人魚の愛

泡沫

人魚の愛

 潮風は傷に染みる。


 よれたスーツを着た男は、深夜に酒も飲まずに家路をとぼとぼと歩いていた。


 (俺はクソジジイどものサンドバックじゃねぇっての。)


 寂れたコンビニで缶ビールを1本とスルメを買って、ビニール袋片手にワンルームの錆びれたアパートの今にも壊れそうな階段を上った。ギィギィ変な音が鳴って、それにも随分前に慣れてしまった。


 (これが壊れて死ぬのも悪くない…)


 玄関で靴を脱ぎ散らかして、部屋の電気と小さなテレビを着けて、深夜のツマラナイテレビ番組を見るでもなく缶のままビールを煽った。


 独身・未婚

 この年齢で未婚というのも珍しいことじゃない。

 見合い結婚が減って久しい、自力で恋なんてものはできやしない、少なくとも男はそう思って諦めていた。


 しいていうなれば、独身貴族といえるほど稼いでいないことか、いつだったか、男はワイドショーを見て睨んだものだ。

 男の楽しみは、コンビニの缶ビールを飲むことだけ。趣味も特技もない。なにもない。


 適度に酔って、寝てるのか寝てないのか、そんな間にどこからか女の声が聞こえる。


 ガラガラとベランダの窓を開けて、錆びれたバルコニーから海を見れば、ワンピースを着た女性が、海辺で歌っていた。大きなつばの麦わら帽子をかぶっていて顔は見えないが、月明かりが彼女の美しい髪を照らす。


 近づくでもなく、駆け寄るでもなく、男は古臭いテレビの電源を消して、今日の晩酌は彼女の歌を肴にすることにした。


♦︎♢♦︎


 それから、毎夜、ベランダから聞こえるその女性の声を聞いた。


 男は上司に無理を強いられても、年下に陰口を叩かれても、彼女の歌を思い出せば、悪くない気がして、自然と口角が上がった。


 ある日、男はいつもより帰りが遅くなって、ふと悪戯にあの海辺へ足を伸ばした。


 そこには、誰もいなかった。


 けれど海辺からはいつものあの声が聞こえてきて、ふらふらと靴を履いているのに、海へと足を突っ込んだ。


  程よい酩酊感が彼を狂わせる。


 「あなたは…?」


 その女性は、男に気づいて歌うのをやめて、男の脳を掻き乱す麗しい声で尋ねた。


 「あ、あの、その…」


 男は、急に頭が真っ白になった。


 (俺、匂いとか、酒臭くないか…?それに、服も…。)


 慌て出した男を見て、女性はくすっと笑って「かわいいひと…」と呟いた。


 その言葉に真っ赤になりながらも、男は思いの丈を辿々しく、語った。


 「いいい、いつも、家で、あなたの歌を聴いていて、素敵だな、と…思ってたんです。すみません…気持ち悪い、ですよね…。」


 最後の方は、自信がなくなったのか、段々と声が小さくなっていってしまう。


 女性は呆気にとられてポカンとしていたけど、頬をほんのり赤く染めて、微笑んだ。


 「いいえ、嬉しいです。そんな風に言ってもらえて。…そんな真っ直ぐ褒められると、照れます…。」


 両手で顔の半分を隠して、くすぐったそうに言う姿に男はうっとりした。


 (か、かわいい。美しいだけじゃなくて…。)


 綺麗な指先、女性らしい白魚のような手、どことなく瑞々しい彼女に惹かれていた。


 (おままごとみたいな恋がしたい)



 それから、男と女はいろんな話をした。


 (夢ならば醒めないで)


 「あまり、歌に自信もてなくて。歌うのは好きなんですが、…以前ある男の人に『鬱陶しい歌』だと酷評されてしまいまして。」


 「あなたの歌は素敵です。…そんなことを言うのはどこのどいつですか!!…大事なひと、なんですか?」


 女への悪口に男は代わりに怒って、けど、その男の人との関係を気にして怯えて。


 「大事というわけじゃないのですが、契約を結んでいる、少し特殊な関係なのです。お名前も存じませんし…。正直、苦手な人です…。あっ、名前を知らないから嫌いとか、そういうわけじゃないですよ!!」


 女は男の名前を知らないことにふと気づいて、焦って否定した。


 「そ、その。オレ、僕もあなたの名前を知らないわけですし。だからといって嫌いとか、そうは思ってないので!!」


 互いに焦って誤解を解こうとして、見つめあって、笑いが込み上げてきた。

 互いに顔を赤く染めて、楽しく笑った。


 「俺、齋藤定治といいます。さだはると呼んでいただけると嬉しいです。」


 「さだはる、さん?」


 「はい。呼び捨てでいいですよ?…あと、敬語も。その、少し距離を感じてしまうので…もし、嫌じゃなければ。」


 「あの、では。さだはる。私の名前は…」


 耳元に口を近づけて、吐息を多く含んだ声で囁いた。


 「けど、私の名前、本当は秘密なの。だから、ルミって呼んで?」


 男は、名前が秘密っていうのがよくわからなかったが、彼女がそう呼んでほしいというならと、復唱した。


 「ルミさん?」


 「呼び捨てでいいって言ったのはさだはるだよ?」


 ちょっと拗ねた顔して男を上目遣いで睨んだ。


 「ご、ごめん。ルミ。」


 男がそう呼ぶと、すっかり機嫌を直して微笑んだ。


 「ううん、いいよ。」


 それから暫く、2人で談笑した。


 男はこの時間がとても楽しくて、ずっと続くことを願った。


 「そろそろ、かな。」


 「そろそろって何が?」


 女が何気なくそう言った。


 「もう、時間切れみたい。」


 男の体がだんだんと透けてゆく…


 「どういうことだ?」


 「……とっても楽しかった。」


 女は穏やかに微笑む。


 「なんで!!」


 焦ったように吠える。


 「……私、本当は人間じゃないの。」


 「へ??」


 「けど、さだはるには嫌われたくないな…。」 


 女は悲しそうに笑った。

 

 「そんな!! ルミを嫌いになんて!!」


 「本当に? この姿を見ても?」


 刹那、女の下半身には脚はなく、魚のように。


 「そ、その姿は…?」


 「ごめんなさい。もし、これでも嫌わないでいてくれたら、明日も同じ時間にここへ来て。待ってるから。」


 女、いや、人魚はそう言った。


 男は気づくと、膝から下を海水に突っ込んで、浅瀬に立っていた。


 (夢…だったのか?)


 男は、彼女のことで頭をいっぱいにして家に帰った。


♦︎♢♦︎


 安いワンルームの天井を見ながら、男が想うのは女のこと。


 (ルミさんはほんとうに人魚なんだろうか。そんなもの、存在するのだろうか。)


 天井のシミを数えても眠りにつけず、目を閉じて、ただひたすらに女のことを思った。


 朝起きて、簡単に朝食を済ませて、会社に出かける。

 そんな決まりきったルーティーンの中で何度も頭に女の姿がよぎった。


 仕事中も、女のことで頭がいっぱいで上の空になっていた。


 (綺麗な歌を紡ぐ唇、白魚のような手、華奢な肩、どこも美しくて。あの服を脱いだら…)


 「おい、齋藤。この発注お前がやったんだろ?」


 上司にミスをなすりつけられても、いつもなら怒りで頭が沸騰しそうになるのに、男の頭の中は人魚でいっぱいだった。

 

 (もっと近づきたい、触れたい、この手で………彼女のもっと色んな顔をみたい。)


 ファイルを机に叩きつけられても、足を踏まれても、椅子を蹴られても、怒りが湧いてこない。


 (人魚だろうと、そうでなかろうと、どうでもいい。彼女なら、それでいい。彼女を、俺は……)


 男の頭は、今日の夜の再会のことだけでいっぱいだった。


 (愛しているんだ、こんな言葉じゃ足りないくらい。会いたい、会いたい、会いたい。触りたい、抱きしめたい、それから…)


 ドロドロとした感情が男の中に溜まっていく。それでも、純愛という綺麗な感情は汚れながらも美しく輝いていた。


 男はとっくのとうに恋に堕ちていた。


♦︎♢♦︎


 その夜、男は海辺を訪れた。


 男の中に、彼女が人魚であることへの驚きや疑問はあったが、不思議と嫌悪感は一切なかったのだ。


 昨夜と同じように、スーツが濡れるのも厭わずに海に足を踏み入れると、不思議な酩酊感が男を襲い、昨夜と同じように女が立っていた。


 「来て、くれたの?」


 信じられないものを見るように、女は言った。


 「はい、ルミさん。」


 男は笑顔で言った。


 (昨日はそんな余裕なかったけど、不思議な空間だな。)


 まるで海の中にいるようで、けれど、光が差していて明るく、なにより、息苦しくない、そんな不思議な感覚に男は女が人魚であることに確信を持ち始めていた。


 「わ、私は人間じゃないのに?」


 「そんなの関係ない。俺は、ルミさんだから!!」


 男は彼女の両手を握って、力強く言った。


 (人間関係にそんなこと。恋に、愛に、国境がないというなら、種族差なんて、あるはずがない!!)


 男は燃え上がるような恋に、ちょっとばかし、盲目になっていた。


 「嬉しい。」


 人魚は男の目に吸い込まれるような、そんな気さえした。

 人魚は笑って、涙を流した。


 「今は、人?の姿をしているみたいだけど…」


 男は不思議に思って尋ねると、人魚は答えた。


 「はい、その。これは仮の姿で。」


 「本当の姿、見たいな…。今のルミさんも素敵だけど、ありのままのルミさんも知りたい。」


 「気味が悪いと思うかも…」


 「それは絶対ありません!!」


 男は力強く断言した。


 「だったら、その、私の寝室で、なら…。」


 熱烈な男の要望に、戸惑いながらも、渋々、人魚はありのままの姿を見せた。


 男は言葉を失った。


 「美しい……綺麗だ。…触っても?」


 「え…はい。」


 大事なものに触れるようにそっと、男は人魚の鱗を撫でた。


 「ひゃっ!!」


 「大丈夫?嫌だった?」


 人魚が声を上げたのにびっくりして男が手を離して心配した。


 「いえ、ちょっと、なんというか、くすぐったかっただけ…なので、嫌ではないです。」


 頬を染めて、顔を隠しながら人魚は言った。


 (うわ。かわいい。)


 男はもう1度人魚の鱗に触れた。


 「ひゃっ!! ちょっと!! きゃっ!!」


 「ふははっ。」


 楽しくなって、何度も大事に撫でた。


 「もう! さだはる、だったら…」


 人魚は男の首をつぅーっと撫でた。


 「お、おいっ!!」


 「ふふっ、仕返し。」


 人魚はニヤッと笑った。


 「やったな!」


 男と人魚は楽しく笑い合った。


 不思議な空間に2人の笑い声が響いた。


 それからしばらく、夜の間だけの不思議な逢瀬が続いた。


 2人はただ笑い合ったり、くっついたり、話したり。


 「この子たちは?」


 あるとき、男は小さな人魚たちを見て尋ねた。


 「私の眷属。…子どもというか、なんというか。人間の感覚だと…家族?わかんないんだけど。」


 「そうなんだ。さだはるです。よろしくおねがいします。」


 ご丁寧にお辞儀までして自己紹介する男に人魚は吹き出して笑った。


 「ふふふふっ!!」


 「なんだよ! 俺は、ルミが好きだから、その挨拶だ。ルミの大事なものなら、俺も大事にしたい。」


 照れながら、ガサツに言う男に人魚は抱きついた。


 「ありがと。なんか、嬉しい。けど…この子たち私と感覚共有しているから、この子たちも私だから…その、さだはるのことはとっくに知ってるよ?全部、ね?」


 耳元でそう囁くと、男は顔を真っ赤にして、照れ始めた。


 「そーいうのは先に言っておいてくれ!!」


 「私はぜーんぶ知ってるんだもん。さだはるの全部。大好き。」


 笑いの絶えない、楽しい時間。

 ときに同じベットで、語らい合う2人は充実した時間を過ごした。


 甘酢っばい恋の予感。


♦︎♢♦︎


 逢瀬を重ねるにつれて、男の中で人魚への気持ちは大きくなるばかりだった。


 仕事中も、街を歩いているときも、脳裏をちらつくのは人魚の顔。


 あまりに落ち着けなくて、家にある裏紙に人魚への気持ちを殴り書きした。


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 (心中したい…)


 そんな考えすら過るほど、人魚に夢中になっていた。


 男は、ずっと考えていた。


 (いくら、肌を許してくれても、俺なんか、本当に好きになってくれてるのか…。遊びなんだろうか…。)


 人魚と何度逢瀬を重ねても、深い関係になっても、人魚と会えるのは夜のひとときだけで、人魚のことを全く知らない、そんな状況に不安になっていた。


 あるとき、男は盗聴器を買って、それをもって逢瀬に臨んだが、不思議なことに、人魚に会うときには携帯電話も盗聴器も使えなくなっていた。

 水没しているはずの携帯電話も、逢瀬が終われば問題なく使えるから不思議だ。


 男は人魚の全てを知りたくて仕方がなかった。


 好きな食べ物は?

 普段なにしている?

 誰と会っている?


 黒子の数はいくつ?

 鱗の数は?

 普段布で覆い隠している部分はどうなっている?

 ……


 知りたいことは尽きない。

 人魚のことなら、どんな些細なことでも把握しておきたかった。


 なんならずっと、閉じ込めて、監禁して、監視下におきたかった。



 男は、そんなどす黒いドロドロとした気持ちが自分の中で溜まっていくのをわかっていながら、見て見ぬふりをして、そっと蓋をして、嫌われぬように振る舞った。


 人魚と笑い合うなんてことない時間が貴重で大事であること、楽しくかけがえのないものであることも間違いなく真実だからだ。


 何ヶ月か、毎日毎日、逢瀬を重ねた。


♦︎♢♦︎


 ある満月の夜、いつものように男は人魚との逢瀬に海辺を訪れた。


 いつも通り、人魚の寝室で2人は静かに会話していたのだが、人魚は普段と違うトーンで少し怯えて言った。


 「ずっと一緒に生きよう?私はさだはるをずっと愛すから。」


 人魚は色っぽい表情で男を誘った。


 「幸せ……」


 人魚は男を抱いて、抱きしめて、耳元で囁いた。


 「ねぇ、ずっと一緒にいてくれる?なんとなく分かってるでしょ?今のままじゃずっと一緒にはいられないって…」


 人魚と人間…その壁は分厚い。


 「……けど」


 男はためらった。それは直感だった。なぜか、頷いてはいけない気がした。


 「お願い、私とひとつになって…。そしたらずっと…一緒にいられるから。」


 辿々しい声で男にそう懇願した。


 (もう、戻れなくても。そもそも、社会に未練なんかないんだ。あんなクソみたいな会社で踏み躙られて生きるよりも…ルミと一緒にずっと…ずっと…)


 男は、人魚の腰に手を回して抱きしめ返して言った。


 「ルミが、一緒にいてくれるなら…。」


 (最初で最後の愛を捧ぐよ)


 人魚は静かに微笑んで、瞬いた。目尻からつぅーっと雫が流れていった。


 (俺の全てを貴女に捧げるよ)


 こうして二人は結ばれてひとつになった。


♦︎♢♦︎


 人魚は数日の間眠り続けた。


 ゆっくり、ゆっくり、愛する人とひとつになって、溶け合う感覚に身を委ねた。

 心が溶けあって互いの気持ちが手にとるようにわかる。


 幸せだ、好きだと伝えれば、幸せだ、愛してると、そう返ってくる。


愛おしくて

切なくて

狂おしいほどに…好きだから


 心の中がいっぱいいっぱいに満たされて胸がいっぱいになって満腹感を味わう。


本気の恋は

美味しくて

気持ちよくて

ずっと離したくない


 誰にも邪魔されない自分と愛するオトコだけの空間…


 それが壊された。


 「女の部屋に無断で立ち入るとは失礼な男ね…。」


 人魚は牙を剥き出しにしてそう言った。


 「……ここは俺の管轄だからな。それにお前の部屋ではない。」


 住処である海底である人形を愛でていた。

 人魚の周りには小さな子どもの人魚たちが楽しげに泳いでいる。


 そんな海底で黒く長い髪の男は平気で歩いて、息をして、動いている。


 「それで、なにか用?さっさと帰ってくれない?」


 機嫌を損なった人魚は、人形を大事に大事に守ってから男に振り返った。


 「…なにかを頼みにきた訳じゃない。」


 「ふうん? ならさっさと帰れば?」


 小さな人魚たちに見えないところで、絶対零度の視線を向けた。


 「ところで、眷属が増えたようだな。」


 男は人魚の周りを見て、そう言った。

 以前、ここを訪れたときは37匹だった小さな人魚が38匹に増えていた。


 「だったらなに? なにか問題?」


 「いや。」


 男はそっけなくそう言った。


 人魚は、男の麗しい長髪を一房口付けて、妖艶に微笑んだ。


 「あんたはデリカシーないけど、顔はいいから、もっと私に夢中になってくれるなら…」


 男は人魚の言葉を遮って言った。


 「それ以上続けるつもりなら、呪うぞ。」


 塵でも見る様な視線で人魚を見下した。


 「はいはい。あんたは好きになれそうにないわ。私にだって趣味はあるのよ。」


 人魚はそうため息をつきながら言った。


 「それは光栄だ。」


 (逢瀬を邪魔したくせに、堂々と。契約がなかったら殺してやるのに。私に愛をくれる男じゃないと。私は全てを受け入れて愛すことなんてできないわ。この人間とひとつになんてなろうとしたらアレルギーでアナフィラキシーショックよ。)


 男はそう言って、その空間から去っていった。


 (あゝ、情熱的な恋がしたい。愛が足りない…。もっと、もっと…。)


 人魚は眷属たちを集めて、人魚を抱いて、愛を囁いた。


 愛の言葉は歌を紡いで、美しい歌は小さな人魚たちを癒す。


-----


 愛してる 愛してるの

 ずっと ずっと 閉じ込めて ひとつになって 離してやれないほどに

 愛おしくて 憎たらしくて 可愛くて 凛々しくて

 笑ってほしいの ずっと幸せでいてほしいの

 私の 私の 私… ずっと私のもの

 私だけのもの


 愛してるから 恋も愛も足りないくらいに

 なにより 大事なの


 愛してる 愛してる 愛してる 愛してる 愛してる 愛してる


 他のものなんて見ないで

 他のところになんて行かないで

 あなたたちは ずっと私を見ていて

 私が 守ってあげるから


 愛してる 憎たらしいくらいに愛してる


 辛いんだよね 苦しいんだよね

 良いんだよ そんなところにいなくても

 ひとつになろう

 私とずっと一緒にいようよ


 魂ごと 私に縛りつけて

 ずっと 離さない


 私が死んでも

 この世界が滅んでも

 わたしたちは ずっと 一緒だから


 絶望なんていらない 悲しみなんていらない

 幸せになろうよ

 幸福になろうよ


 欲しいもの なんでもあげる

 願いも 叶えてあげる


 だから あなたの全てを 私にちょうだい


 愛してる


-----


 人魚の歌声は、海沿いの街の男の耳に届く。


 人魚の愛したオトコたちへの愛の唄レクイエム、それに誘われて男は海辺へたどり着く。


 男の最期の恋の物語。

 何度も繰り返す、人魚の愛の物語。


♦︎♢♦︎


 「もしもし、れんです。」


  黒いスーツを着こなした長髪の男は革靴をコツコツと響かせてコンクリートの路地を歩きながら、イアホンのボタンを押して淡々とそう言った。


 『おっ? 用事は終わったのか?』


 明るく能天気な声が頭に響いた。


 「はい、浩輔さん。今からそちらに戻ります。」


 どこか芯のこもらない声でそう返答した。


 『それはいいんだが、どうしてまた急に?人魚がいるところだろう?そこまで事件なんて起こらなそうだが。』


 清水蓮しみずれんは特殊体質から幾つかの妖怪と特殊な関係にある。

 人魚とその関係を結んだのは、人魚は比較的に人間に友好的というのが理由だった。

 ゆえに、人間と問題は起こさない…そう考えていた。


 蓮は数年前に顔見知りになって行方をくらませた少年を思い出して、自分の右胸に触れる。


 (あのときは35匹だったか…)


 頭の中にはあの鬱陶しい歌が響く。


 「友好的なことと問題を起こさないこととは別ですよ。」


 『……そうだな。失言だった。じゃ、気をつけて戻れよ。』


 蓮の言葉になにかを感じ取ってか、浩輔は静かに通話を終わらせた。


 (あの人魚に悪意はない。…本当に幸せを、温もりを求めていただけ。)


 海底にいた38匹の小さな人魚ー。


 「これが種族を超えた愛の形というのなら、俺は……」


 他者がどう思おうと、オトコたちと人魚は幸せに結ばれた。

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