第5話 お早い帰省を
シートベルトを締めた智仁が、車内を見回して最初に思ったことは、「古そう」という少しばかり失礼な感想だった。
智仁は自動車に詳しくないが、実家や親戚の車に比べて随分と雰囲気が違う。
まずカーナビのディスプレイがない。スマホを接続するコネクタもない。親はよく運転中に音楽を流していたが、この車にはそういった設備はないらしい。
エアコンのスイッチもやけにゴテゴテしているし、ハンドルやメーターといったものもやや無骨な印象を与えてくる。
おおよそ、一般的な女子大生が運転する車には見えなかった。
ちらりと運転席に座る凛華を見やる。コンビニの明かりに照らし出された彼女の横顔は、不思議とこの角張った車に似合っているように思えた。
「なに」
いちごミルクのボトルに口をつけていた凛華は、相変わらずぶっきらぼうだ。
「あ、いや、別に……」
慌てて顔を背けた智仁の態度をどう解釈したのか、凛華は何かに納得したような声をもらした。
「トイレットペーパー、邪魔だよね。後ろに投げといていいから」
「え、ああ……」
体を伸ばして、抱えていたトイレットペーパーの塊を後部座席に置く。
後部座席には凛華が大学で持っていたナップザックがあった。昼過ぎに大学を出てからずっとこの車に乗っていたのだろうか。
智仁の体勢が元に戻るのを確認して、凛華はキーを捻った。
ぶるん、と車体が揺れてエンジンが低く唸り始めた。この小さな車体のどこにそんなパワーがあったのだろう、力強い振動がまるで走り出すのを待ち侘びているようだ。
ハンドルを握った凛華の瞳が鋭く光ったように見えたのは、コンビニの明かりのせいか、それとも目の錯覚か。
凛華は運転席と助手席の間にあるドリンクホルダーにいちごミルクを放り込んだ。
「行くよ」
「うん」
車がゆっくりと動き出し、コンビニの駐車場から公道へと滑り出る。
凛華の動きに迷いはない。車の運転にはかなり慣れている様子。
「飲み物の蓋ちゃんと閉めた?」
「え、うん」
突然の質問に、智仁は間の抜けた返事をしてしまった。
ドリンクホルダーはボトル一本分しか入らない。コーヒーのペットボトルはしっかりキャップを閉めて、智仁の手の中にある。
次の瞬間、智仁は凛華の言葉が形式的なものでもなければ、ドリンクホルダーがないことへの了解を得るためのものでもなかったことを理解した。
車が凄まじい勢いで加速したのだ。座席に体が押し付けられ、智仁は小さく声を上げた。
キャップが開いていたら、ましてやボトルに口をつけていようものなら、智仁の上半身はコーヒーでずぶ濡れになっていただろう。
速度を上げた車は、コンビニをあっという間に後方へ置き去りにしていく。
曲がり角に差し掛かると、車は直角に方向を変え、智仁は窓に頭をぶつけそうになった。
角を曲がり、サイドミラーに映っていたコンビニの看板も見えなくなった。
人気のない夜の街並みが勢いよく後ろへ流れていく。
凛華の運転は少し乱暴に思えた。
赤信号で止まって発進する度にシートに叩きつけられるような加速を味わわせてくるし、走行中の振動も今までに乗ったどの車よりも激しい。
もしかして、この女子大生は道路交通法を遵守する意識が少々欠けているのだろうか。
無愛想だし、髪色もオレンジだし。
智仁は偏見混じりの疑いを凛華へと向ける。
「乗り心地、悪いでしょ」
ハンドルを握り前を向いたまま、凛華は言った。
失礼なことを考えていたのが顔に出ていたのかと、智仁は内心焦る。
「悪いけど我慢してよね。車体も古いし、サスもリーフなんだ」
「あ、いや。乗せてもらってるだけでもありがたいから」
凛華もこの車の乗り心地は承知しているらしい。「さすもりーふ」という単語の意味が智仁にはよく分からなかったが、路面の小さな凹凸の感触をダイレクトに伝えてくるのは、この車の特徴であるらしい。
乗り心地の悪さを話していた凛華は、世話の焼ける弟や妹を語るような口ぶりだった。どうやらこの車をとても気に入ってるらしい。
交通量の少ない大通りを少しの間走ってから、車がインターチェンジへと差し掛かる。
智仁が実家から引っ越してくる時に荷物を運ぶため、父親の運転で一度だけ通ったことがあった。
流石の深夜なだけあって、料金所の周囲に車は見当たらない。
ETCゲートを潜り抜けた凛華の車は、再び低い唸り声を上げながら、ぐんぐん加速していく。
程なくして車は中央自動車道の上り線へと滑り込んだ。
遠くの方に見えるトラックのものと思しき赤い光と、等間隔に設置されているオレンジ色の照明を除いて、高速道路に光はない。
前に来た時は昼間で交通量も多かったこともあって、智仁は孤独感と少しの不気味さを覚えた。
凛華が安堵したように息を吐いた。
「実は高速初めてなんだ。入れなかったらどうしようかと思ってた」
「全然そんな風に見えなかったよ。運転すごく慣れてるんだね」
智仁が素直に賞賛を口にすると、凛華は楽しそうに口角を上げた。
「運転に関しては何も問題ない。私が言ってるのはETCのこと。こないだ着けたばっかで、テストもしてなかったから。電気系統いじるの初めてでさ」
へえ、と頷いてから、智仁は凛華の方をもう一度見た。
さらりとすごいことを言われた気がする。
「ETC着けたって、自分で?」
凛華はさも当然とばかりに頷いて見せる。
「そんなことできるの? すごいね」
「別に。知識と技術があれば誰にだってできる」
「その知識と技術があるのがすごいよ。独学なの?」
「ううん、じーちゃん……祖父に教わった」
「おじいさんは車が趣味?」
「いや、整備士やってる。私が言うのもなんだけど、山梨で車をいじらせたら一番上手い」
凛華の言葉は自信に満ちていた。
少なくとも凛華はお世辞や強がりで言ったわけではないことが、智仁にも伝わってくる。
「じゃあこの車もおじいさんの?」
「今は私の。このジムニーはうちの倉庫で埃を被ってたところを私が引っ張り出した。エンジンも足回りも電装も直して今は私が乗ってるから、これは私のだよ」
智仁は目を丸くした。車に詳しくない智仁でも、これを直すことが一般大学生にとって並大抵の苦労ではないことくらいは分かる。
「す、すごいな……。それしか言葉が出てこないや」
「さっきも言ったけど、知識と技術があれば誰にでもできるよ。特にジムニーなんて、構造もシンプルだから素人でもいじれる」
凛華はこともなげに言ってのけるが、やはり褒められて嬉しいのだろう、頬が緩んでいるのを智仁は見逃さなかった。
「車、好きなんだね」
「車というより、このジムニーが大切なだけ」
智仁は、昼間に考えていたことを思い出した。史郎にとってのフルート、ドイツ語講師にとってのドイツの教会。
——尼里凛華という人間にとっては、このジムニーという車。
昼間の授業中は、あれほど無気力だったくせに、ハンドルを握った凛華はまるで別人だ。
智仁は、急に自分が無色透明のつまらない人間だと言われたような気分になった。
◆◆◆
高速道路に入ってからしばらく。
走っている車が少なく、渋滞もなかったことから車はスムーズに進み、道半ばまで来ていた。
道中、智仁と凛華の間にはほとんど会話はなかった。時折思い出したように言葉を交わしては沈黙が降りる。
ただし運転しているジムニーのことを語る時だけは、凛華は饒舌だった。
会話の中で智仁は、ジムニーという車は昔からある車種で様々な型番があり、このジムニーはJA11という型らしい。そして智仁や凛華よりも歳上の車であるということが分かった。
しかしながら、智仁は凛華に的確な相槌が打てるほど車の知識はない。その上凛華もジムニー以外のことについてまともに語ろうとはしない。
二人の会話が途切れることは必然と言えた。
そんな気まずい沈黙を破るように、智仁のポケットの中でスマホが震えた。慌てて引っ張り出す。
着信は妹の継美からだった。
「母さんは大丈夫か?」
「うん。いま市立病院にいて、治療してる。命に別状はないって」
「そっか」
全身から力が抜ける。
目の奥がつんと熱くなった。安堵でも涙がにじむことを、智仁は生まれて初めて自覚した。
「お父さんは?」
「さっき電話が繋がって、朝になったら始発で戻るって。……お兄ちゃんどこにいるの? さっきから雑音で声が聞こえにくい」
「ああ、実は同級生が車出してくれてて、そっちに向かってるところなんだよ」
継美は嬉しそうな声を上げた。
「そうなの! あとどれくらいで来れる?」
「一時間くらいかな」
「分かった。お医者さんのとこ行くから切るね……あっ、お友達にお礼言っといてね」
「うん」
通話終了のボタンをタップしてスマホをしまう。
「妹さん?」
前を向いたまま凛華が訊いた。
「うん。お母さんは命に別状ないって」
「そっか、よかったね。どこの病院?」
「さいたま市立病院まで。本当にごめん、お願いできる?」
「別に構わない。最寄りのインターと高速降りてからの案内はしてよね」
「うん。本当にありがとう」
智仁は座席に体を沈み込ませるようにもたれかかった。
いつの間にか鬱蒼とした小山と月明かりから、住宅地と人工的な明かりへと景色が様変わりしている。
夜景目的に旅行をする人の気持ちが、今の智仁には少しだけ分かるような気がした。
◆◆◆
凛華のジムニーはいくつかのジャンクションを経由し、中央道、圏央道、東北自動車道の順に走った。
智仁がスマホでルートを確認すると、神奈川の端を掠めて、東京を縦断し、埼玉県さいたま市へ向かうような形。
凛華との会話は、ジャンクションに入る時や、道順の確認のみに限られた。
埼玉県に入ったあたりから、景色は智仁にとって馴染みのあるものへと変わっていった。
埼玉県は秩父周辺を除いて関東平野に属している。県南部に位置するさいたま市も例外ではなく、山の輪郭は遥か彼方に霞むことになる。富士山のお膝元であり、起伏に富んだ山梨県とは全く違う。一つ県を跨いだだけで大きく変わる風景を、智仁は今更ながらに自覚した。
高速道路を降りれば、いよいよ地元の見慣れた市街地に入る。
ETCのゲートを潜り抜ける時に表示された金額を見て、智仁は思わず息が詰まった。
目に入ったそれなりに贅沢なファミレスくらいの金額。それにこれはあくまで片道分。帰りもこれと同等の金額を要する上に、ガソリン代だってタダじゃない。
大学一年生が負担するには少し躊躇するくらいの金は間違いなくかかる。
智仁は必要な経費を支払う旨を申し出たが、凛華は首を横に振った。
「別にタクシーやるために乗せたわけじゃないから」
凛華は遠慮の類ではなく、心からいらないと思っているらしかった。
しかし、智仁も引き下がるわけにはいかない。
「ここまでやってもらって何もなしってわけにはいかないよ。せめて必要経費だけでも払わせて」
幾度かのやり取りを繰り返し、智仁が片道分の高速道路料金と、少しのガソリン代を払うことで落ち着いた。
◆◆◆
生まれ育った町の下道は、山梨のそれよりも交通量が多く騒がしかった。
運転をする凛華は、こまごまして走りにくいと、顔をしかめている。
家族のようによく知っている街並みなはずなのに、どこかよそよそしく感じられるのは、智仁が一人暮らしを始めたからか、車の運転者が今日会ったばかりの赤の他人であるからか。
智仁の指示を受けつつ、凛華のジムニーは目的地である市立病院に滑り込んだ。
およそ二時間程度のドライブだった。
ただ広い駐車場には目もくれず、凛華は病院の正面入り口の目の前にジムニーを停めた。
智仁が妹の継実に電話をかけると、医師が特別に病棟へ入ることを許可してくれたらしく、緊急外来の入り口に来るように言われた。
「本当にありがとう! 尼里さんがいなかったらと思うと——」
「分かった分かった。お礼はもう死ぬほど聞いたから。早く行きなよ」
「うん。本当にありがとう」
無意識のうちに何度も感謝の言葉を口にしつつ、智仁はジムニーから飛び降りて病棟の入口へと向かう。
振り向くと、フロントガラス越しに座席にもたれかかった凛華と目が合った。
早く行けとばかりに手を振られ、智仁も軽く手を挙げて応えると、今度こそ智仁は小走りで病棟の入口へと向かっていった。
走れ、ジムニー 庵間阿古也 @akoya-ioma
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