DAYS2 -7- 『次は一発で、ね?』

 俺は力の赤を全力で右腕に乗せ、氷壁を思い切り殴り飛ばす。


――はずだった。


はずだったのだ、何せこれが俺の全力中の全力、それを撃ち込んだのだから、俺の拳は氷壁の壁を突き破るとばかり考えていた。だが現実は非情で、非常にダサく、実際にはバキィッ!と硬い物同士がぶつかった音が響いただけで、俺が目印にした速度ノッカーの腕を切り落とした赤い部分を中心に、氷壁全体に大きくヒビが入っただけだった。


 拳を氷壁につけたまま、神妙な顔をしていた俺に、ナナミが思わず吹き出している。

「こ、ここ、壊せないでやんの……!」

 プルプルと笑いを堪える素振りをしているナナミの顔をジトリと見るやいなや、彼女はケタケタと笑い出し、俺はスンとして氷壁から手を離す。あまりの恥ずかしさに身体の熱も冷めていく気すらした。

「でもま、上々ですよ? これなら私の足でも……」

 氷壁に拳を合わせながら硬直している俺を笑いながら、彼女は氷壁の方を向いたまま一歩ずつ後ろ足で離れていく。上々という事はつまり力をはかられていたのかもしれない。向こうにいる盾持ちノッカーは変わらず箱の前で立ち往生しているが、そのノッカーの姿を彼女は先程から一瞬たりとも視界から外していないようだった。


「とりあえずまぁ力の感じは分かりました。ちょっと、いやだいぶ面白かったけど壊せなかったのは気にしない事! ごくろーさまです! じゃあ次はまた私の番!」

 俺は拳を氷壁から下ろし、何をしでかすのかとナナミの行動を見つめる。そうして彼女は部屋の外くらいまで下がった後、急に氷壁へ向かって物凄いスピードで駆け出した。


「蹴りますよ! 下がって!」

 彼女のやや強い口調に俺は思わず驚き、氷壁から数歩後ろへ下がる。そして赤い目と目があった、いつのまにか盾持ちノッカーが部屋の奥にある箱を離れこちらに近づき始めていたのだ。気まぐれな化け物もいるものなのだと思いながら、俺は駆け寄る彼女の動線から完全に離れると、氷壁までまだ数メートルあるにも関わらず、彼女は大きな跳躍を見せた。

それはまるで、俺が初めて『力の赤』を使った時に大型ノッカーへ飛び込んだ時のような、人間の力を越えた跳躍。そうして彼女は助走を付けていたにも関わらず、俺が思い切り拳を叩きつけた場所と寸分変わらない場所へと右足の先を突き刺した。その右足が氷壁に突き刺さった瞬間、力の赤を乗せた俺の渾身の一撃でも貫けなかった氷壁が、ザラザラと音を立てて崩壊していく。

「じゃすとみぃーーっと!」

 着地して笑うナナミの向こう、崩壊していく氷壁の奥では、盾持ちノッカーが敵意を持っているであろう速度で俺達の方へ移動して来ている。その速さは大型ノッカー程では無いものの、その動きにくそうな大きな腕を持つ図体では考えにくいくらいに速く感じた。おそらくはその腕で叩き潰すのが主な攻撃方法なのだろう。

「ナナミ、来てるぞ!」

 片手を上げて近づいてくる盾持ちノッカーはもう数メートル先に迫っている。もう数秒と数える程の時間も無いはずなのに、ナナミはチラリと俺を横目に見て、落ち着いた素振りを見せた。

「よし、じゃあ次は、入り口まで走って!」

 氷壁を砕く前から彼女はもう既に次の行動を考えていたようで、スッと右手の拳を閉じた。俺は彼女に言われた通り、入り口まで走りこちらに背中を向ける彼女を振り返る。その背中はやけに頼もしく見え、そして握っている彼女の右手が赤く染まっていくのがハッキリと見えた。


「それじゃ、もう一個の大技の方!」

 彼女が真っ赤に染まった右拳を開くと、途端に彼女の右腕が蛇のような細長い炎達に巻き付かれていく。

「お兄さん! ちゃんと見ててね!」

 彼女はその炎を纏った右腕を床に向かって強く振り落ろすと、炎は彼女から離れ、まるで本当に生きている蛇か何かのような動きで、氷壁が張られていた部分の端から端までスッと広がっていく。どうやらノッカーにも恐怖という感情があるらしく、盾持ちノッカーは物怖じしているようで身動きが取れないようだった。


 それを見て彼女は笑い、パチンと指を鳴らす。その瞬間、その細くうねっていた炎が一瞬にして強く強く燃え上がり、そして消えた。砕け散った氷片が一瞬にして水滴になり、水滴が一瞬で水蒸気になる。一秒も無い間に、部屋中が急激に水蒸気で曇っていく。真っ白で何も見えない部屋の中心から、ナナミの困ったような声が聞こえる。

「あー、蛇火へびちゃんの調節は難しいなあ。お兄さーん、そっち行くから通路まで出ててねー!」


 俺は部屋の入り口から更に数歩下がり、通路に出て彼女を待っていると、水蒸気によって体中がびしょ濡れになった彼女が、真っ白いモヤの中から現れて俺の右手側に寄り添う。彼女の右手が見えにくい俺の右手側に来たのは、それは俺を思ってなのか、自分自身を思ってなのかは分からない。チラリと見えた彼女の肩までの右半身は先程の炎の影響で衣服が燃え落ちており、右手は下半身の衣服のポケットに突っ込んでいる。そのポケットから見える右手首は、痛々しいかもどうか分からない程に、黒ずんでいた。

「お兄さん、そろそろ喋ってくださいよう。さっきからずっと見つめられっぱなしでナナミちゃん困っちゃうなぁ。この手、気になります?」

 心配を込めた視線が伝わってしまったのだろう。右手は変わらずポケットに入れたまま、彼女は少し寂しそうに笑う。

「だいじょーぶ、平気ですよ。でもこれが終わったら私のカッコよかったとこ、三つは上げてくださいね。約束ですよ? じゃあ、ナナミちゃん本日最後のお仕事いきます!」

 右手はずっとポケットに入れたまま、けれど彼女は左拳を勢い良く掲げる。その拳をゆっくりと開くと、綺麗な細い指の周りの空気が冷えていく。まるでこちらは冷気の指をつけているみたいに思えた。水蒸気が、ポトリと小さな氷になり地面に落ちていく。まるで霰が振るような音が、部屋中に響く。

 

 そして、彼女はその冷気を纏う左手を、思い切り振り下ろした。

 

「これは流石にカチンと来るでしょ!」

 彼女の左手からより強い冷気が部屋の中に吹き込む。それはまるで暴風のように、あっというまに部屋中に充満し、水蒸気を凍らせて行く。そして、彼女が全身びしょ濡れだったのと同じように、盾持ちノッカーもまた濡れているに違いない。


 しかし、ナナミも俺も水蒸気は浴びており、体中濡れている。彼女の身体もまた冷気に晒されているのに、凍る気配は無い。俺が不思議そうな顔をしてナナミを見ると、彼女は照れくさそうに笑う。

「へへ、ナナミちゃんはね、意外とバカじゃないんですよ。 ほら、あったかあったか」

 ナナミがいつのまにかポケットから右手を取り出して、焼け焦げた黒い拳を握りしめている。その手をパっと開くと、彼女の右手ははもうポケットに入れる必要が無くなった。彼女の右手は灰となり、サラサラと床に落ちる。それは灰になって尚強い温度を持ち、俺達の周辺を温めるのに充分な温度を持っているようだった。


 それ以上に、彼女の自己犠牲と言うべき行動に驚き、俺は何とも言えずにいた。

というよりも、何か言うにしても『力の赤』の副作用で未だに話す事は出来ないのだが、視線から大方の感情は彼女に伝わっているようだった。

「びっくり? びっくり? でもお兄さんが部屋まで連れて帰ってくれたらいいだけですから。ドアノブは左手で、ね?」

 彼女は慣れたように、床に落ちた自分の元右手を見つめる。

「さっきのナナミちゃんスーパーキック。カッコよかったでしょ? でもあれで右足も結構ダメになっちゃってるから、帰りはお姫様抱っこかなー! だって一発で私の壁壊せなかったもんなー!」

 彼女はお姫様抱っこ推奨派らしい。ロマンに生きる人なのだろうと思いながらはしゃぐ彼女を見て、けれども凄く心が痛んだ。未だに何故か声が出ない自分が、物凄く歯がゆい。


 だが、そんな事ばかり考えている内にいつのまにか破壊衝動が消えている事に気づいた。なのに力はまだ充分残っている。この薬については、分からない事だらけだが、使う度に悪くなることばかりでも無さそうだ。


「じゃ、せっかく凍らせたのが溶けちゃまずいんで。そろそろ、お兄さんの番ですよ」

 ふざけていた彼女も、必死に声を絞り出そうとしている俺を見て真剣な顔になる。動けない盾持ちノッカーに目をやり、こちらを見て頷いた。


「次は一発で、ね?」

 ナナミはニッコリと笑って、俺の肩を叩いた。俺は床の灰を見て、彼女の左手を見る。氷壁を蹴り砕いた彼女の右足は、細かく震えていた。ここまでの自己犠牲を、彼女は最初から織り込み済みだったのだ。


 それなのに、笑い、はしゃぎ、ひたすら話し続けていた彼女に、俺は笑いかけた。

目を丸くした後に彼女は、変わらずの笑顔で俺を送り出す。

「うん! それじゃ格好良いとこ見せてね!」

 その頃になって、やっと俺の閉じたままだった声帯が和らぐ。

数度咳払いをすると、まだ声を出そうとすると引っ掛かりを感じたものの、声はなんとか出せそうだった。


「ああ、行ってくる」

 少し掠れた声だったが、ずっと賑やかだった彼女の言葉に、やっと一つだけ返事が出来た。驚く彼女の横を抜けて、未だ冷気が漂う部屋に足を踏み入れた。


 盾持ちノッカーまで、後り十メートル

右腕も、左腕も、力が漲っている。


 残り、五メートル

右足も、左足も、床を強く踏みしめている。


 残り、三メートル

右拳に、力を込める。


 残り、一メートル

左足を、強く踏みしめる。

右腕を、大きく振りかぶる。

 

 残り、前へ、前へ、前へ。


 残り、零距離。

氷の砕け散る音が、部屋中に響いた。


 二度目の失敗は無い。盾持ちノッカーは氷漬けのバラバラ肉片に変わり、後ろではペチペチとぎこちない拍手の音が聞こえていた。

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