第一章 亜米利加 3

 ホテル〈SHOGUN INN〉のロビーが張り詰めた空気に包まれた。


 目をやると、濃紺の軍服に幾つも勲章を付けた五十代半ばの男がエントランスで答礼をしていた。威厳に満ちたスマートな紳士だ。


 刀根が立ったので、つられて立ち上がる。


「クレメンズ准将」


 刀根が両手を広げて呼び掛けると、軍服姿の紳士は破顔して刀根に近付き、「マリ」と言ってハグをした。刀根が増渕を引き寄せて紳士に紹介する。

 

「こちらが例の増渕くん。今朝、東京から来てもらったわ」

「クレメンズです。嘉手納基地へようこそ」


 紳士が流暢な日本語で握手を求めてくる。

 差し出された右手を増渕は両手で掴んだ。


「ま、増渕です。初めまして。この度は御依頼ありがとうございます」


 クレメンズは微笑みを浮かべて大きく頷き、増渕の指をゆっくりと剥がしていく。その背後からブーンという振動音の混じった抑揚のない声が聞こえた。


「オマタセ、シマシタ」


 完全に手を剥がされて、増渕は照れ笑いを浮かべながら声の主を覗き込んだ。


 麻のスーツを着熟した矍鑠とした老紳士が車椅子に座っていた。年齢は九十を超えているだろうか。喉に生地の良さそうなスカーフを巻いて、そこへ手に持った懐中電灯のような機械を当てている。人工声帯だ。

 咽頭を失った人の会話を補助するための機械で、喉から振動を伝えて口腔の形で声に変える。古い形式なのだろう、振動が一定で感情を表すような抑揚のある発音が出来ていない。


 薄い水色の制服を着た若い兵士に車椅子を押され、老紳士はクレメンズと並んだ。 


「マスブチサンデスネ。キノシタデス」


 握手をしようとして増渕が手を差し出した。そこにタイミング悪くクレメンズが全員に座るように促したので、増渕は手を上げたままの格好でソファに腰を下ろした。挨拶のタイミングを失っておろおろしている増渕を一瞥して、刀根が口火を切る。


「木之下さん、彼はまだ何も知らないわ。言っても信じないと思ったから」


 木之下と呼ばれたその老紳士が刀根を見て優しく頷く。一瞬会話が途切れたので、すかさず割り込んだ。


「壊れたスマホからデータを取り出す作業だと聞いています」


 木之下はこちらにも優しく頷いて、車椅子を押していた若い兵士に、指でくいくいと合図を送る。


「ヒャクブンハ、イッケンニシカズ、デス」 


 若い兵士が車椅子の座面下に取り付けていたアルミ製のアタッシェケースを外し、丁寧にテーブルに置いた。木之下がダイヤル式のロックを解錠して開き、くるりとこちらに向ける。


 アタッシェケースの中には低反発性のウレタン緩衝材が詰まっていて、中央の長方形に刳り抜かれた部分に、問題のスマートフォンが嵌め込まれていた。


 けれど……本当にこれが今度発売されるスマートフォンの試作品なのか? フレームは完全に錆びて、オレンジ色や白色の固形物があちこちにこびり付いていた。ディスプレイには大きなひび割れは無いけれど、ガラス基板に挟まれている液晶が抜けてしまっていて、光沢のない銅板のようになっている。オレンジ色の付着物は漏れ出した液晶が固まったものなのかも知れない。白い付着物は内部のリチウムイオンバッテリーの電解液が外に溢れ出して結晶化したのだろう。


 いずれにしても壊れて数年程度ではこんな状態にならない。これではまるで何十年も土に埋めていたみたいではないか。奇妙なスマートフォンをまじまじと見詰めていると、振動音と抑揚のない声が響いた。


「シチジュウヨネンマエデス」

「七十四年?」


 増渕は顔を上げて木之下を見た。木之下がまた優しく頷いて言葉を続ける。


「ソノ、スマートフォンハ、シチジュウヨネンマエ、ワタシガミツケタノデス」

「そんな馬鹿な……」 


 七十四年前なんてスマートフォンどころか携帯電話すらないじゃないか。考えあぐねていると、思いもしなかったことをクレメンズが言った。


「我々は、そのスマートフォンが時間を逆行したと考えています」


 クレメンズは大真面目な顔でこちらを見据えている。


「つまり、タイムスリップしたと?」 


 行き場のない増渕の思考を断ち切るように、刀根がスマートフォンのカタログをテーブルに置いた。大きく赤丸が付けられた、昨日見せてくれた頁が開かれている。 


「コノカタログヲミテ、オドロキマシタ」 


 木之下に促されて、アタッシェケースからスマートフォンを取り出す。裏返すと白い結晶に埋もれて三つのレンズが並んでいた。中央部にはメーカーのロゴも薄っすらと確認できる。確かにカタログの赤丸が付けられている機種と同じに見えた。


「ワタシガ、イキテイルアイダデ、ヨカッタ」


 俄には信じがたい話ではあるけれど、彼らがここまでして騙す理由もないだろう。いったい何に巻き込まれようとしているのか。錆び付いた塊を見詰めながら誰に言うでもなく呟いた。


「時間を逆行するなんて物理的に不可能です。それが例え一秒だろうと」

「違うわ。千八百年よ」


 答えたのは刀根だった。


「そのスマホは弥生時代の遺跡から見付かったの」


 増渕は混乱する自分に言い聞かせるように、もう一度言った。


「千八百年も七十四年も同じです。時間を逆行するなんて物理的に不可能なんですよ」

「物理的に不可能。我々もそう思っています」


 クレメンズが宥めるように語り掛ける。


「だからこそ知りたいと思いませんか。なぜそのスマートフォンが過去の世界にあったのか。もしかしたら、時間の流れを逆行させる未知の法則や物質があるのかも知れません」


 未知の法則という言葉に、引っ張られるように顔を上げた。


「そのスマートフォンはまだ発売前です。タイムスリップ現象はこれから起こるのですよ」


 ……ああ、そういうことか。米軍の考えていることが解った。


「その日付が知りたいのですね。あとは製造番号と所有者の情報ですか」


 クレメンズは大きく頷いた。


 このスマートフォンからデータを引き出せば、通信記録からタイムスリップの日時がある程度は推測できる。製造番号や所有者が分かれば、その日までにこのスマートフォンの入手も可能だろう。米軍は人類で初めてタイムスリップを観測しようとしているのだ。


「我々は、あらゆる機器を用意して、時間の逆行現象を解明する準備をしています」

「それはすごい。僕も立ち会わせて下さい」


 クレメンズは満足そうに笑みを浮かべてソファの背もたれに身を委ねた。


「その時が来たら、ご招待しますよ」


 増渕が礼を言おうとすると、刀根が間髪を容れずに割り込んだ。


「画像データも忘れないように。私たちの目的はそっちだから」

「弥生時代の画像ということですか」

「そう。でも、ただの弥生時代じゃないわ」


 刀根が木之下を見て、続く言葉を譲る。


「ワタシハネ、コノオキナワニ、ヤマタイコクガアッタト、カクシンシテイマス」


 木之下の言葉を聞いて、刀根が思い出したように言った。


「そういえば、今朝、北谷の海底遺跡を見て来たわ。やっぱりもっと大きな建造物の一部だと思う」

「ジョウオウノ、グスクデス」


 会話に置いて行かれそうになって「グスクって何ですか」と口を挟んだ。


「城よ。卑弥呼の城」


 刀根は脇に置いていたトランクカーゴからデジタルカメラを取り出した。耐圧性能が水深三十メートルのニコン製の高性能水中カメラだ。


 再生された最初の画像は、魚の群れの奥に見える階段状の岩だった。


「嘉手納の沖に沈んでいる遺跡よ」


 次の画像は垂直に切り立った壁だ。珊瑚に覆われているけれど明らかに人工物のようだ。


「この壁は、高さが十メートル以上あるわ」


 三つ目の画像に増渕は衝撃を受けた。四角く加工された巨石がずらりと並び、まるで城塞のように連なっている。


「石の列は、此処まで続いているわ」

「此処って?」

「嘉手納基地よ。恐らく城塞の大部分は、この基地の地面の下にあるのよ」

「マスブチサン、ソノスマートフォンハ、ココノカッソウロノシタデ、ミツカッタノデス」

「弥生時代にこんな大きな城塞は他にないわ。女王の城塞……卑弥呼の城に違いない」

「スマホに、その画像データがあると?」

「確信はないわ。でも可能性はある。卑弥呼が写っている可能性もね」

「マスブチサン、コノオイボレノ、メイドノミヤゲダトオモッテ、オネガイシマス」


 刀根が身を乗り出してきて、耳元で「日本の歴史上最大の謎に挑戦するのよ」と囁いた。

 自分の鼓動が聞こえるほど増渕は興奮していた。坂本への復讐を考えていたことが馬鹿馬鹿しくなって何も答えられなかった。


「部屋を用意しています。作業はそちらで」クレメンズが腰を上げた。


 増渕もスマートフォンをアタッシェケースに戻して立ち上がり、改めて握手を求めた。クレメンズが握手した手にもう片方の手を重ねて頷く。


「必要なものがあればマリに言ってください」


 握手を解くと、クレメンズはフロントの受付嬢に向かって大きく手を上げて出ていった。ロビーのスタッフ全員が敬礼してそれを見送る。 


「デハ、アトハ、タノミマシタヨ」


 増渕と刀根を交互に見て、木之下は隣の若い兵士に指でくいくいと合図を送る。若い兵士は機敏に立ち上がり、車椅子を押してクレメンズに続いた。


 依頼主の二人を見送り、興奮を冷まそうとしてソファに腰を下ろすと、刀根に「何で寛いでいるのよ!」と怒鳴られた。急かされて部屋へ向かう。荷物を全て持たされて視界が遮られていたので、エレベーターが何階に停まったのか分からなかった。


 木製の大きなドアが日本のホテルよりも間隔が離れて並んでいる。きっと部屋が広いのだろう。


「私の荷物は此処に入れて」刀根がドアのひとつを開けた。


 二間続きの部屋だった。手前はカウンター付きのキッチンに大型テレビと応接家具があるリビングダイニングだ。その右側に続いている奥の部屋にはダブルベッドが二つ並び、窓際には書斎机と木製の椅子が備えられていた。


 刀根は此処に来て長いのだろうか、リビングのテーブルには書類や写真が積み上げられていて、奥のベッドの上には脱ぎ散らかした衣類がそのままになっていた。


「こらこら、じろじろ見ない!」刀根がドアの外で怒っている。


 持たされていた荷物をリビングに置き、アタッシェケースと自分のバッグを持って廊下に出ると、刀根から部屋の鍵を渡された。キーホルダーには、幾つもの星が鳥居をくぐっているマークと部屋番号が書かれていた。


「日本の神への冒涜だわ。鳥居の真ん中は神の通る道よ」


 言われてみれば、鳥居の中央部をくぐっている星の列の先頭が槍の先端のようになっていて、そこに神がいるのなら貫いているように見えなくもない。


「考え過ぎですよ。米軍にそんなつもりはないと思いますよ」


 刀根はいつものようにこちらの言葉を無視して、「あんたは隣」と隣のドアを顎で指した。


 増渕の部屋の間取りも、刀根の部屋と全く同じだった。

 書斎机の上にパソコンと工具箱を出して、耐熱絶縁マットを敷いた。眼鏡に光学双眼拡大鏡を取り付け、LEDライトを頭に装着してスイッチを入れる。アタッシェケースからそっとスマートフォンを取り出して、耐熱絶縁マットに置いた。


 周囲の錆や付着物をピンセットで慎重に剥がしていくと、本体カバーを固定しているネジ穴が見えた。ステンレス合金のネジが、千八百年の時の流れの中では、ステン=錆、レス=少ない、とはいかなかったようで、がっつり錆び付いていて精密ドライバーで外そうとしてもびくともしなかった。水没させてしまったスマートフォンにはよくあることだ。


 工具箱から潤滑剤と半田鏝を出した。まずスポイトでネジ穴の中に潤滑剤を流し込んで、半田鏝でネジを加熱する。こうしてネジを熱膨張させると、そのあとに冷えて収縮する時に周囲の錆が剥がれて潤滑剤が浸透するのだ。


 少し待ってから、再び精密ドライバーをネジ頭の溝に入れて回す。……簡単に外れた。背後で「へー」と声がしたので驚いて振り返る。刀根が作業を覗き込んでいた。


「驚いた。いつ入って来たんですか?」

「ずっといたわよ。あんたが作業に夢中で気付かなかっただけでしょ」


 刀根の手にはオロナイン軟膏が握られている。ああ太腿の火傷か。この人は本当に薬を塗らせる気なのだ。


「塗りましょうか」薬を受け取ろうとした。


 差し出した手を見た刀根が、はっとしたように手を引っ込める。無意識に薬を持っていただけのようだ。どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか、まだ掴み切れない。


「もう塗ったわよ。そんなことより続けなさい」


 ベッドに腰掛けた刀根の太腿が艶めかしく光沢を放っている。本当に薬を塗ったようだ。


「どこ見てるのよ。早くしなさい」刀根が睨み付ける。

「分かりました」と応えて、工具箱から吸盤を出した。


 スマートフォンのガラス面に吸盤を引っ付けて、ゆっくりと引き上げる。パラパラと錆を落としながらディスプレイが外れ、中身が姿を現した。基盤を保護しているカバーは錆に覆われて幾つも穴が開いている。腐食が進んで形状崩壊を起こしているのだ。ピンセットで少し引っ張っただけで、錆びたカバーはぼろりと外れた。


 そのカバーの下に三センチ角の新型石英ガラスメモリがあった。増渕が開発していた時よりもかなり小さくなっている。書き込み用のレーザーや読み出しのための偏光レンズとの組み合わせは、より洗練されている。


 一切の腐食を受け付けず、輝きを失っていない新型石英ガラスメモリに心を奪われた。まだわだかまりは残っていたけれど、これを世に出した坂本を心から尊敬した。


 そして増渕はゆっくりと丁寧に、新型石英ガラスメモリの取り外しを始めた。

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