DAYS1 -9- 『貞操が! 貞操を! 貞操ですか!?』

 俺は眠るような穏やかさで呼吸を続てけているヨミの体を丁寧に抱き抱えて、俺が飛び出したまま開けっ放しにしていた自室のドアへと向かう。

 

 ヨミは確か、部屋が開いた時に彷徨い始めるノッカーの数は一体から四体程と言っていた。倒したノッカーはヨミが俺と出会う前に俺の部屋のドア前で撃ち抜いた一体と、たった今俺が目玉をぶち抜いてやった一体の、合計二体。ならばまだこの部屋に新しいノッカーが向かってくる可能性、というより危険性は多分にある。


 ヨミはその可能性を危惧して部屋を出たのだから、俺もまたそれを警戒すべきなのだろうが、目眩と共にもう既に薬液が切れ始めているのが分かった。

全身の力が抜けていく感覚、気を抜けばその場で倒れ込んでしまいそうな程の倦怠感。そんな俺と、傷は治っているものの気絶したままのヨミでは追加のノッカーと出会っても戦える余裕なんて無いのは明らかだった。


 更なる危険を先延ばしにしてしまったような気がしてやまない。事実これ以上ノッカーが現れたとしたなら確実に先延ばしにしているのだ。それでもとにかく目の前の危機は去った。ならば一旦自室に退避するのが最適解のはず。そう思い、俺はヨミを抱えて自室の中へ戻りドアを閉める。


 ドアノブから手を離すのと同時にいくつもの金属が擦れるような音を聞いた。どうやら施錠もまた俺の手を通じて行っているらしい。だが俺に出来るのは手を添えるだけで、俺の預かり知らぬ所で幾重にも厳重な何かがなされているようだ。最後のガチャリという重低音で、どうやらドアの鍵が完全に締まり切ったという事が分かった。


 それを意識した途端に急に全身の力が抜け、抱えていたヨミを落としそうになる。


「っっとっとぉ!」

 思わず声に出る程すんでのところで持ち直し、何とか自分が眠っていたベッドまでヨミを抱えたまま辿り着き、寝息を立てている彼女をベッドの上にゆっくりと乗せた。そうして改めて一息付いた頃には、もう俺の意識も失いそうになっていた。


 おそらくこれは安全な自室に戻って来られたという、精神的な安堵による弛緩のような物ではない。薬液の副作用だと分かる程の身体的な疲労感、いわゆる反動というヤツが来たのだろうと思った。あれだけの力を前借りした分を、今全て払うかのように全ての力が抜けていく。何となく床に寝転ぶのも格好悪いなんて事を思って、俺はベッドの端に頭を乗せた。

 

 眠りに誘われかけている頭を無理やり叩き起こして、最後の力を振り絞って彼女に毛布をかける。そうして改めてもう一度彼女の呼吸が正常なことを確認した所で、俺の意識もまた閉じていった。


 それからどれくらい経ったのだろうか。眠ってしまっていた事は勿論分かるが、時間の感覚は無い。しかし覚醒した時には疲労感はだいぶ抜けていたから、少なくとも三十分やそこらじゃないのは確かだろう。そうして、覚醒したと同時に体が震えていることに気付いた。というよりも覚醒させられたというのが正しい。


 俺の身体は揺れていた。もっと言えば、揺らされていた。正確に言うのであれば、肩を揺らされながら耳元で声もしていた。

「おにーさん、おにーさーん? 生きてますよね? とりあえず起きましょ、起きてくださいよー……。私達、多分いっぱい寝てますよ?!」

 決して夢ではない、これは紛れも無いヨミの声だ。先程まで命を失いかけていたとは思えないくらいの、明るい声が俺の意識を覚醒させた。その声色からは、彼女の中で己の生存理由についての困惑は終わっていたのだろう。とりあえず俺を起こそうと明るい声のまま俺の肩を揺さぶっている。


 一方の俺は本当の意味で安心して、また少しだけ目尻が熱くなるのを感じた。それを少し恥ずかしく思いながら、寝起きなら気づかれないかと思い、俺は目を擦りながらゆっくりと顔を上げる。

「おはよう……。とりあえずは、無事みたいで良かった」

「はいっ、おはようございます。まずは説明を……、ってうわ! お兄さん目真っ赤じゃないですか!」

 そこまで強く擦ったつもりも、この短期間でそこまで泣いたつもりも無かったのだだ、あっという間にバレてしまった。

「いや、気にしないでくれ。寝てたから、寝てたからだよ。多分……」

 照れを隠すように誤魔化してはみたが、きっともう遅いだろう。けれどその誤魔化しを真に受けるだとかそういう話でもなく、ヨミはただ妙な顔をしてから、不思議そうに俺の目を覗き込んでいた。恥ずかしいからやめてほしかったが、それよりもその無邪気さに少しだけホッとした。

「えぇ……? まあ、お兄さんがいいならいいんですけど……。でも鏡で見てみてください。本当にものっすごい真っ赤ですよ?」

 それは確かにおかしい、眠っていたのはそう長い時間ではない。やや嫌な予感を感じつつ、俺は言われるがままにバスルームの中の洗面台の所に鏡があったことを思い出し、確認しに行く。結果として、泣いていた事はバレていない事が分かった。


――何故ならば、俺の目は本当に真っ赤に染まっていたのだ。


「ねー? 真っ赤でしょー?」

 ドアの外から聞こえるヨミの声を聞きながら、明らかに涙などのせいでは無いレベルの、充血なんてレベルを越えている自身の赤い目を見つめる。この真っ赤な目の色には見覚えがあった。叩き潰した感触すらまだ残っている。俺は思わず絶望に駆られるかのように呟いていた。

「これじゃ、まるで……」


――まるで、あの大型ノッカーの目のようじゃないか。


 嘲笑いながらヨミの首をへし折ったアイツのような、赤い、赤い目。力についても、精神状態についても、もう平常状態に戻っているのはなんとなく分かる。だがこの赤い目だけは言い訳のしようもなく、理由も分からない。ただ、ハッキリと赤くギラついていた。視力には問題は無いようだったが、これも反動の一つなのだろうと思うと、憂鬱だった。治る事を祈りながらもショックを引きずりつつ俺は部屋に戻り、ベッドに座って首を触っているヨミを見た。


 彼女と目が合うと、とりあえず意味は分からずジトーっとした目で睨まれてしまった。

「それで、おにーさん。私が寝てる間に、何かしましたよね……?」

 ヨミは訝しげな目でこちらを睨みながら、太ももまでかかっていた毛布を少し捲った。ノッカーに破られた自分の衣類が目に入ったのか「あわわわわ……」などと言いながら慌てて元に戻している。


 そのジーンズが破かれた件については俺は何の関係も泣い。ノッカーとの戦闘中の事だ。それに何があろうと俺が破くなんてわけが無いだろうに、彼女もどうやらこの状況に少し混乱しているようだった。

「何かしたかと言われたら、したな」

 俺は、彼女に対してやってはいけないことをしている。それも一つじゃ済まない。だが言い方が悪かったという事は言い終わってから気付いた。であれば二つじゃ済まない。

「やっぱり! 私の貞操が! 貞操を! 貞操ですか!?」

 もはや彼女の発言は混乱どころの騒ぎではなく、そもそも大型ノッカーと対峙してた俺達なのに、貞操がどうのこうの言える余裕なんて無かっただろうに、そういう所はやはり女の子なのだなと思った。

「いや、同じベッドには寝ていたけれど、頭を乗せていただけで貞操も何も無いだろうよ……。先に起きたのそっちだろ?」

 彼女は全身を横にして毛布付き、俺は頭を端に乗せていただけ。それでそんな勘違いをされてしまうというのも中々手厳しい話だ。


 ただ、それと同じくらいに自分勝手な事をした自覚はあった。恨まれるという意味では負けず劣らずの事をしてしまっているのだ。

「だから貞操云々は問題無い。にしても、事実としてそれ以上の事をしたかもしれないんだよ」

 俺は真剣な顔でヨミに向き直って、三種の薬液を見せる。

「俺のせいで、ヨミは一回死にかけたんだ。だから、これを使った」

「注射器、ですか?」

 深刻さが伝わったのだろう。俺の声色からどうやら彼女も多少は冷静さを取り戻してくれたようで、興味深そうに俺の固有武器を見ている。

「赤が力、青が感覚、緑が生命なんだってさ。そうして俺は赤を使って、何とかあの大型を始末……したよ」

「それで私には緑、ですか」

 物分かりが良いのは助かるが、ほんの少しの沈黙の後、ヨミはまた少し興奮気味に俺に問いかける。グイと顔を近づけるその勢いで彼女にかかっていた毛布がズレて床に落ちるが、どうやらそれにも気付いていない。

「で!! 何処に打ちました?!」

 彼女は自分の体を両手で抱きしめ、少し赤い顔をしながらやや困惑気味に聞いてくる。確かに知らない間に自分の身体を触られるというのも年頃にしては難しい話だ。

出会ってまだ数時間、意識的に手を触ったり握手をするのは同意の上ならば良いとしても、意識が無い間となると不安になるのも分かる。

「ええと……。首が一番マズそうだったから、首に」

 勢いに少し気圧されたまま答えると、彼女は軽く息を吐き出す。しかしワチャワチャと騒がしい会話はどうやらまだ終わらないらしい。

「首かぁ……、ならいいんですけど。ってじゃあこのボロボロの服は何です!? というか毛布取らないでください!」

「自分で落としてたんだっての!」

 彼女は自分で落とした毛布を急いで拾って肩までかぶり、頬を膨らませる。さてはこの娘、素は結構天然かもしれない。俺は小さく笑いを堪えながら、二人が今くだらないことを言い合えていることに、心から安堵した。


 涙は流石にもう出ないが、出てもまあ、今の赤い目ならさっさと拭えば気付かれないだろう。とはいえ、ノッカーとお揃いなんて御免なので治ることを期待はしているのだが。

「そんなわけで、まあこれが俺の力みたいだ」

「みたいです、ね……。早速使っちゃったみたいですけど……」

 言われて注射器の残り回数を眺める。赤と緑の減った量と、未使用の青の容量から考えて、使えるのは五回分くらいだろう。この数が限られている可能性をどう活かしていくべきかという事を考えながらも、俺はこれらを使い切った後でもまだ人でいられるのだろうかという不安が、胸の中でグルグルと渦巻いていた。


「悪かった、アイツを殺すのが後少しでも早かったなら……」

 事実を伝えるべきだと思い、ありのままの言葉を話すとヨミは真剣に聞いてくれた後、笑ってくれた。

「殺せない人は実際に多いですから、良いんですよ。私が殺れなかったのが悪い。そう私は思ってます。だから私がおにーさんに言う言葉はありがとうって言葉でいいんじゃなかなって」

 その優しさに甘えるのは申し訳ないと思いながらも、俺は俺を許せないままに、彼女の許しを得る事が出来た。もうあんな目には合わせないなんて格好つけた言葉だけを隠して、小さく拳を握りながら。

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