第4話 高校時代の教育虐待と偏見・誹謗中傷
成績も担任の先生からはこのままならば、九州大学の合格範囲で頑張れば京都大学や東京大学の合格も夢ではない、と言われました。
そんな過酷な状況でも学校の勉強は続けていたのです。
私は高校に往復3時間かけて通っていたのですが、進学先の高校では、宿題の量も平日に難問ばかり集めたプリントを10枚も出したり、仮定法まで高校1年の7月で進めたりと、進度の速度にはかなり、無理があったと思います。
部活動も禁止されていた高校生活で、とうとう学校に行けなくなり、高校1年生の夏休みを開けてから同じ学校の芸術学科に転科しました。
転科して早々、芸術学科の先生から「あなたが文学を含む芸術をやると冒瀆になる。10月になるまで自主退学しないと強制退学させる。これを言われたからと言って屋上から飛び降りるのは、我が高校のブランドに傷をつけるから死ぬのならばやめた後に死んでくれ」と言われました。
それでも、私は何とか、学校に行こうと文芸部の入部を希望しました。
体験入部の日に顧問の先生から、
「あなたは発達障害だから感性がないんだ。あなたほど才能がない人は初めて見た。入部するのがおこがましい。もし、入部しても日大文芸コンクール(注:日本大学付属高校で行われる文芸コンクールのこと。開催は東京にある日本大学で行われる)には連れて行かない」と言われました。
私は「連れて行かなくてもいいから入部できないか」と言うとその顧問の先生は芸術学科の先生と同じように、発達障害の私が文学に携わると冒瀆になると言いました。
そこまで言われた私は母に言って河合塾の高卒認定コースに行きたい、と頼みましたが、母から無理と言われ、大分県竹田市にある、不登校の生徒を受け入れるある私立高校に転校しました。
今思えば、河合塾と通信制高校に行きながら勉強していた方がよほど良かったと思います。
その間にも私は閉鎖病棟に2回も入院しています。入院先から高校(注:日本大学の付属高校)に通っていたのです。一度退院したものの、しかし、大分県の私学のその高校はほとんど授業をしない学校でした。
最初の説明では地元の宮崎大学進学レベルの授業ならば、行えるという説明でした。
当時の私は宮崎大学の教育学部の特別支援教育課程を志望していましたので、入試に必要な科目を受けられるとばかり思っていました。
まず、転校してから驚いたのは英語でした。そもそもアルファベットも書けない生徒がいるからか、中学生レベルの英語の授業もやらないのです。
英会話とも言えぬ高校で習う英文法を教えない授業スタイルでした。
英語は授業をやらず、その他の科目も似たようなものでした。国語も古文や漢文はやりません。現代文もそもそも、小学生レベルの漢字が読めない生徒がたくさんいるのですから無理はありません。
理科も生物や化学、物理なんてとんでもない。やっても薄い教科書で理科総合Bをやるようなものです。
文系なので生物が必要だった私には、遺伝などを習いたかったのにも関わらず、一切教えてもらいませんでした。世界史や日本史などの科目もそもそも、カリキュラムに入っていませんでした。
こうなっては独学でやるしかありません。
入試に必要な日本史は戦国時代まではひとりでやり、古文は中学の時に文法はマスターしていたのでひとりで問題集を開いたり、英語もチャート式の問題をひとりで解いたりしていました。
仮定法の疑問点を英語の先生に聞きにいったら、代わりに中1レベルの問題を渡されたときは、さすがに驚きました。
レベルの低い学校で唯一教えてくれたのは数学の先生でした。
その数学の先生には今でも唯一感謝しています。
その先生は広島大学の大学院卒で、しかも、国立の原子力機構に勤務されていた過去のある先生でした。
その底辺校ではずっと、数学の勉強をしていました。
今でも数学の問題集を見ると、あのときに解離で覚えていないはずなのに懐かしさがこみ上げます。
数学Aから数学Ⅱの三角関数までひとりでやりました。
わざわざ、教科書も買ってやりました。その頃も結局は解離が悪化して、何度目かの入院をしていたのですがその病棟でも朝早くから数学の勉強をやっていました。
その高校では数年ぶりに全国模試を受験することになりましたが、その結果も数学だけは、全国平均を大幅に上回っていたと聞いています。
全然勉強ができない生徒でも教え方次第でやれるようになるんです。あのとき、ちょうど東日本大震災が発生してその直後にみんなで募金活動をして小さな学校ながら10万円の寄付が集まったのは覚えています。
その高校では募金と数学だけがいい思い出です。それも長くは続きませんでした。
その年の6月に体育の先生から「お前たちは人生終わった」と罵り、それに憤慨した男子生徒から私に「自分が頭いいと奢っている、お前も俺たちと同じなんだよ」と言われ、そこからまた嘘みたいに行けなくなりました。
そこからたぶん4回目の入院生活が始まったと思います。
17歳の誕生日を入院病棟で迎えたときは、周りの看護師さんや母が涙を流していても、私自身はそんなに感慨もなく、受験が不可能になったことに気落ちしていました。
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