おねえちゃん

朔月

本文

「おねえちゃん、おねえちゃん」

声が聞こえる。たったひとりの妹の声。電車に揺られ職場に向かう道中うつらうつらとしたら、陽炎のかたわらにあの子の声が聞こえた。

「いつまで見て見ぬふりするの」

私は春に三年近く付き合った彼と結婚する。幸せの絶頂にいる私を見透かしたかのように私たち家族の前から姿を消したあの子の幻影がときおり現れる。

「いつまでそうやって取り繕うの。おねえちゃんが思う正しさなんてこの世に存在しないのに。」

私は生まれた時からこの世は間違いでできているのだと知っていた。ずっとはらただしかった。いつも怒っていたようにさえ感じる。優しい人から死んでいくし正しくても報われない。正論を言っても親は喧嘩し続けるし、犯罪も減らない。

そんな無慈悲な世界と真反対に彼のそばは居心地がよかった。その問いかけや苛立ちに対する答えをすべて持っているようにすら思えた。この世にはちゃんと救いも報いも存在するのだと知ることができた。彼がいたからかみさまを知ることができた。

「おねがい、おねえちゃん、もう無理だよ、止まって」

泣きながらあの子は言う。小さいころからよく泣く子だったな、などと思い出しながらそっかもういないのかと諦観に似た何かが沸き上がっては消える。

「ねえ、もう救わなくていいんだよ。」

あの子が家族を捨てて今まであった問題はほとんどなくなった。あの子が悪かったんじゃないかと思うほどに。いや、そんなことない。あの子は自分がいなくなる代わりに、悪役になることでこの家を守ったのだ。どこまでも優しい子だった。

「おねえちゃん、もう休んで、お願い。もう自分を責めなくていいんだよ。おねえちゃんは自由なんだよ」

絶対にやりたくなかった結婚式も披露宴も真っ白なドレスも彼とならいいと思えた。新しく家族になる人たちが喜んでくれるならいい。大事な家族のためだものね。髪が短いと男の子に間違われて彼が困るから髪も伸ばした。あの子の髪は真反対に短くなっていく。

「おねえちゃん、自分を救って。他の人なんてどうでもいいから。」

あの子は今どうしているのだろうか。あの子のためだけに私たち家庭の問題に介入しようとした彼と幸せにしているのかな。家庭の問題に口出す人なんてろくな人じゃないから心配だ。

「おねえちゃん、きいて、おねがい。」

 浮きたくないからと彼の兄の結婚式で良くあるワンピースを着た。

「私の七五三でスーツを着たおねえちゃんが好きだったのに。」

脳内であの子はそっと呟く。苛烈に自分を傷つけるものに対して攻撃するのに、あなたを否定する気はないと私の前で下手に出る。ずっと書いていた小説を母親に言われてすべて捨てた時もそう。

「本当にいいの?」

そう何度も何度も決意が変わらないかと聞いてきた。抗うのも面倒だし、大学を出て就職もせずに小説ばかり書いている私を二年も放っておいてくれたのだ。その間に結果を出せなかった自分が悪いのであって、いいあきらめ時だ。

「そうやってずっと生きていくの?」

私が小説を捨てて二か月後にあの子は出て行った。何度も話し合いしようとしたのだがその度に

「現状がつらい人に正論を投げかけるのはやめた方がいい」

といわれるばかりで話にならなかった。あの非常識な彼の入れ知恵だろうか。結婚式くらい出席してくれればいいのに。

(ごめんね、わたしにおねえちゃんは救えないよ)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

おねえちゃん 朔月 @Satsuki_heat

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る