第二章 邪馬台国 1
昭和十九年六月、沖縄本島北谷村。
開け放たれたままの扉の外では、さとうきび畑から立ち昇る幾筋もの黒煙が曇天の空に墨染めの文様を描いている。松明を手にした褌姿の浅黒い農民たちが陸軍の若い兵士に急かされて、身の丈ほどに育ったさとうきびに次々と火を放っていた。
彼らは突然の通達で強制的に畑を接収され、身を削る思いで育てた収穫物を自ら処分させられているのだ。沸騰した樹液が茎を引き裂いて甘い匂いを撒き散らす度に、日焼けした農民たちの顔が苦痛に歪んでいた。
木之下は溜息交じりに、顔に付いている煤を手拭いで払い落とした。軍服を脱ごうとして
まだ火の手の及んでいない畑の一角で降り注ぐ灰を浴びながら、集落の子どもたちが我先にと若い茎に齧りついていた。物資の困窮する中で糖類の原材料は貴重ではあった。しかし広大なさとうきび畑を刈り取っている余裕などなかったのだ。
いま大日本帝国は存亡の危機に立たされている。
マリアナ諸島での連合国との戦いが激化し、大本営が掲げた絶対国防圏の構想は崩れ去りつつあった。来るべき航空決戦に向けて、陸軍本部は沖縄を不沈空母に見立て、大急ぎで各所に飛行場を造っているのだ。
北谷村では満州からやって来た第五〇飛行場大隊を中心に、
中飛行場の建設予定地は、南西の海に向けて開いているコの字型の丘陵地帯に囲まれていて、北側のなだらかな斜面に隊員や人夫のための板葺きの兵舎が建てられている。そこから沖縄特有の赤土が十万坪以上も剥き出しになっている光景が一望できた。
……ついこの間までは土を掘るのが楽しくて仕方がなかったのに、と木之下は思う。飛行場大隊に配属されて七カ月。学徒動員された去年まで同じ土を掘る作業をしていたのだが、それは発掘という考古学の調査だった。
追憶の中で工事現場を眺めていると、「古兵殿」と新兵が短く敬礼して入ってきた。真新しい軍服の襟首が汗でふやけている。この新兵は確か……大阪の自転車屋の
「どうしました」
「農民がけったいなことを言うとるのであります」
陸軍の話し方に慣れていない姿が微笑ましい。
「古兵殿が遺跡にお詳しいと聞きましたので。来て頂きたいのであります」
「遺跡が出たのですか」
「よう分かりません、農民らはイベや言うとります」
「イベ? それは……」
脱ぎかけていた軍服を整えて兵舎を出ると、熱気に包まれて言葉が途切れた。自転車屋の倅が黒煙の向こうを指差す。
「ウタキがどうとかと」
「ウタキとは沖縄の聖地のことですよ」
同じ日本でありながら、沖縄の信仰は本土のそれとは大きく違っている。国の成り立ちで地方の権力者を神々として体系化し、天皇をその神の子孫と位置付けた古代日本は、鎮護国家を目指して社会基盤に仏教の思想も取り入れた。
神と仏は密接に絡み合い、ほぼ同じものとして国家ぐるみの信仰の対象になった。神仏習合である。明治時代にようやくその二つは分離されたが、共に本来の姿は失われてしまった。
一方、江戸時代の薩摩藩侵攻を経て日本となった沖縄には、天皇が神の子孫となる遥か以前の原始宗教が残っている。土着の神々や、かつての権力者が信仰の対象のままなのだ。ウタキとはそうした神々を迎える場所であり権力者が眠る場所でもある。そのウタキの中心に置かれる目印の石をイベという。
早足で十五分、集まっている農民たちの様子が確認できた。自転車屋の倅が「あっ」と声を上げて走り始める。農民のひとりを兵卒が突き飛ばしたのだ。
「早くその石をどけろ!」
兵卒の怒鳴り声が聞こえてきた。
自転車屋の倅が取り成そうとして、農民と兵卒の間に割って入る。
「やめなさい!」そう叫んで木之下は走った。
近くまで来て分かったのだが、農民たちは赤土に埋まっている畳一畳ほどの平坦な石を守るように取り囲んでいた。
それに相対して怒鳴っている兵卒の胸を自転車屋の倅が押し止めている。怒鳴っている兵卒もこの春にやって来た新兵だった。
「報告!」
木之下が前に立つと、怒鳴っていた新兵が敬礼をして話し始めた。
「その石が出た途端に騒ぎ出して、勝手に作業を止めてしまったのであります」
「それで?」
「神聖な石だと、触ってはダメだと言って急に怖がって……」
木之下は振り返って農民たちが囲んでいる石に近付いた。警戒したように褌姿の男たちが身を寄せ合う。
石の縁の土を手で払った。まだ大半が埋まっているようだ。かなり大きい。
「なぜイベだと?」
木之下の問い掛けに農民たちは身構えたが、「くぬ辺りんかいや……」とひとりが口を開くと、其々が思い思いに沖縄の言葉で話し始めた。
農民たちが言うには、この辺りの土地にはこんな大きな石はない。何処からか持ってくるしかない。わざわざ持ってくるということはイベに違いない、ということだった。
「確かにそうですね」
木之下は腰を上げて新兵を諭すように言った。
「軽々しく信仰を踏み躙るべきではありません。少し調べてみましょう」
続けて農民たちに「よろしいですね」と確認する。
「飛行場建設に係わっていない人を十人ほど用意してください。作業は夜十時から始めます」
農民たちは互いに顔を見合わせて「おう」と応えた。
心配そうに成り行きを見ていた自転車屋の倅に、木之下は「班長殿に相談してみます」と耳打ちした。
班長の
このウタキの話をすれば、「掘ってみろ」というのは間違いない。
幸いにも木之下たちが担当する滑走路南端は計画よりも進んでいた。それでも許可を貰えなければ、「農民たちが暴動でも起こしたら、それこそ計画に支障がでます」と進言するつもりだ。
友永軍曹は同じ兵舎に寝泊まりしてはいるが、大部屋で雑魚寝の木之下たちとは違って個室を与えられていた。部屋の前に立って「木之下です」と名乗り、「入れ」と声が聞こえるのを待って扉を開けた。
「入ります」
友永軍曹はその堂々たる恰幅に不釣り合いな小さな寝台に胡坐をかいて、
思いもかけず部外者がいて要件を言い淀んでいると、友永軍曹は察したらしく言った。
「なんだ? こいつか? 気にせんでいい。建設現場を取材に来た、ただの新聞記者だ」
「ただの、とはあんまりだなあ」
男は空笑いしてもう一度木之下に向き直り、「読売報知の刀根です」と、寝台の上に置いてあった写真機を少し持ち上げた。
「木之下です」こちらも短く名乗って本題に入る。
「滑走路予定地の南端で遺跡が出ました。調査の許可を頂けませんでしょうか」
思った通りに友永軍曹は興味を示し、「おお」と身を乗り出したのだが、新聞記者のほうがより興味を持ったようだ。
刀根記者は将棋盤をひっくり返して立ち上がり、木之下に歩み寄った。
「沖縄に遺跡だって? それは面白い。琉球王朝なのかな」
「掘ってみなければ何とも言えません」
散らばった将棋の駒を集めながら、「おお掘れ、掘れ。南側なら計画にも余裕がある」と友永軍曹が盛り立てる。
「計画に支障がないように、夜中にやるつもりです」
木之下が言い終わらないうちに刀根記者が割り込んだ。
「取材させてもらいますよ」
友永軍曹は「許可する」とあしらって、木之下に「いつからだ?」と訊いた。
「今晩十時から始めるつもりです」
「人足はどうする? 部隊の人員は割けんぞ」
友永軍曹は将棋盤に歩兵駒を並べ直し始めていた。訊きはしたが、あとはうまくやれということなのだろう。
「村の人に頼んでいます」
「分かった。行ってよし」
木之下は敬礼して踵を返した。
夜十時。滑走路予定地が満天の星に照らされて、剥き出しの赤土を浮き立たせていた。随分先に幾つか小さな橙色の灯りが揺らいでいる。篝火だろう。あの石――イベが見付かった場所だ。木之下は二本の円匙を担いで灯りを目指した。
跡を追う刀根記者が「これだけ星が出ていると明るいなあ」と手提げ電灯を消す。
「戦場の取材をしていて遺跡が出たなんて初めてだよ。よくあるのかい」
「いえ、私も初めてです」
「木之下くんは遺跡とかに詳しいのかな」
「史前学研究所にいたものですから」
「史前学って、あの
木之下は歩みを止めて、刀根記者に振り返った。
「御存知なのですか」
「有名人と言えば有名人だからね」
大山柏先生は宝探しなどと馬鹿にされていた日本の遺跡調査に、ドイツのベルリン大学で学んだ最新の発掘手法を取り入れて、この国の考古学の基礎を築いた人物だ。貴族院議員でありながら慶應義塾大学で講師をしていて、考古学を学びたい者たちにとっては憧れの存在だった。木之下もその講義を受けたい一心で慶應義塾大学に入ったのだ。
大山邸に開設されていた史前学研究所に出入りするようになって、相模原の発掘調査に参加した時には、住居跡や石器など新たな発見の連続に毎日興奮したものだ。大山先生はこの沖縄でも貝塚の調査で
新聞記者ならそうした情報は持っているのだろうと思った。だが刀根記者が有名人と言ったのは全く違う意味だった。
「君は去年の学徒出陣だから知らないだろうけど、大山柏は根室に飛ばされたよ。貴族院議員で招集されたのは大山ひとりだけだ。まあこんな御時勢だから、考古学やら歴史学なんて皇国史観に染まった軍部にしてみれば敵みたいなもんさ」
「そうですか、先生が根室に……」
木之下が弱弱しい声を発したので、元気付けるためなのか刀根記者は続けた。
「僕らも検閲で相当やられているんだぜ。何かというと初代天皇神武の即位から今年で二千六百何年って、そんな記事をどれだけ書かされてきたか。古事記だか日本書紀だか知らないけど二千六百年前って、まだ石器時代か、縄文時代か、日本なんて国なかっただろ」
そこまで言って刀根記者は「あっ」と言葉を切った。木之下の顔をそっと窺いながら「此処だけの話にしておいて」と、その整った眉の尻を下げる。
「私は大丈夫ですよ。仮にも考古学者を目指した身ですから」
刀根記者がほっとしたような顔をしたので、再び歩き出す。
「日本書紀ですよ」
突然話し始めたからなのか、刀根記者は「え?」と戸惑ったが、すぐに神武天皇の話だと理解したようで、「ああ日本書紀か」と繰り返した。
「
篝火に照らされた男たちの姿が見えてきた。十人どころではない。三十人あまりの浅黒く逞しい体つきの男たちが褌姿でずらりと並んでいる。円匙や十字鍬を担いだその腕や身体には、三角形や楕円などを組み合わせた幾何学文様の入れ墨があった。
「日本の時代区分では縄文時代になります」
刀根記者との会話を終わらせて、木之下は入れ墨の男たちに「お待たせしました」と声を掛けた。
男たちは眼光鋭くこちらを睨み付け、誰ひとり返答をする者はいない。
「大丈夫なのかい」と、刀根記者が不安そうな声を漏らす。
「さあ、どうでしょうか」
何と言葉を続ければいいか迷っていると、男たちの間から白装束の少女が姿を現した。頭に草の葉を結わえた白い鉢巻きをして、大きな扇子を持ち、勾玉のようなものが付いた首飾りを掛けている。見たこともない細長い不思議な形の勾玉だった。
「まずは私が
あどけない顔は十三、四歳に見えたのだが、その口調は堂々たるものだった。
「ウタキには私たちの祖先やお迎えした神々がいらっしゃいます。調査でお騒がせする前に別の場所に移って頂かなければなりません」
「お待ちします」木之下は丁寧に頭を下げた。
入れ墨男のひとりが「ノロ」と呼び掛け、少女に白磁の瓶子と香炉を手渡す。
ノロとは沖縄の神官のことだ。原始宗教が色濃く残る沖縄には、豊穣を願い災厄を払うノロが其々の地域にいて、祖先や神々とのやりとりを取り仕切っている。神々に最も近い存在。それはつまり、その地域の最高権力者を意味する。ノロは全て女性だと聞いたことがあるが、この少女がこの辺りを統轄しているのだろうか。
少女は瓶子と香炉を石の上に置き、険しい眼差しで足踏みをしながら手を打ち鳴らした。本土の柏手よりもずっと速くて拍手のようだ。小声で祝詞のような言葉を発しているが、沖縄の言葉とも少し違う特殊な言語のようで、日本語なのかすら判別がつかない。
破裂音がして、一瞬強烈な光が辺りの風景を切り裂いた。刀根記者が写真を撮ったのだ。少女がちらりと睨んだのだが、刀根記者は閃光電球の交換に夢中で気付かなかったようだ。刀根記者がその電球を交換し終わる頃には、少女の儀式も終わった。
少女が木之下の傍らまで来て耳元で囁く。
「これでみんなも納得したと思います。もう始めてもらってもいいですよ」
儀式の時とは打って変わって、少女の眼になっていた。早々に帰ろうとする少女を木之下は呼び止めた。
「ノロ、あなたは、これがウタキだと知っていたのですか」
少女は首を横に振る。
「もしウタキだとしても、すでに失われていたものです。どなたをお祀りしているのか誰も知りません。ですが儀式をやらないとみんな調査に協力してくれませんから」
「ありがとうございます」
「
セツ子は瓶子と香炉を拾い、入れ墨男たちに「あとはよしなに」と去っていった。
それからの作業は順調すぎるほど順調だった。男たちが土を掘る速度は驚異的に早く、イベと呼ばれていた巨大な石が全貌を現すまで十五分と掛からなかった。
畳を二つ縦に並べたほどの大きさで、厚さが
刀根記者から手提げ電灯を借りて、周囲を手で掘りながら確認していくと、この石を支えるように下に石が組まれていることが分かってきた。その手が東側でずぼりと石の下に抜けた。空間があるようだ。手提げ電灯で照らしてみたが中の様子は分からなかった。
「この石は
木之下が興奮して円匙を手に取ると、先ほどノロに香炉や瓶子を渡した入れ墨の男が、それを手で制した。刀根記者が不満の声を上げる。
「なんだい、これで終わりなのかい。これからが面白くなるのに」
「お前たちは指示をしていればいい。俺たちが掘る」
余所者には神聖な場所に触れて欲しくない、ということだろうか。
「わかりました」
木之下は石を囲み込むように、円匙で一辺が
「この線の内側を、石が全て露出する深さまで掘りましょう」
指示を聞くや否や、男たちは無言で掘り始めた。刀根記者が興味深そうに尋ねてくる。
「さっき祠だと言っていたね」
「はい。明らかに人工物です。石が組み上げられているので祠だと推測しました」
「いつの時代のものなのか分かるのかい」
「それは様々なことを考慮しなければなりません。なぜ土に埋まっているのか。どうやって埋まったのか」
刀根記者は何やら手帳に書き留めている。取材というやつだろう。
「石を組み上げた構造物なので重いですから、年月を重ねるうちに雨で土が浸食されて自然に沈んでいくこともありますし、地盤沈下したところに土が降り積もって埋もれる場合もあります」
「いくら何でも土は降らないだろう」
「降りますよ。火山灰とか、大陸から風に乗ってくるとか、この辺りの地面は細かく砕かれた珊瑚の化石が風で飛ばされてきて出来たものです」
「そうなのかい。それで、それは何年くらい掛かるものなんだい」
「それは何百年とか何千年とか条件によって変わります。人が畑にするために埋めるということもありますし」
「いつの時代の遺跡かは、すぐには分からないか」
刀根記者があまりにも残念そうに言うので、木之下は付け加えた。
「ただ、一緒に何か出れば分かることもあります」
「何かって、何だい?」
「例えば土器とか、腕輪とか、それで大体の年代を推測するのです」
「なるほどね。何か出るかな」
「信仰の対象が神なのか当時の権力者なのか分かりませんが、供物の入れ物や副葬品がある可能性は高いと思います」
「それは楽しみだ」
刀根記者が鉛筆を舐めた。
「ときに木之下くんは、どうして考古学者になろうと思ったのかな」
「父の影響です」
「父上殿も考古学者なのかい」
「いえ、父は左官屋です。その父が、私が生まれた日の話ばかりするものですから、私もその気になってしまいました。私が生まれたのは大正十年の十一月四日なのです。その日は大事件があって……」
刀根記者が「ちょっと待って」と、木之下の言葉を止めた。
「面白い。少し考えさせてもらないかな。……大正十年の十一月四日の大事件?」
謎謎を解く少年のような顔になって、刀根記者は満天の星空を仰いだ。つられて木之下も星を見上げる。一筋の流星が走った。
暫くして刀根記者が「分かったよ」と、顔を近付けてきた。
「
「はい。正解ですが、間違いです」
「どういうことなんだい」
「その日は世界的な大事件がもうひとつ起こっているのです。
「ツタンカーメンというのは、黄金に包まれていた、あの少年王のことかい」
「そうです。父は事ある毎に、〈お前は大発見の日に生まれたから、お前も必ず何か大発見をする〉と、私に言い続けました。それに炊き付けられて考古学の道を目指したのです」
刀根記者は実に愉快そうに笑った。
「いいじゃないか。世紀の大発見の日に生まれた木之下くんが、沖縄の誰も知らなかった遺跡を発掘する。これは期待できるぞ」
刀根記者が「さあ」と一歩前に踏み出した。
五米突四方の土が胸あたりの深さまで取り除かれて試掘坑が出来ている。崩れた石祠がすっかり露わになっていた。天板を支えていた北側と南側の石は砕けているのだが、西側の板石は原型を留めていて、その上に天板が乗るように拉げている。まるで海に向かって押し倒されたようだった。
木之下は星明かりを反射してちらちらと波頭が瞬いている海を見た。
「地滑りがあったようですね。かつてはもう少し海側にも陸地が延びていたのではないでしょうか」
刀根記者は写真を撮るのに夢中のようで聞いていなかった。
破裂音がして閃光が浮かび上がらせた光景に木之下は息を呑んだ。石祠の周囲には規則的に並べられた石畳がびっしりと敷かれていたのだ。これはただの祠ではない。余程の権力者か、最高神が祀られている。木之下はそう直感した。
手提げ電灯を手にして試掘坑に飛び込むと、思わずよろけて天板に手をついた。海側がかなり落ち込んでいて石畳ごと傾いている。
「大丈夫かい」
頭の上から刀根記者の声がしたが構わずに、膝を突いて天板の下の空間を覗き込んだ。先ほど手を突っ込んだ空間だ。崩れた石祠にはまだ土が詰まっている。両脇から土に手を突っ込んで真ん中に向けてゆっくりと中を探っていくと、指先が固いものに当たった。その感触をなぞりながら大きさを確認する。幅一・五米突、高さと奥行きが九十糎ほどの箱状のものだ。祠の中の土は踏み固められてなかったので簡単に掻き出せた。
「何かあったんだね」
刀根記者が試掘坑に飛び込んできて、傾斜に足を取られ派手にひっくり返った。だが、さすがは新聞記者だ。写真機を壊さないように抱えている。
「お怪我はありませんか」
「随分と傾いているのだね」
刀根記者が立ち上がって
「閃光電球が全部割れてしまったよ。あと一枚しか撮れない」
「地滑りで落ち込んだのでしょう。この遺跡が大きなものなら一部は海に沈んでいるのかも知れませんね」
「海の中に遺跡があるだって? そんな馬鹿なことあるものかい」刀根記者は笑った。 土の中から姿を現している石の箱を見付けて、「それだね」と訊いてくる。
試掘坑を掘ってくれた入れ墨の男たちも興味深そうに覗き込んでいた。
木之下は黙って頷いて石箱の蓋に指をかけた。皆の視線を感じながら力一杯に引く。ゴトンと鈍い音を立てて蓋が石畳の上に転がった。手提げ電灯をかざして箱の中を覗き込む。
柄に蛇の飾りが付いた一・二米突ほどの錆びた鉄剣が二本と、緑青を吹いている銅鏡が三十数枚、大量の勾玉と貝殻で作られた腕輪が並べられていた。そしてその中央に、腐食を寄せ付けずに輝きを放っている三糎角の金色の塊があった。
「金だね」刀根記者が嬉しそうな声を上げた。
「金ですね」木之下は引き攣った声で答え、その金の塊を手に取った。
三糎角の立方体の上に蛇のような装飾がされた突起がある。
手の震えが止まらなかった。まさか、そんなことは……。
「これは金印です」声も震えていた。
事が重大過ぎて、そこに刻まれている文字を確認するのが躊躇われた。
刀根記者が写真機を構えている。
大きく息を吸い、意を決して金印に刻まれている文字を見た。
〈
……言葉を失った。
閃光と共にその光景を写真に収めた刀根記者が、不思議そうにこちらを見ている。
「どうしたんだい。急に難しい顔をして」
「大変なことになりました」泣き出しそうだった。
「おいおい、落ち着いて説明してくれよ。記事にならないじゃないか」
「……卑弥呼です」
「なんだって?」
消え入るような声に刀根記者が大声で訊き返してくる。
「これは卑弥呼を祀る祠です。此処が、沖縄があの邪馬台国だったのです」
出来る限りの大声を絞り出した。叫びに近かったと思う。
刀根記者に金印の文字を見せて一気にまくし立てた。
「親魏倭王。これは魏の皇帝が邪馬台国の女王卑弥呼に下賜した金印です」
「そいつはすごい、ことなのだね?」
刀根記者はよく分かっていないようだった。
邪馬台国があった場所は、江戸時代に本居宣長が九州説、新井白石が畿内説を主張して以来、そのどちらかということで論争が続いている。邪馬台国に言及している三国志東夷伝倭人の条には、魏の領土から邪馬台国までの距離や方角がちゃんと記されているのだが、そのまま読むと九州の遥か南方の海上になってしまうのだ。そこで九州説では距離を短く、畿内説では南北の方向を東西に読み替えた。
どちらにせよ日本の成り立ちに関わるような重大な矛盾とはならない。畿内ならば初代神武天皇が奈良の橿原の宮で即位した日本書紀の記述との整合性があるし、九州だったとしても、古事記に描かれている高千穂から東征した神武天皇の神話と符合する。しかし邪馬台国が記述通りに九州の遥か南の海上――沖縄だった場合、大和政権と古代日本を支配していた邪馬台国は全く別物ということになりかねないのだ。それは天皇を権威付けている神々の系譜が崩れるということだ。
木之下は敢えて大袈裟に言った。
「大日本帝国の歴史がひっくり返ります」
刀根記者は感心したように、「面白い」と言って、金印をまじまじと見詰めた。
「とにかく、これを兵舎に置いておくわけにはいきません」
木之下は二人のやりとりを心配そうに覗き込んでいる男たちを見上げた。
「作業を中断します。ノロを呼んで来てください。あと頑丈な箱も持ってきて頂けますか」
一時間ほどして、腰丈の
「ノロ……セツ子さん」そっと呼び掛ける。
セツ子は眠そうに目を擦りながら「はい」と答えて男の背中から降りた。白装束を着ていた時とはまるで別人のように純朴そうな少女だった。
「お願いごとがあります」木之下は試掘坑の中の祠を指差す。
「大きな祠。やっぱりウタキだったのですね」
「そのようです」祠の脇に飛び下りた。
振り返ってセツ子に手を貸そうとしたが、彼女もぴょんと跳び下りてきた。傾斜に少しよろめいて、すぐに姿勢を立て直す。
「お願いごとって何ですか」
木之下は手招きしてセツ子に石箱の中を見せた。
「お宝ですね」
眼をきらきらさせたセツ子の子供らしい反応に頬が緩む。
「そうです。この国の宝です。これを預かって頂けませんか」
箱の中を見詰めてセツ子は考えている様子だった。
「兵舎では敵の攻撃を受ける可能性が高いですから」
セツ子は、はっと木之下を見て「沖縄が戦場になるのですか」と怯えた声を出した。軽はずみなことを言ってしまった。セツ子の不安を取り除こうとして、出来る限り優しく語り掛ける。
「もしそうなれば、という可能性の話です。それに此処は間もなく飛行場建設で埋め戻されます。本格的な調査は戦争が終わって、平和になって、この土地が皆の元に戻ってから改めないと出来ないでしょ。去年静岡でも
セツ子は黙って頷いた。短い沈黙を、刀根記者の「箱が来たぜ」という声が破った。
「確かに頑丈だけど、こんな箱、何処から持ってきたんだい」
刀根記者が試掘坑に降ろしてきたのは軍の弾薬箱だった。
木之下は男たちに礼を言って、石箱の中の鉄剣や勾玉を種類ごとに移し替えていった。銅鏡に手を掛けた時、見たこともないものが混じっているのに気付いた。
普通の銅鏡は円形で鏡面以外には装飾が施されている。だが、それには装飾がなかった。薄い長方形で短辺は七糎ほど長辺は十五糎と、銅鏡と比べてかなり小さい。手に持つと思ったより軽かった。腐食が進んでいるようだが鏡面はつるつると滑らかで硝子のようだ。裏返すと小さな
最後に金印を丁寧に
ひとりで持ち上げようとしたが上がらなかった。それを見兼ねたように、二人の入れ墨男が下りてきて軽々と弾薬箱を外に出し、男のひとりはセツ子を抱えて上がっていった。
試掘坑から出ると、弾薬箱とセツ子が荷車に載せられていた。
「家まで送っていきます」
言い終わらないうちに、男たちは無言で荷車を引いて歩き始めた。
それから木之下と刀根記者はセツ子の質問攻めにあった。
東京のことや遺跡のこと……。セツ子の好奇心は留まることを知らなかった。
刀根記者が日本各地で行ってきた取材の体験を面白可笑しく話すと、セツ子はころころとよく笑った。行列を成したこの屈強な男たちを従えている権力者にはとてもじゃないが見えない。
三十分も話しているとセツ子は気持ちよさそうに眠り始めた。
満天の星空に幾つもの流星が走っていた。
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