第三章 八咫烏 1
「その日は那覇も火の海になったそうよ」
刀根マリの言葉に、増渕孝治は「へぇそうですか」と適当に応えた。
スマートフォンの分解を始めてどれほどの時間が経ったのだろう。刀根はその間ずっと木之下が七十四年前にこのスマートフォンを見付けた経緯を話していたのだけれど、上の空で半分も真面に聞いていなかった。小さな問題が起こっていたのだ。
石英ガラスメモリからデータを引き出すには、ガラス板に刻み込まれた微細な凹凸に光を透過させて偏光パターンを読み取る。その読み取り用のカメラが壊れていた。千八百年も経っているのだから、壊れていて当たり前といえば当たり前なのだけれど、修理するにも此処には部品がない。さて、どうしたものか。
「ちゃんと聞いていたの?」
「ええ、その女の子のお陰でスマホが此処にあるんでしょ」
読み取り装置を自作するなら、顕微鏡レンズとカメラが必要だ。デジタル顕微鏡が手に入れば作業は簡単になる。沖縄で手に入るだろうか。
「佐司笠セツ子よ。佐司笠という名前はね、琉球王朝で最高位のノロで……」
「その話、長いですか」知り合って初めて刀根の話を遮った。
「何よ」刀根が明らかに不機嫌な声を出す。
「必要な部品があるのですが手に入りますかね」
「自分で調べればいいじゃない。見付かれば買いに行くわ」
刀根はそれきり黙って化粧を直し始めた。また女王様を怒らせたのかも知れない。でも今は取り繕うよりも仕事が優先だ。自分のスマートフォンで検索すると、那覇市内の家電量販店で売っていることが分かった。
「那覇のコジマで売っているようですよ」
「行くわよ」刀根がベッドの反動を使って立ち上がった。
「買いに行ってくれるのではないんですか」
「一緒に行くのよ。お腹も空いたし、ちょうどいいわ」
窓から見えている空が、青からオレンジへと変わる見事なグラデーションを描いていた。南国の夕景に見惚れているとドアの閉まる音がした。慌てて跡を追う。
刀根が先にエレベーターで下りてしまったので、待たしてはいけないと思って階段を駆け下りた。
意外にもレンジローバーは刀根が運転してくれた。昼間と違い風が涼しくて快適だった。基地のゲートを出ると、不意に刀根がブレーキを踏んだ。欠伸の途中だったので舌を嚙みそうになる。
「あいつら本当にしつこいわね」
自動車道の高架下に、まだ八咫烏の白いアルトが停まっていた。刀根はゆっくりと車を進めてアルトの中を覗き込んだ。運転手がじっとりと刀根を見詰め返す。助手席と後部座席の二人は眠っているようだ。
「買い物したらまた戻ってくるわよ。それでも付いて来るならお好きに」
刀根は運転手を挑発してアクセルを踏み込んだ。急加速で身体が座席の背に押し付けられる。目の前の信号が黄色に変わった。刀根はさらに加速して交差点を突っ切っていく。次の信号が赤になっても刀根はスピードを落とさない。増渕は恐怖で歯を食いしばった。刀根はそのまま交差点を横断して、そこでようやくスピードを緩めた。
「無茶しないでください。こういうの苦手なんです」
「ジェットコースターに乗れないタイプね。ちょっと遊んだだけよ」
刀根がバックミラーを確認する。八咫烏のアルトは最初の信号で停まっていた。
「付いて来るつもりね」
「僕たちは殺されるのでしょうか」
「あいつらの相手は私たちじゃないと言ったでしょ。多少は脅かされるかも知れないけど」
「それも嫌です」
「あんた男なんだから、だらしないこと言ってないで、私を守りなさいよ」
「刀根さんは大丈夫ですよ」
「何でよ」刀根が睨み付けてくる。
「絶対に僕より強いから」
「失礼ね。私は誰かと戦ったことなんてないわ」
刀根の表情が少し緩んだので、ほっとして振り返る。
アルトが交差点を渡っていた。
街は独特な夜の顔を見せ始めている。店に灯っている色とりどりのネオンは殆どが英語だ。基地の関係者だろうか、歩いているのも外国人ばかり。まるでアメリカ映画のワンシーンに迷い込んだようだった。
「かなりアメリカンな街ですね」
「この辺りはかつて米軍がコザって呼んだ街よ。いわゆる基地の街。戦後、中飛行場を接収して嘉手納基地にした時に米軍が名付けたの。それまでは
「へぇ、中飛行場が嘉手納基地なんですか」
「さっき木之下さんも言ってたじゃない。この基地の滑走路の下でスマホを見付けたって」
「そういうことか……」
「あんた、やっぱり私の話を聞いてなかったわね」
「いやいや聞いていましたけどね、スマホの分解に夢中だったんですよ」
刀根は増渕を一瞥して、「那覇よね」とアクセルを吹かし、右に急ハンドルを切った。タイヤが軋む音が響いて、外に投げ出されそうになる。
「本当にやめてください。もう口ごたえはしませんから」
刀根が悪魔のような声を出して笑う。女王様だ。最近流行りのドSというやつかも知れない。バックミラーを見て「あいつらも来たし、もう無茶はしないわ」と口を歪める。振り返ると、後ろにぴったりと八咫烏のアルトが付いていた。
それから那覇までの一時間ほどの道程は、米軍基地を縫うように走った。国道三〇三号線を南下していくと、右手には米軍海兵隊のキャンプ
目的地のコジマは橋を渡った袂にあった。駐車場の九割は埋まっている。両側にワゴン車が停まっているギリギリのスペースに、刀根は難なくレンジローバーの巨体を滑り込ませた。後部座席に放り込んでいたトートバッグを取って、さっさと店内へ向かう。
八咫烏のアルトは、近くに駐車できる場所が見付けられなかったようで、ひとりだけが車を降りて刀根を追った。残った二人がこちらを睨んでいる。さっき刀根が言っていた〈脅される〉という言葉を思い出して、急いで店へ駆け込んだ。
必要なものは全て揃っていた。増渕はデジタル顕微鏡やモーター、コード、インタフェースカードなどを次々とショッピングカートに放り込んでいった。店の中まで追ってきた八咫烏は、その商品が何だったのか逐一メモを取っている。
「僕たちが何をしようとしているのか、彼らには見当も付かないと思いますよ」
「分からないなら、いずれ直接聞いてくるでしょ」
「直接って、僕に?」
「それはそうでしょ」
刀根はショッピングカートの中から基盤をひとつ摘まみ上げて、増渕の目の前でぷらぷらと振った。
「私はこれを見ても何か分からないもの」
「それは偏光パターンをデコードする時に……」
説明しようとした増渕の口を、刀根は摘まみ上げた基盤を当てて塞いだ。
「聞いても分からないわ」
刀根から基盤を取り戻して、「これで全部です」とショッピングカートに戻す。
「こんなに必要なの」
「データを読み取る装置を作るんです」
「作る? これから?」
「ええ、これだけ揃えばすぐに出来ますよ」
「へぇ。私からしたら、あんたたちのような最新技術を扱う連中は、未来から来たのと同じね。へぇとしか言えないわ」
「技術者は未来から来たんじゃなくて、技術者が未来を作っているんですよ」
「……なんか、すごく生意気ね」
刀根はぷいとそっぽを向いてレジに歩いていった。刀根が支払いをしている間、八咫烏がレジの脇に来て、なぜか買った物の値段までメモをとった。
駐車場に戻ると、レンジローバーの隣にアルトが停まっていた。
刀根が「次は食事ね」と、アルトに声を掛ける。運転手が刀根を見て手を上げた。了解したという合図だろう。まるで一緒にドライブでもしているようだ。その奇妙な光景を横目に、トランクに荷物を押し込んで助手席に乗る。
「肉にしよう」刀根が独り言のように呟いて車を出した。
昼も相当なボリュームのハンバーガーを食べさせられている。その上に焼肉だかステーキだか知らないけれど肉など食べられない。異議を申し立てようとして既でのところで思い直した。どうせ却下されるのだ。「ええ」と答えた。
那覇市のメインストリート――国際通りの夜は人で溢れていた。仕事仲間らしき集団やカップル、買い物帰りの主婦、どう見ても観光客にしか見えないアロハシャツ姿の集団、制服を着た米兵とその関係者と思われる外国人。県庁北口交差点から安里三叉路までの1マイルは飲食店や土産物屋だけでなく、オフィスやライブハウス、それに市場までが密集する沖縄最大の繁華街だ。
昭和十九年の十月十日に連合軍の空襲で焼け野原になったのだけれど、戦後いち早く復興して、統治していた米軍を驚かせた。国際通りが〈奇跡の1マイル〉と言われる所以だ。もちろんこれは刀根の受け売りだ。
有料駐車場にレンジローバーを停めると、刀根は相変わらずトートバッグを持って先に歩き始めた。もう店を決めているのだろう。足早で追い付いて横に並ぶ。
電飾の看板が煌々と輝く華やかな通りだ。縁石に沿って植えられている椰子の木が、本土とは違う異世界を演出している。すれ違う人たちの殆どが笑顔だというのが、その異世界ぶりに輪を掛けていた。
ふと隣の刀根を見た。夜の灯りの下で見ると、美しさが際立って見えてどきりとした。ヒールの分だけ増渕より少し背が高い。颯爽と歩く姿はまるでモデルのようだ。
それに引き換え自分はどうだ。いつも思い詰めたように背を丸めている。みっともない。この不釣り合いな二人が周りにはどう見えているのだろう。職場の上司と部下 それともカップルに見えているのだろうか? そう思い始めると、すれ違う人たちの視線を集めている気がして、形だけでも少し胸を張って歩いた。
「腕でも組んであげようか」
全身がかっと熱くなった。女王様に見透かされている。
「今までそういうこと、なさそうだから」
「そんなことないですよ! 僕だって女性と腕を組んだことくらいあります」
むきになって言い返しはしたけれど、実は社会に出てからは一度もない。
「冗談よ」刀根は軽くあしらうように言って、軽自動車が一台通れるかという狭い路地に入った。その路地の光景に増渕は尻込みした。
バラックのような古い木造の建物が並んでいて、まるで戦後の復興期が突然目の前に現れたようだった。路地の入口で電信柱から突き出している看板には、〈竜宮通り社交街〉と掲げられていて、中の蛍光灯がちかちかと明滅していた。今にも崩れ落ちそうな板張りの建物には、其々看板らしきものが掛かってはいる。だけど、とてもじゃないがレストランやその類には見えない。
張り出し屋根のトタンが捲れている小さなドアを、刀根が躊躇いもなく開けようとした。
「刀根さん! ちょっと!」咄嗟に刀根を止めた。
「何よ、
「此処がステーキ屋なんですか」
「誰がステーキを食べるって言ったの、言ってないわよね」
「でも、肉にしようって」
刀根は二階から突き出している、今にも落ちて来そうな看板を指差した。そこには真っ赤な文字で〈山羊料理〉と書かれていた。この看板の蛍光灯も寿命が近いらしく、不定期な明滅を繰り返している。
「山羊って、……あの、めぇめぇ鳴く山羊ですか」
「他にどんな山羊がいるのよ」
刀根は増渕の後ろに向かって、「刺身がおいしいわよ」と声を掛けた。背後で八咫烏の三人組が、〈山羊料理〉の看板を唖然となって見上げている。
「ねぇねぇ、来たよ」刀根が店に入っていった。
八咫烏たちが何やら相談を始めた。一緒に居るのが怖くなって渋々だけど刀根に続いて店に駆け込んだ。
外観から受けた印象よりは真面な店だった。入ってすぐ左側に六人が掛けられるカウンター席、正面には丸テーブルが二卓あって、全ての席が客で埋まっていた。場末のスナックと小料理屋を融合させたような不思議な空間だ。
カウンター席の向こうが厨房になっていて、一昔前はさぞかし美人だったであろう女将が、あくせくと客の相手をしている。
「マリちゃん来たねぇ。座敷を空けといたよぉ、うれしいねぇ」
刀根は「ありがと」と、テーブル席の奥の小部屋に入った。
女将は座敷と言ったけれど、何の飾りっ気もない四畳ほどの部屋に、テーブルと座布団が四つ置かれているだけだった。
刀根が奥の座布団に胡坐をかく。女将とのやり取りからすると常連なのだろう。でも店の雰囲気をぶち壊すほどの違和感だ。女王様は気にもしていないようだけど、他の客たちがちらちらと視線を向けている。
刀根の向かいに座ると、背中を突かれて客のひとりからメモ紙と鉛筆を渡された。
「注文を書くのよ。貸して」
刀根はメモ紙に、〈山羊刺し、山羊焼き、山羊汁〉と書いて突き返してきた。どうしていいか分からずに困っていると、先ほどの客が受け取って女将に渡してくれた。
「ねぇねぇ、あとビールも」刀根はそう声を張り上げ、続けて増渕に命じた。
「取って来てくれる?」
女将が一人で切り盛りしているので、それくらいは客がやってくれということか。座敷から出てカウンターの客からオリオンビールの瓶とグラスを二つ受け取り、刀根に渡す。
「マリちゃん、きょうは島らっきょうあるよ、うれしいねぇ」
女将の呼び掛けに、刀根は「貰う!」と応えて、ビールをグラスに注ぐと一気に呷った。
「山羊はね、沖縄では琉球王国時代には食べられていたらしいわ。この島は本土とは全く違う文化をずっと育んできたの。沖縄が日本になってまだ百五十年足らずよ。それまでずっと外国として差別してきた。自分たちよりも劣った国だとしてね。あんたもさっき山羊なんて食べるのかと思ったでしょ。そういう差別意識が根底にあるから、沖縄に女王がいたことが認められないよ」
一気に捲し立てて、刀根はさらにビールを注いだ。
「でも天皇陛下が沖縄の女王の子孫でも今は誰も気にしませんよ。それに神話が事実だと思っている奴なんていないでしょ」
そこまで言って疑問が湧いた。では、ずっと追いかけて来る八咫烏の目的は何だ? 米軍はタイムスリップの解明を目指している。木之下と刀根は邪馬台国が沖縄にあったことを証明したがっている……。否、もっと違う目的があるのか。探るように訊いてみた。
「やっぱり刀根さんも卑弥呼が沖縄にいたと確信しているんですね」
刀根はグラスをテーブルに手荒く置いて、増渕を睨み付けた。
「私の話をどこまで聞いていたの? 正直に言ってごらん」
「工事現場で遺跡を見付けたのと、空襲でスマホが焼けそうになったこと……」
「最初と最後だけじゃない!」
刀根はトートバックからスクラップブックを出してテーブルに置いた。
〈見てみろ〉と視線を送ってくる。
スクラップブックを開くと、写真機を持った老人と、刀根が〈墓石〉と呼ばれていた学生時代の写真が挟まっていた。手に取って、じっくりと学生時代の刀根を観察する。この頃の刀根は今よりも随分と落ち着いていて、大人びた雰囲気を纏っていた。
「刀根さんは、この頃は黒歴史だって言ってたけど、こんな美人ならモテた筈ですよ」
「モテて、いいことなんて一つもなかったわ。最低な奴ばかり」
刀根がまたビールを呷る。気が強いだけじゃなくて、酒も強そうだ。
「あんたはいいわ。身構えなくていい」
どうやら複雑な事情がありそうだ。だけど触れてはならない気がして、話題を変える。
「隣のカメラを持った老人は?」
「爺ちゃんよ。新聞記者だった。さっき話したでしょ」
刀根が手を突き出してきたので写真を返した。その写真をトートバッグに仕舞って顎でスクラップブックを指す。命令のままにスクラップブックを捲ると、発掘現場や出土物の白黒写真が整理されて貼り付けられていた。
「それが、爺ちゃんが撮った写真」
「へー、どこの遺跡ですか」
刀根がいらいらした口調でまくし立てる。
「木之下さんが中飛行場で発掘した遺跡よ! スケッチ代わりに爺ちゃんが撮影したけど木之下さんに渡しそびれていたの。爺ちゃんは十月十日の空襲の時には那覇にいたんだけど逃げるので精一杯で、何日かあとに飛行場に行ったら、もう木之下さんは居なくなっていたらしいわ」
「これが卑弥呼の遺跡ということですね」
スクラップブックを捲っていくと、出土物の写真の中にスマートフォンが写っているものを見付け、「おっ」と声が出た。刀根がビールを継ぎ足してまた呷る。
「木之下さんは金印も見付けたと言っているけど、そんな写真はないわ。木之下さんの記憶違いかも知れない。だから私はスマホのデータに期待しているのよ」
スクラップブックの最後のページには、ナポレオンフィッシュを銛で突き刺して担いでいる、入れ墨の男の写真が貼ってあった。男の後ろには笑っている少女が写っている。少女の首に掛かっている首飾りに何か違和感があったのだけれど、なぜかは分からなかった。
「この女の子は?」
「佐司笠セツ子だと思う」
また背中を突かれた。先ほどの客が島らっきょうの入った小鉢を渡してくれた。それを刀根に差し出して、「期待だけですか」と訊いた。
「どういう意味よ」
「単純に他の目的があるかも知れないなと思っただけですよ」
「私には無いわ」刀根が島らっきょうを摘まんで口に放り込む。
「私には? 木之下さんも?」
「木之下さんが何を考えているかなんて、私が知っているわけないでしょ」
それから刀根は木之下と知り合うまでの経緯を話してくれた。事の始まりは五年前の冬、刀根の祖父が亡くなったことなのだそうだ。
刀根は両親の仕事が忙しくて、幼い頃から祖父母の家に預けられていた。ずっと祖父の新聞記者時代の話を面白可笑しく聞かされて育ったこともあって、遺品整理でその記事や写真を譲り受けたという。
刀根記者は好奇心が旺盛だったようで、不老不死の妙薬を探し回る記事や、
木之下とは何者なのか。手掛かりは祖父が残した取材メモだけ。そこに書かれていた慶應義塾大学の大山史前学研究所や、第五〇飛行場大隊の関係者を調べては会いに行ったという。そうこうしているうちに友永という上品な老婦人と知り合った。
彼女の亡き夫が、木之下のかつての上官だったらしい。その夫は、部隊から脱走した木之下を戦後もずっと気に掛けていて、色々と調べていた。けれど終戦直前に米軍に投降したあと、アメリカに渡ったということまでしか分からなかったのだという。
刀根はアメリカの沖縄県人会に協力を仰いだ。木之下が嘉手納基地にいるのが分かるまで半年掛かったそうだ。
遺跡を取材した記者の孫が探していると知って、木之下はとても喜んで会ってくれた。そして祖父の写真を渡した時、その中の不思議な四角い出土物に刀根が気付いたという。木之下はまだそれを保管していて、スマートフォンではないかとⅩ線で内部構造を調べた。すると基盤やリチウムイオンバッテリーが組み込まれていることが分かったのだ。
木之下が娘婿のクレメンズ准将にこのことを話すと、米軍は大騒ぎになった。すぐにタイムスリップ現象の解明のために、極秘の専属チームが作られたのだそうだ。
「クレメンズって木之下さんの娘婿だったんですか」
「そうよ」
長話を終えて刀根がビールで喉を潤す。
「今度はちゃんと聞いていました」
嘘だった。刀根が夢中で話していたので、ばれないと思って途中で一度、缶ジュースをカウンターまで取りに行った。だから沖縄県人会のあたりから木之下が嘉手納基地で見付かるあたりまで聞いていなかったのだ。思った通り刀根は気付いていないようだ。
「あんたの開発したメモリだけが特殊過ぎて分からなかったのよ。なんか普通のとは違うって言っていたわ」
「アルゴリズムが違うんです。特許申請もしていないので調べようがなかったんでしょう」
刀根がうんざりした顔で、「もう難しい話はいいから」と島らっきょうを齧る。
「大体あんたは、相手が望んでいるかどうか関係なく話をするから駄目なのよ」
そうなのか……。今まで親切で説明しているつもりだったのに。だけど、いつも一方的に話す刀根に言われる筋合いはないだろう。ここは抗議しておこう。
「そんなこと言ったら刀根さんだって……」
「私と話す時は、もっとロマンがある話をしなさい」
また話を断ち切られる。それでも食い下がってみた。
「歴史の話がロマンですかね。僕にはロボットとか宇宙旅行とかのほうがよっぽどロマンですけどね」
「ロボットは面白そうね」
刀根が話に乗ってきたので肩透かしを食らった。どう対処していいのか分からない。
「ロボットって、もう人間みたいなやつが作れるの? アシモだっけ? ニュースで見た時はびっくりしたわ」
刀根がアシモを知っているのが意外だった。アシモは本田技研工業が開発した二足歩行ロボットだ。重力や慣性力を計算して姿勢を制御する。階段を上ったり下りたりする姿や、ダンスを踊っているところが報道されて話題となった。もう十五年以上も前のことだ。
「今のはもっとすごいですよ」
スマートフォンを使って刀根に動画を見せた。
「アメリカのボストンダイナミクスという会社が作っているロボットです」
その動画では人に蹴られても体勢を立て直す四足歩行のロボットや、宙返りする人間型のロボットが紹介されていた。刀根はスマートフォンを奪い取り、驚きの声を上げながら楽しそうに動画に見入った。
「僕のアパートにも、すごいロボットを作る奴がいますよ。メイドロボットですけどね」
刀根は動画に夢中で聞いていないようだ。
また背中を突かれた。ようやく山羊刺しが出てきた。けれど、それを渡してくれたのは先ほどの客ではなく、黒いスーツ姿の男――八咫烏のひとりだった。
「あんまり遅いから、裏口から逃げたのかと思ったぜ」
がらがらと喉の奥に痰が絡んだような声だった。その声と眉間に皺を寄せた不機嫌そうな面構えに、恐怖と不快さで声も出なかった。
刀根はスマートフォンを増渕に返して、「この店には特別な時間が流れているのよ。あんたも座って食べて行けば」と言い出した。
……本気なのか?
男は山羊刺しをテーブルに置いて増渕の隣に腰を下ろし、さらに不機嫌そうな顔になってスクラップブックをぱらぱらと捲った。
「木之下は危険な男だ。分かっているのか」
刀根は皮付きの山羊肉にたっぷりとおろし
「あんたたちは何を分かっているの?」
「我々の要注意リストのひとりだ。この国を根底から揺るがす可能性がある」
刀根は男の顔をまじまじと見ながら、「おいしい」と言った。こんな状況でもマイペエスな女王様だ。刀根に怖いものはあるのだろうか。
「増渕くん、君も食べなさい。本当においしいから」
刀根はそう命じて、八咫烏に「あなたも」と勧めた。
「
男が名乗ったことに驚いた。刀根も眼を丸くしているので驚いているのだろう。
「久我、……年上っぽいから久我さんか。じゃあ久我さんも食べて」
久我はおろし生姜で山羊刺しを食べ、「三十だ」と言った。
飲んでいた缶ジュースを吹き出してしまった。
「そんなに驚くことか」久我が睨み付けてくる。
「すみません。とても同い年に見えなかったので」
刀根が「じゃあ久我くんだ」と、あっけらからんと言う。
「久我くんは、なぜ木之下さんが危険人物だと言うのかな。嘉手納基地に卑弥呼の遺跡があったとしても、もう調査することも出来ないじゃない」
なるべく関係がないふりをしようと山羊刺しを食べてみた。こりこりと皮に歯ごたえがあって面白い食感だった。恐れていた獣臭も殆どない。これは……うまい。
「終戦以来、木之下は日本を憎んでいる。新左翼勢力との接触も確認された。その木之下がいま米軍と組んでいる。これは全共闘や連合赤軍とはレベルが違う。奴が何か途轍もないことを企んでいるとしか考えられない。途轍もない復讐だ」
「米軍がやろうとしているのは物理学の観測実験ですよ」軽い気持ちで口を挟んだ。
「お前らはその実験に協力しているのか、何の実験だ」
鼻が付きそうになるほど久我が顔を近付けて凄んでくる。
答えようとすると、刀根が「守秘義務よ」と遮った。
「本当に実験だけなのか。もし、お前らがおかしなことに関わっているのだとしたら……」
がらがらの声で威嚇している久我が、突然「なんだ」と後ろを見た。背中を突かれたらしい。
久我は客から山羊焼きを手渡され、それをテーブルに置いて続けた。
「我々は手段を選ばないぞ」
「あんたこそ、私の邪魔をしたら許さないわ」
刀根が、焼いた山羊肉を頬張って応えた。
「ふん」と鼻を鳴らして久我が席を立つ。
「本当に何も知らないなら、早いうちに手を引け」
久我が座敷を出ると、刀根は眉根を寄せてスクラップブックに目を落とした。刀根の思い詰めたような表情を初めて見る。声を掛けようとしたら久我が戻ってきた。丼鉢を二つ持っていた。
「山羊汁だそうだ」
増渕が山羊汁を受け取ると、久我は身体を揺すって店を出て行った。刀根の前に山羊汁を置いて訊く。
「どうしました? 急に真面目な顔して」
刀根は我に返ったように、「失礼ね。ずっと真面目な顔よ」と山羊汁を呷った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます