DAYS1 -8- 『ノックの数は決まってんだよ』
俺が部屋を出てヨミを視認してから、眼前に大型ノッカーを捉えるまでのその時間は、爆ぜた心音により送られた血液が心臓に戻るよりも早く感じた。
体を捻り、右足を引き、地面を蹴ろうと力を込めると、電流が走るように右足に力が伝わる。
この熱の、血液の、細胞の、遺伝子の暴走と呼んでも良い程の力の中では、そんな事すらも当たり前のように思えて、この力についての疑問すら浮かばない程だった。
その力のままに足を地面から蹴り上げた瞬間、強い磁石の同極を無理やりに押し付け、それを反発させたかのような速度で体が跳ねる。
――ヤツまでの距離は、もう無い。
「狙いも、外さない」
眼前にノッカーを捉え、向こうが反応するよりも先にヨミの首を握るノッカーの腕を、自分自身が異形と化したような気さえする右手の力で、強く掴んだ。ノッカーがガ行を並べ立てたかのような低く耳障りの悪い唸り声を上げる。人型の事も相まって人間の名残か何かでは無いか、などと考えてしまいそうな程に、苦しむその声は濁音が強いものの、動物の鳴き声というよりも人間の声に良く似ていた。
更に右手に力を込めると、思ったよりもノッカーの腕は柔らかく、指が深く沈む。下水か何か塗れているようなドロっとした気持ち悪い感触に悪寒を覚える。
しかし、声をあげるだけあってノッカーも痛みを感じるのだろう。力を込める度、その痛みを訴えかけるかのようにノッカーの唸り声が叫び声へと変わっていく。固い骨のような物に指が触れた自分の指が強く、まだ強く、もっと強く、何処までも強くその骨すらも軋ませる。指が沈み千切れる肉から血が大量に零れ落ちる。それでも俺は折る為に、ただ折る為に力を込める。
ノッカーの声は、もう声にならない程だった。だけれど、目の前にいるヨミからはもう声も聞こえない。
もう、そのノッカーの姿を見る気も無かった。ただ、この彼女の首を掴む腕だけを、圧し折れば良い。そう思った瞬間、鼓動が高まる。血液が踊り狂う様に循環していく。体中の体液が沸騰しているのでは無いかと思う程に熱い。これはきっと強さではない。決して高揚感でも興奮しているわけでもない。この鼓動の理由は、未だにノッカーの手を掴んだまま動けない自分が良く分かっていた。
――生物を殺すという恐怖。
痛み苦しむノッカーの声を聞くと、後は圧し折ればいいだけなのに、ノッカーの目尻に溜まった涙に気が取られる。いつのまにか、この化け物は涙すら流していた、赤い目から透明な雫が流れ、口からもまた泡のような物を吹いている。
――この化け物もまた、生物なのだ。
ならば俺はたった今初めて、確かに命ある生き物を意識的に殺そうとしているのだ。そう、思ってしまった瞬間から恐怖が身体を襲ってきた。虫を踏まずに歩いてきたわけではない。だけれど指を噛んだ野良猫を殺そうと思った事など、一度も無い。驚異のレベルの違いこそあれど、殺すというのはそういう事なのだ。今この瞬間であっても俺は甘い考えをしている。未だその延長線上にいたのだ。だからこそ、今この目の前にいるのが人型の化け物だったとしても、ヨミを殺そうとした化け物だったとしても、一瞬の戸惑いが生まれてしまっていた。
自分でもひどく驚いた。俺は、こんな化け物にすら、ヨミを殺そうとした化け物への殺戮すらを許せない男なのかと。同時に、取捨選択すらマトモに出来ていない混乱している頭をぶん殴りたい衝動にも駆られた。時間にして数秒の間に、異常な程の思考が回転する。その手は、ノッカーの首を圧し折りこそしないものの、力は未だ緩めてはいない。だがその心は二律背反どころでは無い、自分の中に幾重にも重なり矛盾し続ける思考が回り始める。
殺すとは、守るとは。俺は、この生物の命を奪っても本当に良いのか。同じく命がある者として、本当に命を奪う権利があるのだろうか。
苦しむ彼女を見た時に覚えた怒りは、本当に彼女への想いだっただろうか。
俺はもう既に、この付け焼き刃のような力に飲まれてやしないか。
――それでも、それでもヨミが危ないのだから、圧し折るべきだ。
当たり前の事を、涙を流す化け物を見ただけで、痛み叫ぶ化け物を見ただけで忘れかけていた、それは悪魔の声だったのかもしれない。
選ぶ余地すらないというのに、その簡単な答えにたどり着くまで、恐怖よりも上回らせるべき感情を思い出すまで、随分とかかってしまった。やっと現実を見ることが出来た俺は我に帰る。
そうして改めて全力を込め直そうとする。
「……悪いな」
呟いて、殺す為の力を込める。
バキリと、骨が折れる音が聞こえた。
だが、それは俺の腕の先からではなく、ノッカーの腕の先からだった。
その音と共に、彼女の首がヤツの手によって押し潰され、首のすわりの悪い人形が、ダランと両手をたらして床に落ちるように、ボトッと彼女の体が床に落ちるのを、見た。
「あ……。え……? あ、あ。あぁぁぁあああ!!!」
怒りが爆発する刹那、覗き穴越しではなく、本物のノッカーの顔をマジマジ見る。
それはありとあらゆる人間の器官を歪にしたような姿。左目は潰れてほとんど無くなっているのに、赤い目が、大きな赤い右目が、涙を流したまま嘲笑っている。鼻であろう部分も耳もであろう部分も、潰れているのに、大きな口が、ずっと嘲笑っている。
それは、紛れも無い狂気であり、悪意とも取れる物だった。殺意すらを常識だと、当たり前だと言わんばかりの狂気。骨を折る為に力を込めていたのだ。力を込めていたのは俺だけでは無かった。
チカチカと、意識が切れかけの蛍光灯のように振れる。こういう時に叫ぶなんて、自分でも信じられなかった。ただ、ただ純粋な怒りが、頭の中の余計な思考を洗い流して、声へと変換しているようだった。
――怒るべきは、自分のこの甘さ。
俺のこの感情は、叫びは、決して狂気ではない。自分への、そしてヤツへの怒り。そして、薄いグラスに氷の粒が当たり、パリンと割れるかのように、怒りは爆発した。
数秒前までヨミに触れていたノッカーの腕を、俺の迷いのせいでヨミの首を押しつぶしたノッカーの腕を、掴んだままの右手で掌握するように、圧し折る。
「―――!! ―――!」
ノッカーが何か叫んでいる。
藻掻いている、泣いている。
――こいつは、指を噛んだ野良猫なんかじゃあ、無い。
恐怖、逃避。殺すという行為への、言い訳。そんな物のせいで、俺は一人の少女を、亡くした。右手を圧し折られ叫ぶノッカーの口内に、牙を見た。嘲笑う余裕はまだあるだろうか、その破れかぶれのノッカーがその口を俺の顔を向けたその瞬間噛み付こうとしたのだろうと気付く。
「喰わせねえよ」
俺は右足を一歩引き、噛み付きにくるノッカーの顔を避け、その下からヤツの顎に向けて右膝を打ち上げる。眼前だったからか、より大きなノッカーの濁音混じりの「ガ」や「ギ」で構成された唸り声が耳に届き、ただただやかましいと思った。だからノッカーの喉を掴み、思い切り壁に叩きつけた。
「黙ろう、な!!」
ノッカーの首がへしゃげる。もう戦意は残っていないだろう。
そうして、力に踊らされたにも関わらず、恐怖に惑わされた哀れな俺だけが殺し合いの場に無傷で立っている。さっき、こんな臆病な俺を守る為に単身で死地に赴いたとある少女が、少女の倍程もある化け物にされていたのと同じように、俺はその化け物の喉を握りつぶした。
口内の牙が自分自身に突き刺さったのだろうか。『ヒュウ』と吐き気を伴う血の臭いの音がノッカーから聞こえた。呼気もまともに通らなくなったであろうノッカーは口から赤い血液を吐き出し、そのままノッカーは壁を背に膝を付く。
膝を付いたノッカーは、丁度立っている俺の肩程の位置から俺の顔を変わらずに見ている。これ程ダメージを受けても尚、それでもまだ俺を嘲笑うようにニヤけたままのノッカーに、苛立ちを覚えた。人型だけに、より質が悪い。
嗤う右目には、銃痕が残っていた。それは紛れもなく、ヨミが放った銃弾の痕だった。
「あぁ……、頑張って、くれたんだよな」
彼女の死闘を思いながら、その嘲笑う右目を、俺の右拳で全ての力を込めて貫く。
拳が右目に入り込んでいく吐き気のするような感触も、怒りが全て塗り消してくれた。
「…………優しいのはダメだって、言われてたのにな」
一度目。
貫く。
ノッカーは両手を動かし抵抗した。
引き抜く。
その抵抗が徐々に弱まる。
二度目。
貫く。
ノッカーが最後の力を振り絞っているのだろう、叫びながら俺の右手を止めようとする。
だが、もう遅い。
引き抜く
そして、三度目。
貫く。
ノッカーの体は、もう動かない。
引き抜く。
ノッカーの声も吐息も、もう聞こえない。
「ノックの数は決まってんだよ。……畜生」
息を切らしながらも四度目の拳をノッカーの眼の奥へ叩き入れると、その手はノッカーの頭を打ち抜き、壁へと辿り着いていた。その衝撃とともに、少しずつ心臓の昂ぶりが消えていく。それと同時にハッとして俺はヨミに近づくが、自分の呼吸以外はもう殆ど何も聞こえなくなっていた。
倒れたまま少しも動かないヨミの頬を触る。まだ温かい、だがその姿は見るに絶えない。衣服は引き裂かれ、特に太腿と首の出血が酷い。
――俺がすぐに立ち向かっていたなら
考えてももう遅い後悔が、頭を巡る。その思考を振り切り、ヨミの状態を確認していく。頭を支えられていない首は繋がってこそいるが、その命が失われていくのが見て取れた。
「…………っ!!」
言葉にならない。事実としてノッカーに殺された彼女だが、結果的に彼女を殺させてしまったのは、紛れもない自分だ。もう、顔を近づけても呼吸すらまともに出来ていない。
――けれどもしかしたら、もしも俺が"当たり"を引いていたとするなら。
「この為に、あったとするなら」
彼女が俺の為に引いてくれた外れクジを覆す事が出来るかもしれない。そう気付いた俺は壊してしまいそうな勢いでポケットから緑色の薬液を取り出し、願いながらそっと握る。
マニュアルには『生命の緑』と書かれていた薬液。ならば考えている時間こそ勿体ない。
――死を蘇らせる魔法なんて、きっと無い。
もう既に彼女からの呼吸音は聞こえなくなっていた。それでも、戦闘経験の無い俺の力をあそこまで引き上げた薬の同類ならば、あの殴り書きのマニュアルの書いている通りだとするならば、もしかするとまだ間に合うかもしれない。
「俺以外には刺さらないなんて、やめてくれよ……?」
俺はまだ暖かい彼女の頭部を丁寧に支えながら『生命の緑』と書かれていたペンタイプの注射器を、彼女の首に当てる。
――まだ、ほんの少しでも鼓動が残っているならば。
「全部、俺のせいだ。だから謝らせてくれ。頼む……、頼む……!」
祈りを込めて注射器を押し込むと、針が出た感触を指に感じた。あとは、この生命の緑の力が、彼女に効くことを信じるしかない。
もう二度と動かないノッカーを横目に、ただひたすら祈った。そして、永遠のように感じた数十秒の後、耳元で小さな呼吸音が聞こえた。
「助……かった……?」
掠れた言葉と共に、涙が溢れた。目をこすり彼女の状態を見ると、太腿の出血が次第に止まり、握り潰されて形すら変形していた首が、音も立てずに静かに蠢いている。その光景は不気味な物には見えたが、彼女が生き返るならばそんな事どうだっていい。緑の薬液を与えられたヨミの身体はあっという間にその衣服を除いて、元の姿へと戻っていた。
「あぁ……、良かった、良かった……!!」
顔を近づけて、改めて呼吸を確認する。まだ意識は戻っていなかったが、眠っている時のような穏やかな呼吸をしている彼女を見て、やっと零れ続けていた涙を止めることが出来た。
「良かった。本当に……」
鼻をすする、完全な涙声になっているのも分かる。後悔は消えないが、今は安堵だけが心を包み込んでいた。一人呟きながらも未だ残っている力で、強く拳を握っていた。何よりも優先すべき物を失いかけて、やっと気付けたのだ。
――もう、二度目は無い。
化け物の命と彼女の命を天秤にかけたわけでは決して無い。それでも、結果としてそうしてしまっていた罪は背負わなければいけない。けれど、もう絶対に二度目は無い。俺はこの命を以てでも、彼女の為に生きようと、小さく誓った。流れそうになる涙を抑え、俺は力を入れすぎて固まっていた拳をゆっくりと開いて、ヨミの頬へそっと添えた。命の暖かさが、生命の鼓動が、ゆっくりと戻っていっているのが分かった。
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