第二章 邪馬台国 3

 その日、木之下は友永軍曹と共に嘉手納の部隊本部に呼び出された。


 那覇から繋がる沖縄県鉄道の終着駅の街として栄えていた嘉手納には、製糖工場や青年師範学校などが整備されていて、第五〇飛行場大隊はこの街の国民学校を本部にしている。


 小隊長の部屋に入ると、応接椅子に座っていた背の高い痩せた男がゆっくりと立ち上がった。小隊長も慌てて立ち上がり、「黍野きびの大尉殿である。遺跡の処理を担当される」と紹介した。黒眼鏡に黒い軍服、その胸に三本足の鳥の徽章きしょうを付けている。


 その徽章を見て背筋が寒くなった。木之下が知る限り三本足の鳥が示すものは一つしかなかった。八咫烏だ。古事記や日本書紀に登場する、神武天皇を橿原に導いた鳥だ。それを徽章にしている部隊など聞いたことはなかったが、恐らくこの国の根幹に大きく関わる連中なのだろう。


「班長の友永と、遺跡を発掘した木之下であります」


 友永軍曹が二人の紹介を一度で済ませて敬礼した。


「あとは大尉殿の指示に従うように」小隊長はそう命じて、黍野大尉に媚びるように「此処は御自由にお使いください。私は要件がありますので失礼します」と部屋を出ていった。


 黍野大尉は友永軍曹と木之下に応接椅子に座るように促して自分も腰掛けた。


「さて、君たちは歴史とは何かご存じですか」丁寧な口調だった。


 突然の問い掛けに木之下が訝っていると、友永軍曹が答えた。


「歴史とは過去に起こった出来事の記録であります」

「違います」黍野大尉はきっぱりと否定した。 

 

「歴史とは〈今〉に必要な過去を先人たちが作ったものです。取捨選択といってもいい。さらに言うと、それが本当に起こった出来事なのかどうかも然程さほど重要ではありません。なぜなら大事なのは〈過去〉ではない。〈今〉だからです。皆の記憶に少々の齟齬があっても構わないのです。人の記憶などすぐにあやふやになりますからね」


「しかし大尉殿、歴史に学べと言うではありませんか」 


 黍野大尉が不敵な笑みを浮かべて頷く。


「正にその通り。〈今〉に必要な意味付けがされているからです。意味付けの出来ない過去は切り捨てて再構成している。それが歴史です。決して事実を否定しているのではありません。しかし我々の知る歴史は、〈今〉を良きものにしようと先人が作り上げてきた積み重ねです。この国が国として成り立つために知恵を絞って作り上げたのです」


「それではこの国が、偽りの上に出来た国ということになります」


「こら、口を慎め」友永軍曹が木之下を叱責する。

 黍野大尉が「まあまあ」と割って入り、「こうは考えられませんか」と続けた。


「卑弥呼や邪馬台国は支那の文献にしか記述がありません。支那で歴史が作られる時に、卑弥呼という倭国を統べる女王がいたほうが、皇帝の権威付けのためにも都合が良かった。如何です?」


 木之下は何も答えられなかった。


「支那も〈今〉をより良くしようと歴史を作り上げている。何も日本に限ったことではありません。日本には卑弥呼や邪馬台国が存在していた記録など、ひとつもないのですよ。それなのに君は支那の記録は事実で、我が国の歴史書は偽りだと言う。なぜでしょうか」


「日本側の記録は、失われたのかも知れません」


 恐らく黍野大尉のような連中が処分したのだろう。


「そうかも知れませんね。しかし、それも良い国を作る上で必要だったからなのでしょう。歴史作りとは国を作るということです。今は戦争でそう感じられないのかも知れないが、日本は天皇陛下のもとに国民がひとつに纏まっている素晴らしい国だ。他の国を見てみたまえ、民族間の諍いや宗教での対立で溢れているではないか。そうならない為に、この国では二千六百年に渡る歴史が作られたのです。その苦労を台無しにして欲しくはない」


「それでは考古学や歴史学が成り立ちません」

「そんなことはありませんよ」


 黍野大尉の不敵な笑みが消えた。


「常に過去は現在が意味付けをしてきました。いずれ邪馬台国は見付かります。様々なものが発掘されて、それに意味が付けられていくでしょう。文献の解釈もそれに合わせて整合性が図られます。しかし、それは沖縄ではない。九州なのか畿内なのか」


「歴史の改竄です」

「誰か、それを証明できるのかね」

「それは……」木之下は口を噤むしかなかった。


 出土物はあくまでも状況証拠だ。卑弥呼の存在や、邪馬台国が此処だと証明するには、もっと多くの状況証拠を重ねていくしかない。金印の存在は大きいが、それも状況証拠のひとつでしかない。だからこそ失うわけにはいかない、と木之下は強く決意した。


「サイパンが陥落して、連合軍は日本本土への爆撃を始めるでしょう。そう遠くないうちに日本は負けます。戦後この国は一から作り直しになる。その時に国民をまとめていく基盤まで失うわけにはいかないのです。これは陛下の御指示でも、軍の判断でもありません。この国の歴史を紡いできた我々からのお願いです」


 友永軍曹は、将校の口から敗戦が語られたことに衝撃を受けているようだった。


「我々?」木之下は黍野大尉の胸にある八咫烏の徽章を見た。


 黍野大尉は視線に気付いて、「我々は八咫烏。導くものです」と立ち上がった。


「さて、この国に余計なものを処分しに行きましょう」


 試掘坑に戻ると、黍野大尉は手にした一米突ほどの金属棒で農民たちを指揮して、石祠に爆薬を仕掛けさせ、有無を言わさずに吹き飛ばした。


 二畳ほどもあった巨大な石は今や瓦礫と化した。遠巻きに見ていた農民たちが身を震わせて拝んでいる。


 黍野大尉が威圧的な大声を張り上げた。

 

「これを砕いて滑走路の路盤にしてください」


 農民たちが瓦礫の運び出しを始めるのを確認して、黍野大尉は「次は君が見付けたものです」と木之下の顔を覗き込んだ。


「それなら自分の部屋にあります」友永軍曹が答える。

「否、まずは木之下君の部屋です」


 兵舎まで案内すると、黍野大尉は手荒く木之下の寝台を引っ繰り返して、そこに小物入れや背嚢の中身をぶちまけていった。手にした金属の棒で寝台の上に散らばった中身をひとつひとつ確認するように跳ね飛ばし、目的のものが無いと分かると「ふん」と鼻を鳴らして友永軍曹の部屋へ向かった。


 黍野大尉は友永軍曹の部屋も派手に荒らし終わったあとに、棚に飾られていた出土物を金属の棒で全て床に叩き落とした。鈍い音がして鉄剣が二つに折れた。


「残らず発掘現場に持って来てください」

「了解致しました」友永軍曹が敬礼する。


 黍野大尉は部屋を出ていく時に、なぜかこちらを睨み付けた。


 友永軍曹と一緒に床に散らばっている出土物を背嚢に拾い集める。


「やはり埋め戻されるのですね」

「そのようだな」

 

 友永軍曹はひっくり返った寝台の上から金将駒をひとつ摘まみ上げた。その駒を見詰めて苦々しく唇を歪める。


「あの野郎、滅茶苦茶やりやがって」


 出土物を試掘坑へ運ぶ。祠だった瓦礫は綺麗に取り除かれていた。そこに黍野大尉が持っていた金属の棒が置かれている。棒からは黍野大尉が手にした丁字型の取っ手が付いた箱まで導線が繋がっていた。黍野大尉が自慢げに言う。


「これが何か分かるかね」

「理解不能であります」


 友永軍曹が皮肉たっぷりに応えたが、黍野大尉には伝わっていないようだ。


「これは連合軍のエレクトロン焼夷弾を真似て我々が作ったものです。マグネシウムとアルミニウムの合金で、この取っ手を捻ると燃焼が始まります。その温度は三千度だ」


 黍野大尉は言葉を切って、木之下に試掘坑の中へ入るように指示した。


「銅の沸点は二千五百七十一度、金は二千八百五十七度。つまり……」


 黍野大尉は試掘坑に飛び込んだ木之下を見て、もう一度「つまり?」と問うた。

 その嫌らしい笑みを見て仕方なく答える。


「沸騰して気化します」

「そうです。跡形もなく消えて無くなるのですよ」 


 黍野大尉が満足そうに言って、「そこに見付けたものを並べなさい」と次の指示を出した。


 背嚢から出土物を出して焼夷弾の上に並べ、最後に折れた鉄剣を置いた。友永軍曹が手を差し出してくれたので、その手を取って試掘坑から出る。


「これが部屋にあった全てだね?」


 木之下と友永軍曹が揃って頷くと、黍野大尉は手に持った丁字型の取っ手を捻った。焼夷弾は強烈な閃光を放ち、白く輝いて燃え始めた。あまりに眩しくて手をかざす。試掘抗から噴き出してくる熱気が顔をちりちりと炙った。


 見る見るうちに、並べた出土物が溶けてぶくぶくと沸騰し、鼻を突く臭気が立ち込める。黍野大尉は微動だにせず、黒眼鏡の奥で消えていく出土物を捉えていた。


 それから五分ほどして刀根記者がやって来た。眩い光と炎を放っている焼夷弾を見て、神妙な面持ちになる。


「ここまでやるのかい」 


 木之下は黙って頷くしかなかった。


「君が遺跡の記事を書いた記者ですね。写真と感光材は持ってきて頂けましたか」


 刀根記者が鞄から出そうとすると、黍野大尉がその鞄を奪い取って炎の中に投げ込んだ。刀根記者は呆然となって焼けていく鞄を見詰めている。 


 黍野大尉は「班長、部屋は頂きますよ」と、兵舎に向かって悠然と歩き出した。


「わかりました! 部屋を片付けさせておきます」


 友永軍曹が大慌てで駆けていくのを見送って、刀根記者は大きく息を吐いた。


「あの男は此処に居座る気だね」

「どうしてでしょうか」


 木之下は不思議に思った。祠を完全に破壊して出土物もこの世から消失させた。それなのに此処に残る必要があるのだろうか。


「あの男は知っているのさ」 


 刀根記者が衣嚢から紙切れを出して渡してきた。没になった遺跡の記事だ。赤の斜線で消された見出しは〈新作戦の飛行場から女王卑弥呼の遺跡〉と書かれている。その下に小さな写真が貼られていた。木之下が四角いものを持って驚いている写真――金印を見付けた時の写真だった。


「もうセツ子ちゃんの所には行けないな」

「そうですね、暫くは忘れます」


 焼夷弾が今際の閃光を放ち、ようやく炎が消えた。

 

 試掘坑が埋め戻され、中飛行場の建設速度は驚くように上がっていった。


 一カ月ほどの間に、滑走路予定地にはびっしりと石が敷き詰められて、路盤が出来上がった。この路盤に琉球石灰岩を並べて、転圧機で押し固めると滑走路は完成だ。


 木之下は建設作業に没頭していた。否、没頭せざるを得なかった。黍野大尉に監視されていたからだ。作業をしていても、食事の時も、近くには必ず黍野大尉がいた。


 烈日が滑走路の路盤を焼いていた八月。揺ら揺らと立ち上る陽炎の中をセツ子が訪ねてきた。運んでいた石灰岩の塊を置いて木之下は辺りを見回した。黍野大尉が少し離れた滑走路の上でこちらを見ている。木之下は素早く小声で言った。


「どうしたんですか」

「随分と来てくれないから……。藤六さんや史達さんも心配しています」


 黍野大尉がゆっくりと近付いてきている。


「今は行けないのです」


 説明している時間は無い。セツ子の肩越しに、ふらふらと石灰岩を運んでいる自転車屋の倅がいた。


「おーい、自転車屋!」


 その呼び掛けに、自転車屋の倅が動きを止めてこちらを見た。


「この娘の自転車が壊れたそうなのです。見てやってくれませんか」


「了解しましたであります」と、石灰岩を置いてセツ子を手招きする。

 きょとんとしていたセツ子はすぐに察したらしく、黍野大尉を一瞥して手招きに応じた。


「おじさん、あっちに置いてあるの」

「おじさんちゃうで、お兄さんやで」


 セツ子が自転車の倅の手を引いて、大通りの方に走っていった。歩みを止めた黍野大尉がそれをじっと見詰めている。木之下は素知らぬ顔で作業に戻った。


 中飛行場が完成したのは、それから三週間経った九月の半ばだった。


 北東から南西へ長さ一・五粁、幅二百米突の滑走路が敷かれ、戦闘機や物資を隠しておく十二箇所の掩体壕と誘導路で繋げられている。北東端の斜面には防空壕が掘られ、滑走路の西側に新たに造られた兵舎の脇には、電波警戒機と、それを守るように八八式七糎野戦高射砲が設置された。


 十月十日。

 秋晴れの朝、滑走路の上には蜻蛉の群れが飛び交っていた。海からの風は暖かく、帝都東京で生まれ育った木之下は、まだ秋の到来を感じられずにいた。滑走路に立って歯を磨きながら、三国志に書かれていた邪馬台国の一節を思い出す。 


〈土地は温暖で冬も夏も生野菜を食べている。みな裸足である〉


 自分の足元を見てみる。……薄汚れた軍靴だった。

 飛行場建設が終わっても、沖縄防衛隊第三十二軍のひとつとして、掩体壕への弾薬の運び込みや、連合軍上陸に備えた戦闘訓練で、軍靴を磨く時間などなかったのだ。


 昨夜から那覇で軍上層部の会合があり、お偉方が留守にしていた。隣の読谷山村ゆんたんざそんに建設された北飛行場では宴会をしていたらしい。皆が久々の休暇気分だった。


 きょうは軍靴を磨こうか、と見詰めていたその足先に不意に裸足が現れた。


「古兵殿も今朝はのんびりでありますね」


 自転車屋の倅だった。


「たまにはいいものであります」


 自転車屋の倅は木之下の隣に並んで、滑走路の先できらきらと輝いている海を眺めて言った。


「まだ泳げそうでありますね。戦争やなくて遊びに来たかったであります」

「終わったら、また来ればいいじゃないですか」

「そうします。嫁さんを見付けて一緒に来るであります」


 自転車屋の倅は屈託のない笑みを浮かべ、「こんな日でも演習ですかね」と目を細める。その視線を追った。洋上に四つの機影があった。

 

 四機は旋回して進路をこちらに向ける。先頭の一機が急降下を始めると、残る三機もそれに続いた。濃紺のそのずんぐりとした胴体の下で扉が開く。あれは……連合軍の艦上爆撃機〈カーチスSB2Cヘルダイバー〉だ。


 木之下は咄嗟に辺りを見回した。滑走路北東端の防空壕と、東側に並んでいる掩体壕。此処からだと掩体壕のほうが近い。


「自転車屋! 掩体壕へ走れ!」 


 意味が分からず、「えっ?」と身を竦めた自転車屋の倅の手を引いて走る。


 ヘルダイバーはあっという間に滑走路上空に達して、二百五十 キロ爆弾を投下した。耳を劈く爆音とほぼ同時に、強烈な爆風が襲ってきた。自転車屋の倅と一緒に滑走路に叩き付けられる。爆撃で路盤まで粉砕されて、敷いていた石や土砂が降り注いだ。


 木之下の真上を先頭にいたヘルダイバーが唸りを上げて通り過ぎる。


 顔を上げると、続く二機目が爆弾を落とそうとしていた。同じように顔を上げていた自転車屋の倅の頭を押さえ付けて身を伏せた。


 兵舎から兵士たちが飛び出してくる。小銃で迎え撃とうとしている者や、右往左往しているだけの者で大混乱となった。

「敵機来襲! 敵機来襲!」何人もが叫んでいたが、二発目の爆音にかき消された。

 

 再びばらばらと土砂が降り注ぐ。頭上を通り過ぎる二機目のヘルダイバーが機銃掃射を始めた。高射砲や駐機している一式戦闘機――はやぶさに駆け寄る日本兵を狙っている。


 炸裂音を轟かせて高射砲が応戦を始めると、三機目と四機目のヘルダイバーは爆弾を落とさずに急上昇していった。


 僅かな隙が出来た。立ち上がって自転車屋の倅を引き起こし、掩体壕へ駆け込む。


 四機のヘルダイバーは大きく弧を描いて、再び滑走路を目指そうとしている。その背景に黒煙が上がっていた。読谷山村の北飛行場も爆撃されているのだ。


 二機の隼が迎撃のために動き出した。一機目が誘導路から滑走路に入り速度を上げる。山側から迫ってくるヘルダイバーが機銃掃射を始めた。弾丸がはぜて滑走路の表層を削る。二列の土煙が誘導路から出て来たばかりの二機目の隼に向かっていった。機体を貫通する鈍い音が響き、隼が炎を吹き出して黒煙を上げた。先に滑走路に出ていた一機目の隼は、辛くも機銃掃射を逃れて離陸した。


「よし! いけ!」自転車屋の倅が叫ぶ。


 その瞬間、上昇を始めた隼からも炎が吹き上がった。機体は失速したように空中で一時停止して墜落。滑走路に激突して爆発した。海側から新たに突入してきていた黒い戦闘機に攻撃されたのだ。破壊力の高い二十 ミリ機銃を装備した〈グラマンF6Fヘルキャット〉だ。


 木之下の目前でヘルキャットとヘルダイバーが、発動機の音を轟かせて交差した。


 これまでにない大きな爆発音がして、木之下と自転車屋の倅は掩体壕から顔を出した。後続してきた三機のヘルキャットが爆弾を落としていた。一番海側にあった掩体壕から黒煙が上がり、何度も爆発を繰り返している。掩体壕の中の弾薬が誘爆しているのだろう。三機のヘルキャットは翼の星印を誇示して急上昇していった。


「古兵殿、防空壕へ行きましょう」


 この掩体壕の中にも弾薬が山積みになっている。目の前の滑走路に爆弾が落とされれば無事では済まない。防空壕までは二百五十米突くらいか。


 木之下は空を見上げた。海側の四機のヘルダイバーは上昇の途中だ。ヘルキャットは山側で旋回を始めている。二百五十米突なら走りきれるかも知れない。


「行くぞ、全速力で走れ!」


 木之下は自転車屋の倅と、掩体壕を飛び出して滑走路を走った。全速力で走っている筈なのに、時間の流れがやけにゆっくりと感じる。


 あと百五十米突。ヘルキャットの機首がこちらを向いた。


 あと百米突。黒い機体が急降下して速度を上げる。


 あと五十米突。操縦士と目が合った。


 あと二十米突。両翼の機銃が火を噴いた。


「伏せろ!」


 木之下は滑走路に飛び込んだ。

 その両側で弾丸がはぜて土煙の列が背後に伸びていく。野獣の咆哮のような轟音を上げて、一機目のヘルキャットが頭上を通り過ぎた。伏せた脇の下から目をやると、突っ立っている自転車屋の倅の足が見えた。


「おい! 伏せろ!」


 動く気配が無い。自転車屋の倅には上半身が無かった。腹から上が遥か後方で、臓物を飛び散らせて転がっている。


「自転車屋!」木之下の叫びと同時に、一機目が滑走路の中ほどで爆弾を落とした。

 二機目と三機目のヘルキャットが頭上を過ぎ、爆弾が炸裂する音が響く。爆風がもう一度木之下を滑走路に叩き付けた。土砂と一緒に自転車屋の倅だった肉片が降ってきた。


 木之下の両脇で弾丸がはぜる音がして、四機目のヘルキャットが海へと向かっていき、それに入れ代わるようにして海側からヘルダイバーが迫ってきた。


 身体が竦んで動けなくなった。ヘルダイバーの操縦士が、こちらに照準を合わせたのが分かる。もう駄目だ。目をつむると、誰かに襟首を掴まれて防空壕に放り込まれた。友永軍曹だった。体を起こそうとすると爆音で防空壕が揺らいだ。余程近くで爆発したのか、入口前に建てられた爆風除けの丸太が大きく軋む。


 その丸太の隙間から友永軍曹が険しい顔で状況を覗いた。


「高射砲の奴らは何をやっている。一機も落とせないではないか」


 木之下はようやく立ち上がり、丸太に背中を預けた。


「ありがとうございます」

「礼などいらん。それよりも苦労して作った飛行場が無茶苦茶だ。このままではあの新兵も浮かばれん。すぐに補修しないとならん」


 丸太の隙間から滑走路を見た。黒煙で海までは見通せなかったが、路面が大きく抉られている場所が幾つもあって、飛行機どころか人が走るのも大変な状況だ。


「これで空襲は終わりでしょうか」

「まずは飛行場を叩いた。次は港か町かってところだろうな」

「それでは無差別攻撃ではないですか!」


 木之下は防空壕を飛び出して、黒煙が立ち上る空を仰いだ。ヘルキャットの編隊が旋回している。セツ子の集落へ向かおうとしていた。


「ノロ!」木之下は駆け出した。


 大通りに出ると、ヘルキャットの編隊が高度を上げて爆弾を投下するのが見えた。その爆弾は上空で炸裂して、辺り一帯に火の雨を降らせた。焼夷弾だ。


 セツ子の集落からも黒煙が立ち上がっている。


 大通りで逃げ惑っている人たちを掻き分けて集落の路地に入った。熱風が吹き荒れていて、生魚を焼いたような臭気が立ち込めている。石塀の向こうに、炎に包まれているセツ子の家が見えた。


「ノロ! セツ子さん!」


 石塀を回り込むと、燃え盛るノロ殿内の前に、泣きじゃくるセツ子がいた。藤六が必死の形相で、中に入ろうとしているセツ子を引き留めている。その横で煤だらけの史達が、弾薬箱を持って炎の中を見詰めていた。


「ノロ、逃げましょう! あれはもう駄目です!」藤六が怒鳴った。

「守るって約束したの!」セツ子は聞く耳を持たずに叫ぶ。


 木之下は駆け寄って、諭すようにセツ子に言った。


「何をしているのです、早く逃げなさい」


 セツ子が木之下に気付いて、しがみついてきた。 


「金印がまだ中にあるの。私が守るって言ったのに」

 

 焼夷弾がノロ殿内の神棚を直撃していた。閃光を放つ焼夷弾の脇に金印が転がっている。すでに融点を超えて溶け始めていた。


「命のほうが大事です。逃げましょう」


 首を振るセツ子を、木之下は屈んで抱き締めた。


「なるほど。金印は此処にあったのですね」 


 石塀の横に、二式拳銃を構えた黍野大尉が立っていた。


「残りはその弾薬箱の中ですね。それも炎の中に戻してもらいましょうか」


 史達が弾薬箱を抱えて身構える。


 ……束の間の沈黙。


 燃えた柱がばちっと爆ぜて火の粉が舞った。


「さあ早く。皆焼け死んでしまいますよ」 


 ヘルキャットが爆音を轟かせて頭上をかすめていった。黍野大尉が気を取られる。その隙に、藤六がノロ殿内の脇にあった十字鍬を手にした。


「ノロ、逃げてください。此処は何とかします」

「馬鹿なことはやめたまえ」


 黍野大尉は拳銃を銃嚢ホルスターに仕舞って、拳闘士のように拳を上げて構えた。


「暴力は性に合いませんが、我々はそれなりの訓練は受けていますよ」


 藤六は十字鍬を振りかぶり、「ノロ、早く!」と叫んで黍野大尉に襲い掛かった。

「走れるかい」セツ子の手を握ると強く握り返してくる。


 黍野大尉は藤六の一撃を紙一重で躱して、その脇腹に肘を打ち付けた。藤六はよろめいて体を反転させ、倒れながらも十字鍬で黍野大尉の足元を薙ぎ払う。


 体制を崩した黍野大尉は、腰にかけていた鉤縄を史達の持っていた弾薬箱に投げて正確にそれに引っかけると、転がる勢いで力まかせに引き寄せた。弾薬箱は史達の手を離れて地面に落ち、蓋が開いて中身が散らばった。


 セツ子が木之下の手を振り解き、散乱している出土物を拾いに戻る。


 再び火の雨が降ってきた。焼夷弾が路地に落ちて石塀を焼き始める。


「セツ子さん、それはいいから早く」


 あの四角い鏡のような出土物をセツ子が拾い上げた。


 いち早く体勢を立て直した黍野大尉が、立ち上がろうとしていた藤六を蹴り上げる。藤六はもんどりを打って、燃え盛る母屋に向かい転がった。


 史達がセツ子の背中を押して木之下の方へ追いやり、鉤縄を巻き取りながら近付いてくる黍野大尉に弾薬箱を投げ付けた。その瞬間、焼夷弾が史達の目の前に落ちた。散らばっている出土物もろとも史達が炎に包まれる。


 振り返ろうとするセツ子の目を手で塞いで、木之下は「見るな」と抱き寄せた。


「あとはそれだけですね」


 セツ子が手にしている出土物を指差して、黍野大尉が怪訝そうな表情になった。


「それは何ですか。これまで見たことがありませんね」


 手を伸ばそうとする黍野大尉の背後から声がした。


「お前の相手はこっちだ」


 黍野大尉が舌打ちして振り返ると、すぐ後ろに十字鍬を構えた藤六が立っていた。すかさず藤六は十字鍬を振り下ろす。黍野大尉は俊敏に跳躍してその攻撃を躱し、脇腹を殴ろうとした。藤六が十字鍬を離してその拳を掴む。  


「二度も同じ手を食うか!」


 藤六が黍野大尉の足を払って引き倒し、馬乗りになった。


 木之下はセツ子から出土物を受け取って胸の衣嚢に押し込み、その手を握ると路地に飛び出した。熱気の壁に阻まれて一瞬足が止まる。


 黍野大尉が藤六を蹴り飛ばして掴み掛かろうとしていた。木之下は寸刻助けに戻るか迷ったが、灼熱の中に駆け出した。 


 がらがらと音を立てて母屋が崩れ、大量の火の粉が巻き上がった。


 何処をどう走ったかは覚えていない。夢中で走っているうちに砂浜に出た。空にはまだ連合軍の戦闘機が飛び交っている。空襲は続いているようだ。


 小さな木陰に身を隠し、セツ子を抱き寄せる。これからどうするか、ようやくそれを考える余裕が出来たが、答えは出なかった。


 敵前逃亡と、上官への反逆……。ただ一つ分かっていたのは、もう部隊には戻れないということだった。

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