくる。

 隣のベッドに横になって目を閉じた。木之下さんや米軍は何をしようとしているのか、情報を整理しておこうと思い、きょうの出来事を頭に浮かべる。それを睡魔が闇に押しやっていった。


 

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