第9話 【最終章・そして現実】

 【最終章・そして現実】

「やがて、その森の終わりがやってきた」

と、翔次は話し終えた炭丸に付け加えるように言った。「それがここのダムの完成だよね?」

そうだ。と、炭丸は風が吹いただけでも掻き消されてしまうほど小さい声で言った。「木は切り倒され、谷を中心に水が貯められていき、人間によるダムが完成した。住処を奪われた鳥達はそれに対して怒りも悲しみも抱かず、それをいつか必ず来る運命であったかのように受け入れると、それぞれ自分の道を模索してどこかへ旅立って行った。しかし、未練と孤独感に苦しみ続けた俺だけは森のあったこの人造湖のほとりにずっと残り続けることにした」

「楽しい時間を通り越せば選択の試練がやってくる」

と、翔次は呪文を唱えるかのように切り出した。「これはさっき君が教えてくれた言葉だよ。まさかそれがダムによる水没と繋がるなんてね。……やっぱり炭丸は僕と似ている気がするよ。きっと、最後まで森を見届けたい使命感が君をそこまで突き動かしたんだね。ん?あれ?どうして僕がそれを理解できたのだろう?……」 

翔次はふと顎に手を添えて考え込む。

炭丸は黒一色の眼でじっと翔次を見つめ続けていた。

目の前の水面で大きな魚が姿を見せたかと思うと、直様水中の奥深くへ潜っていった。遠くの浅瀬では鷺(さぎ)が獲物を探してゆっくりと歩き回っている。すぐ近くの草むらでは蟷螂(かまきり)が大きな蝶を捕らえ、滅多に無いご馳走として美味しそうに食べていた。

翔次はふと炭丸の目を見た。その黒一色の眼はまさに虚構と深淵そのものだった。

「そうか、全て思い出したよ。炭丸」

再び春一番が吹き荒れる中、翔次はゆっくりと頷いた。

「僕はかつて君だった」

「そうだ。俺はかつてお前だった」

一人と一羽は人造湖のほとりで不思議と笑い合い、いつの間にか涙を流していた。何故涙を流していたのかは両者ともうまく説明することが出来なかった。

翔次は涙を袖で拭うと炭丸を見て言った。

「炭丸、君は僕がここに置いてきてしまった記憶そのものだったんだね。それも小学校時代の記憶……」

「ああ。お前がクラスの学級委員長をやっていた『東ノ森小学校』での記憶だな」

「うん、そうだったね。炭丸は僕自身……岩哲は少し短気だけど情に厚い餓鬼大将……広太郎はそんな岩哲を支えるポッチャリで大人しい理解者……裕子は明るくてクラスの人気者……道彦は一番チビだったけど文武両道で成績優秀で女子達から一番モテていた男子だった……山介は自分勝手だけど根は素直で優しい奴……篤は面倒見のいい大柄な奴……美智子はクラスの中で真面目で仕事のできる奴……次郎は悪戯好きでよく先生に呼び出されていたかな……燈さんは男勝りの女子でよく岩哲を背負い投げしていたんだっけ……そしてフクロウの長老は担任の一重先生……。懐かしいな。あの桜の木に囲まれた校庭でみんなとよく泥警をして遊んだんだっけ」

「ああ、どれもお前にとってかけがえのない存在だったろ?」

「うん。本当にかけがえのない存在だったよ。それに沢山の価値観に出会うことができて毎日が『星の王子さま』みたいだった……」

ふと見ると炭丸は烏の姿から小学生時代の翔次そのものになって、どこか哀れむ表情で翔次を見つめている。炭丸は彼に問いかけた。

「全部思い出したのなら一緒に議論しようじゃないか。雨の降った卒業式のあの日、俺とお前は突然分離してしまった。それは一体何故だろうか?」

二人の間で沈黙が流れた。

陽は既に高い位置まで昇っており、世界の全てを見渡しているように見えた。

やがて翔次は口をおどおどと開いてそれについて話し始めた。

「多分……多分だけど僕達の中で永遠にここに留まりたい想いと、次の場所へ羽搏きたい想いがぶつかり合っちゃったから。……それが原因なのだと僕は思う」

炭丸は冷静にじっと翔次の話を聞いている。

翔次は水面を見つめ、いつの間にか漏らしていた嗚咽を何度も繰り返した。「……僕達は忘れるのが怖かった。いつか忘れるのが。忘れてしまったらもう終わりなんじゃないかってほんの少しだけ思っていたんだ。だからここでの思い出を永遠なものにしたい願いが心の片隅にあった。だから結果として僕と君は分離しちゃったんじゃないかな?」

「そうか……なるほど。お前は俺なだけあって、考えることはやはり同じだな」

少年の姿をした炭丸は初めて翔次に寄り添い、彼を細い腕で抱きしめながら言った。「……翔次。辛かったよな」

「……掌返しをしやがって……さっき僕が死のうとした時は軽く突き放した癖に」

「それは本当に悪かった。でも、お前が本気で死のうとしていないことを証明するにはそれしか思いつかなかったのさ。……不器用な俺でごめんな」

炭丸を抱きしめ返した翔次は、「何だよ。それ」という台詞を言い放ったらしいが、激しい嗚咽により、それは聞き取れるものではなかった。

炭丸は翔次の腕に包まれながら話を続けた。

「翔次、あの日お前はここでの記憶……即ち俺を失ってしまった。だから、お前はこれから先の生き方すら分からなくなってしまったんだ。挙句の果てにそれに耐え切れず、ここで自殺を図った。俺はお前、お前は俺だ。俺が何を言いたいのか、お前なら分かるはずだ」

『お前はここでの記憶……即ち俺を失ってしまった。だから、これから先の生き方すら分からなくなってしまったんだ』と、翔次は無意識の内にその言葉を胸の中で反芻し続けた。その言葉のどこかに自分が求めているものが隠されている気がしたからである。それを反芻すればするほど翔次の中で何かが活発に動いていく。まるで何十年も動かなかった時計台の錆びた歯車が急に回り始めたかのように。

やがて、何かが千切れる音が彼の胸の中で響き渡った。嫌な音ではない。翔次のイメージの中で突然鎖が千切れ、紐がするすると抜けていく匂わせぶりな音である。

ふと見てみると、箱が綺麗に開いていた。その中身はやはり単純でシンプルなものである。今までこんな単純なものが分からず、自殺を考えるまでに苦しんでいたのかと思うと本当に馬鹿馬鹿しく思えた。

もしかすると世の中の難しい問題の大半は複雑な工程こそあれ答えそのものは至ってシンプルなものなのかもしれない。紐や鎖を強引な方法で解こうとすればするほどややこしく絡み合い、やがて取り返しの付かない知恵の輪になるのと同じように。

そう感じ取った翔次は、自責の念を顕わにした表情で炭丸に言った。

「ごめん。……でも、今思い返せば答えなんて僕一人でも分かりきっていたはずなんだ。『過去』の見えない人間に『未来』が見えるわけがない。『過去』が見える人間ほど『未来』を見通すことができる。この二つは誰もが等しい割合で与えられるものだったんだね。……多分、神様みたいな存在から」

炭丸は何度か頷き、少し揶揄う素振りを見せた。「ほう、言うようになったじゃないか翔次。俺という『過去』と向き合うことができたお前には既に『未来』と向き合う力が備わっているはずだ。さて俺の役目はここまでだ。お互い人生設計には気を付けようぜ。じゃあな」

「『じゃあな』なんて素っ気ないこと言うなよ。ありがとう炭丸。僕は君。お前は俺だ。だから、これからは—————————————」

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静まり返った病室にて、翔次はベッドで目を覚ます。カーテンの向こうからは心地良い風が日差しと共に行き来していた。

はて?ここはどこだろう?

「翔次君、大丈夫?」

ふと見ると、その横には自分と同年代の少女が心配を込めた表情で椅子に座っていた。背丈は伸び、服装は高校の制服に変わっているがその卵型の顔は昔のままだ。「もしかして、燈さん?久しぶりだね。どうしてここに?」

「翔次君がダムの湖で溺れそうになっていたところを救助されて病院に運ばれたって聞いたから慌てて駆けつけたの。私、家がダムの近くだから」

「そうか。そう言えば燈さんの家は水没予定地じゃない場所にあったよな。……色々と心配かけてごめんな」

と、翔次はそれ以外の言葉を探したが、状況を理解しきれていない中、それは非常に困難だった。そもそもさっきまで見ていたものは夢だったのだろうか?それとも—————。

翔次が言葉に詰まる中、燈は怪訝そうな表情で問いかける。

「翔次君、あんな湖で一体何をしていたの?」

困った質問だ。と翔次は思った。

「『何をしていたのか?』……うん、自殺だな」

「馬鹿なの?本当に馬鹿でしょ?」

「うん。自殺しようとしていた馬鹿だったよ。過去形だけど。今は生きる希望を見出せているよ」

「結局馬鹿じゃん。久しぶりに会えたと思ったら凄いヘタレになっているし、学級委員長としての面影は壊滅的だね」

「……燈さんは相変わらず厳しいな」

と、彼女の昔と変わらぬ威圧に圧倒されつつ、翔次は話を切り替えた。「ところで質問だけど、『炭丸』っていう名前に心当たりはある?」

「『炭丸』?」

燈は奇妙なものでも見つめるかのように宙を見上げながら記憶を探る素振りを見せると、やがて思い出した様子で言った。

「ああ、あれだよ。小学校時代に翔次君が台本を書いた演劇に登場するヒーローだよ」

「ヒーローだって?」

「ほら、烏の仮面に黒いマントの黒一色のダークヒーロー的な奴。時に嘘を吐いて悪い奴から人類の心を守る正義の味方っていう斬新な設定だった気がする。……というか考えた本人が忘れることってある?」

「え?完全に忘れてた。自分でも驚きだ」

翔次はそう言うと大胆にベッドで寝転がり、天井を見つめた。炭丸の正体について翔次の中で何か引っ掛かるものがあったが、それについてあれこれ考えるのはやめにした。……いや、まさかな。多分自分の考え過ぎだろう。

「まあいいや。俺はこれから『未来』のことだけを考えることにしたんだ。その方が人生一〇〇倍楽しいに決まってるからな」

「何?その斬新な独り言。翔次君ってそんなキャラだった?」

「え?これが本当の俺だけど?」

翔次は笑い飛ばしながらそう言うと、安堵の表情を見せた。良かった。燈さんがそばにいてくれている。それだけでも最高じゃないか翔次。

病室の窓の向こう。そんな二人のやり取りを烏と鴨の二羽がじっと見つめていたのだが、誰もそれに気付くことはなかった。

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Vol.2【少年と烏】 平良 リョウジ @202214109

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