第7話
夏休みが近づいていた。外に出るたびに鬱陶しい暑さに見舞われ、汗が出ることで体の中からエネルギーが抜き出ていくような気がした。七月になると、新しい生活に慣れた人がほとんどであった。その実、序盤よりも授業中に寝たり駄弁ったりしている人の数は四月に比べると確実に増えていた。そして私もその一人ではあった。クラスメートの大半は教師によって授業態度変えるという中高生にありがちな過ごし方をしていた。国語や数学、英語といった主教科の授業は教師が怖かったということもあり、みなまじめに授業を受けていた。しかし。そのほかの音楽や家庭科の授業はまじめに受けている人の方が少なかった。
今日は音楽の授業で、我々は三限が終わると音楽室へと向かい、いつものように授業を受けた。そしてそこには生徒が教師の言うことを無視して授業中にしゃべるという光景が普段通りに繰り広げられていた。しかし、この日だけはどういうわけか、教師はめげずに生徒を注意していた。いつもより教師がしつこいということは私を含めた全員が薄々、気づいていたのだが、反抗期を迎えた彼らにはそれが却って喋るためのモチベーションとなってしまっていた。授業時間の半分を迎えた頃、私は仙田と喋っていた。そして音楽の教師も疲労がたまったかのような素振りをして他の男子生徒を注意していた。すると前の方から一人の男が叫んでいるのが聞こえた
「もおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
叫んでいるのは神本であった。私はこの間の茶番の一件もあり、神本が何をやるのか楽しみに見ていた。しかし、彼のとった行動は私だけではなく周囲の人間驚かせるようなものだった。なんと、神本は筆箱からシャープペンシルを取り出し、自身の腕を何回も突き刺していたのである。彼の腕はやがて赤くなり、しまいには血があふれ出していた。
(あ、この人は本当にやばい人だ)
と私は思った。そしてそれは周りの人間も同様だった。神本の行動の異様さもあってか、教室には沈黙がなだれ込んできた。神本は周りを見渡し、静かになったのを確認すると
「よし!」といって何事もなかったかのように前を向いた。彼がただ周りを静かにするために自分の腕を傷つけたということが私には極端な行動のように思えた。また、それと同様に神本は変わった人間だから脳の何処かに痛覚を快感に変換させる機能でも持ち合わせているのではないかとも思った。神本の行動によってもたらされた静寂は決して一時的なものではなく、授業は静かなまま最後まで進行した。教諭は生徒が自傷行為に走ったことに対して多少の戸惑いを見せたものの,神本に対して授業後に感謝の辞を述べていた。
授業が終わると、私は神本のもとに行き先ほどの自傷行為は痛みを伴っていなかったのかということを尋ねた。すると、は当然のように痛かったと答えた。私は少し安心した。なぜなら、彼がこの先痛みを快感だと思う性質のため破傷風にでもなり、苦しむといったことが起こってしまわないか心配だったからだ。
「そうなんだ。」
私は安堵したような声でそう言い、彼の目をみた。神本は私と顔を合わせると会釈し、口を開けた。
「痛いの楽しい!」
(こりゃだめだ…)と私は思った。彼は今度は何の理由もなく手元にあったピンク色のシャープペンシルでもう一度自身の腕を突き刺し始めたのであった。
このころから私は神本と共に過ごす機会が多くなった。彼は自傷行為という危なっかしい行為をすることを除けばなかなか面白いやつだった。普通というのをひどく嫌っており大衆に迎合しない性質の人間であった。例えば、彼はシャーペンの購入をする際ですら大衆の構築した価値観に逆らおうとしていた。彼が自分の手を傷つけるときに使用するシャープペンシルの色は桃色なのだが、彼は「桃色は女性の色」という大衆の価値観に逆らうため敢えて桃色のシャープペンシルを買っていたのである。そして彼が身に着けているものをよく見てみると他にも桃色のものは沢山あった。
こんな一挿話ある。
ある日、体育の授業に向かうため、我々は下駄箱に並んでいた。他のクラスと合同で行う授業あったので先に到着していた我々は他のクラスが下駄箱に到着するのを待っていた。私がなんとなく、前を向き呆然としていると横から鉄が固いものにぶつかった時のような鈍い音が聞こえてきた。音の方向に目を向けていると神本が水筒で自分の頭を殴打していた。私は彼のやっていることが理解できず、神本のことを呆然と見つめていた。神本は私の視線に気づいたのか、頭にぶつかった衝撃で凹んでしまった水筒を私に見せてきた。
「これ、凹んでも直るんだよな」
そういうと凹んでない部分を片手で握りしめ、水筒をもとの形へと一瞬で戻した。
(いや、俺が心配なのは水筒じゃなくてお前の頭だよ)と私は思った。神本は満足したのか私に水筒の修復を実演すると何事もなかったかのように前を向いた。彼の蛮行を観察している内に他のクラスの人間は全員到着しており、我々は体育館へと向かうこととなった。体育館に行く道中に私は神本の頭を水筒で殴打した意図がどうしても気になり彼に質問を投げかけた。
「なんで自分の頭をわざわざ殴ったの?」
私の質問に対して。ああと小声で言うと彼は殴打した意図を簡潔に述べた。
「脳の細胞を殺して新しくつくる。そしたら頭が良くなるとおもうんだ。だから…」
私は彼の「だがら…」という順接の言葉の後にくるものを待っていた。私は自分が納得するような正当な理由を彼が述べてくれることを期待していたが、その淡い期待は瞬く間に裏切られた。神本は「だから…」という言葉の後に自身の説明を補足するかのように、又しても自分の頭を水筒で殴打し始めたのである。
「…。こうやって自分の頭を殴ってるんだよ」
私は大笑いした。彼の行動の極端さが面白くて仕方なかった。人を静かにするために自傷行為をしたときと言い、彼の脳内には【バランス】という概念が全くと言っていいほど存在していなかった。そして皮肉なことに彼は成績が良かったので頭を殴打することで知能が上がるという仮説は一見、正しいかのように思え、それもそれで私には滑稽だった。
昼休みに母親が作ってくれた弁当を食べていた。私は神本と先日の神幸祭での話を彼にしていた。中村の煙草の話や溝口の家にあった小指の話に対して神本は若干感情が冷めていてようだがそれなりに面白く私の小噺を聞いてくれていた。話が盛り上がっていたところで教室に石川が入ってきた。
「神本君いる?」
全員、何故彼が呼ばれていたのか私にはなんとなくわかった気がした。恐らく、音楽の授業中に自傷行為をしたことの理由でも聞きに来たのだろうと私は思った。神本は石川に呼ばれると彼の方へとすたすたと歩いて行った。二人は廊下の方に消えていき小声で話していた。長めに話すのではないかと私は予想していたが案外、十分も経たないうちに神本は戻ってきた。
「なんの話をしてたの?」
「今日の音楽のときに僕が自傷行為してたでしょ?あのことだよ」
「やっぱりそうだよね」
「うん、もうあんなことはするなって石川先生も言ってたよ。」
当然と言えば、当然である。自傷行為というのは本来、精神衛生上にすぐれない人間がする行為であるため、石川は神本のことが心配になったのだろう。教師と言うのは大変な仕事だなと思った。一人の精神状況を気に掛けることですら骨の折れる行為であるのに一気に20人近くの生徒を気に掛けなければいけないのだから並みの精神力では務まらない仕事だなとも私は思った。教師という仕事についての思索が終わり、神本が横にいたことを思い出した。私は彼のいる方向に目を向けた。すると、そこには石川の心配をドブに捨てるかのように、またしてもガンギマリしながら自傷行為をしている神本がいた。
「イタイノキモチェ」
ディストピア @nikuyama1226
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