第2話 荒波

 何事もそうであるが、万事、進歩や勝ち進んでいる時は楽しいが、そうでなくなった時はツライ。哲也も全国からほぼ同じレベルで集まったエリート集団である奨励会に入って同じ辛酸を舐めることになる。奨励会6級というと算盤教室の6級程度を想像する方も多いと思うが、一般のレベルに置き換えたらアマ6段という途轍もなくハイレベルな位置付けとなる。


 考えてみれば、プロ野球選手やJリーガーなどと違って、強ければ比較的高齢まで一線で指しこなすことができる頭脳競技であり、神武以来の天才と謳われた加藤一二三などは、77歳まで現役を張っていたわけであり、新陳代謝が遅い業界でもあるため、将来に棋譜を残すが価値あり、見るものを唸らせるだけの知力溢れる者のみを若干名プロにしていかないと自らの頸を締める結果となってしまうのである。従って、6級から3段へと駆け上がり、上期下期とそれぞれ上位2名ずつしか棋士になれないという非常に狭き門となっている。人は評して、棋士になるより東大に合格する方が易しいと言う者もあり、実際、かつての名棋士である米長邦雄はリップサービスも兼ねて「兄貴たちは頭が悪いから東大に進んだが、私は頭が良いので将棋棋士になった」と話したのは有名な話である。


 哲也も奨励会に入門を果たしたものの、周りを見渡してみれば、毎年の全国優勝者は軒並み顔を揃えており、年齢差関係なく、鎬を削り合う関係となる。


「哲也〜、はい、こっち向いてー!笑ってー、ハイ、チーズ!」奨励会の入門が決まった時に東京千駄ヶ谷の将棋会館前で母に撮ってもらった写真が思えば、最後の将棋会館前で撮った笑顔の写真であった。鳩森八幡神社に棋力向上を祈ったのもこの時が最初であった。


 例会と呼ばれる奨励会員同士の対局が月に二度のペースで一日に2局組まれ、半年間戦い続け、三段まで昇段をし、さらに三段リーグの成績の上位僅か2名のみが棋士になれる、というのは先に話した棋士が自らを守るということと、その三段リーグも年齢制限があり、26歳を迎える年までしか在籍できず、それまでに四段昇段、つまり、プロになれないと、奨励会に入会した時の供託金50万円の返金と在籍の記念駒を渡されて退会となる。厳しく感じられる制度のように言う者もあれば、期限を設けることで、才能なき者へ次の人生への歩みを促し、人生を過たないようにするための優しき制度という者もいる。昭和の時代には、「退路を断つ」という意味合いから、高校にも通わずに背水の陣で人生を賭しプロへの道を目指す者も多かったが、時代の移り変わりとともにせめて高校までは通う者、中には大学まで進学しつつプロを目指す者なども現れてきた。400年に一度の天才と言われた藤井聡太でさえ、高校には卒業目前まで通っていたし、大学まで進んだ例としては、谷合廣記の東京大学を始め、タイトル獲得経験者の中にも広瀬章人や中村太一の早稲田大学や糸谷哲郎の大阪大学などがある。かつて米長邦雄が言った言葉が裏付けられるように、棋士になるような人物の頭脳は極めて優秀なのである。また、こうした進学しつつプロ棋士を目指すという背景には、中学卒業資格のみで、26歳で世に放り出された者たちの「苛烈なその後の人生」が段々と詳らかになってきたからに他ならない。2022年度にプロ棋士となり、中原誠がかつて叩き出した最高勝率を上回る勢いで勝ちまくっている徳田拳士も二段リーグと三段リーグをそれぞれ4年ずつという、大学と同じ期間を要しており、いかにその鎬を削り合う過酷な戦いであるかが想像できよう。


 従って、元々保守的な家柄に育った哲也が大学まではきちんと進学するというのは、まだ、大学受験がいかなるものか分かってもいない奨励会入会時に両親と約束させられた唯一の約束ごとであった。


 折しも、AIが将棋界も席巻するようになっていたこともあり、哲也もアルゴリズムというものに興味を持つようになったことから、電気通信大学への進学を志し、奨励会の例会での勝ち抜きのための最新型の研究やそれを支える定跡の暗記、詰将棋による終盤力の向上などとの両立は大変であったが、晴れて電気通信大学への入学は先に果たした。


 しかし、そもそも、同じような棋力の持ち主が全国各地から集まり、同じような研究を行い、特別な利用する道具の優劣などもない世界では五分の戦いになるのが当たり前で、その中で突出した成績を収めるのは至難の技である。哲也も御他聞に漏れず、二段リーグ突破に4年を要し、三段リーグでは5年目のシーズンを迎えて25歳となっていた。

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