第4話 再会
——お母さんが、倒れた。
智仁は自分の感覚が鈍くなっているような気がした。言葉の意味は分かっているのにそれが実感として伴ってこない。
実感を置き去りにしながらも、智仁の思考は止まらず言葉を重ねていく。
「救急車は呼んだ?」
「呼んだ。もうすぐ来ると思う」
涙声ながらも継美の声はしっかりしていた。
「お父さんは?」
「昨日から出張で仙台に行ってるよ。電話も繋がらなかった」
なんとタイミングの悪い。智仁は内心舌打ちをするが、継美が通報できただけ不幸中の幸いかと思い直す。
継美の祈るような声が電話口から聞こえてくる。
「お兄ちゃん、こっちに来れない?」
「終電はもう終わってる。明日の朝にならないと……」
継美が電話口でしゃくり上げる音がした。
「もし、お母さん死んじゃったら——」
「そんなことはない。きっと大丈夫」
継美が口走りかけた言葉を智仁は強い口調で遮った。己の口から発せられた言葉の、なんとも空虚な響き。
根拠のない希望を上塗りするように、智仁は言葉を重ねる。
「できるだけお母さんに声をかけてやって。あとお父さんには繋がるまで電話を続けて。明日の始発で俺も戻るから、それまで頼むぞ」
こんなことしか言えない自身の情けなさに、吐き気すら覚えた。
「わかった……」
継美の返事に混ざって、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。
「救急車来たから切るね」
「うん」
通話が終わる。
ここに来てようやく、母親が死ぬかもしれないという現状が染み込んできた。
恐怖、焦燥、無力感——。
慣れない感情が智仁の内側に渦巻いている。
「おちつけ……おちつけ……」
いまこの場でじたばたしても仕方がない。明日の朝一番の始発に乗るまで、智仁にできることはないのだ。
暴れる感情を押さえつけるよう自分に言い聞かせながら、智仁はレジに向かった。
震える手で会計を済ませる。買うか迷っていたコーラのことは、頭からすっ飛んでいた。
足早にコンビニから出た瞬間、人影とぶつかった。
受け身も取れずに派手にすっ転ぶ。
「大丈夫ですか」
頭上から降ってきた声と共に、トイレットペーパーが差し出された。
すみません、と謝罪の言葉を発そうとしたが、呂律が回らず中途半端な音が唇から漏れる。
まったく、自分は何をやっているのだろう!
智仁が顔を上げると、見覚えのある顔が視界に飛び込んできた。
切れ長の目と後頭部でまとめられたオレンジ色の癖っ毛。今日大学で会ったあの女子学生だ。
相手の方も智仁のことを覚えていたらしい。顔に驚きの色が浮かんでいる。
先に声を出したのは女子学生の方だった。
「大学では、どうも」
「こちらこそ、缶コーヒーありがとう」
形式ばった挨拶を口にして智仁は立ち上がり、改めて謝罪の言葉を口にする。
「ごめん、焦ってて前をよく見てなかった。怪我はしてない?」
「いや、私は大丈夫だけど。そっちこそ大丈夫なの?」
再び差し出されたトイレットペーパーを受け取りながら智仁は応える。
「うん、大丈夫。いやぁ夜中になってトイレットペーパー切らしちゃってさ。慌てて買いに来たんだよね。慌ててたもんだから周りもよく見えてなかったみたいだ、本当にごめん。怪我なくてよかったよねお互いに——」
「ねえ」
女子生徒がずい、と一歩詰め寄ってきた。
「な、なに?」
「何か、あったの?」
噛んで含めるように、女子生徒は訊いてきた。
智仁が黙っていると、女子生徒はさらに言葉を重ねた。
「その、泣いてる……から」
智仁はぎょっとして自分の頬に手をやった。
——濡れている。
気付かなかった。自分で思っていたよりも動揺していたらしい。
恥ずかしさで頰が熱くなるのが分かった。
「いや、これは……」
「話したくなければ話さなくてもいい。余計なことを訊いてたとしたら謝る」
◆◆◆
結局のところ、智仁はこの名前も知らない女子に洗いざらい事情を話した。
実家の母親が倒れたこと。いま家には妹しかいないこと。すぐにでも行きたいが、明日の始発まで何もできないこと。母親がいなくなるなんて想像もできず、どうしたらいいかも分からないこと。
急にこんなことを話しても困らせるだけだと思いはしたが、話さずにはいられなかった。
彼女は黙って全てを聞いてくれた。
智仁の話が終わると、彼女は少し考える素振りを見せてから、質問してきた。
「実家は埼玉って言ったよね? 何市?」
「さいたま市」
智仁が答えると、彼女はスマホを操作し始めた。
「中央道……圏央道……」
ブツブツとつぶやきながらスマホの画面を見つめ、ほどなくして「よし」とうなずき。
「ちょっと待ってて」
電話をかけ始めたのだろう、スマホを顔の横に当てたまま、コンビニの中へ消えていった。
程なくして彼女は戻ってきた。その手には、ペットボトルが二本、握られていた。いちごミルクとコーヒーのうち、コーヒーのペットボトルを智仁に渡す。
「これは……?」
「あげるよ」
「え? いや悪いって!」
慌ててボトルを返そうとするが、彼女は受け取ろうとしない。
「いいって。私、苦いのダメだから。もう買っちゃったし飲める人が飲んだ方がいい」
有無を言わせぬ物言いに、智仁もこれ以上食い下がる気にはなれなかった。
智仁はこの女子学生の性格がよく分からなくなっていた。昼間に大学で会った時は、もっと無気力というか、人嫌いのような印象があったのだが。
智仁がコーヒーを手にしたのを見届けると、女子生徒は「じゃあ行こうか」と言った。
智仁はその言葉を解散の合図だと理解する。
スマホで時刻を確認すれば日付が変わって少し経っていた。今日はほんの少しだけ夜更かししている。
心中は穏やかではないが、人と話したおかげだろう、いくらか落ち着きを取り戻すことはできた。
明日に備えて——正確にはもう今日だが——早く帰って休もう。
「いろいろとありがとう。また大学でね」
お礼を行って背を向けようとしたところで、「え?」と彼女の口から困惑の声が飛び出した。
「ちょっと待ってよどこ行くのさ」
「どこって、家に帰るけど……」
「何言ってんの、早く行くよ」
「行くってどこに?」
切れ長の目を細めて、何を言っているんだこいつは、とばかりに首を傾げる彼女に、智仁も困惑を浮かべる。
「埼玉県さいたま市に決まってるでしょ」
さも当然のように言ってのける彼女に、智仁の困惑はいよいよ深まっていく。
「ええと、なんで……? というか、どうやって?」
智仁の「なんで?」という質問には答えず、彼女は不敵な笑みを浮かべて、自分の背後を親指で指した。
そこには智仁の二つ目の質問「どうやって?」の答えが鎮座していた。角張った印象を与えてくる白い車体。昼間に智仁が大学の駐車場で見かけたあの車だ。
「乗って」
もう既に彼女は車に向かって歩き始めている。
「二時間もあれば、さいたま市には余裕で着けるから」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
どんどん想定外の方向へ進んでいく話に、智仁はついていけない。
「もう夜も遅いし、そこまでしてもらうのは悪いよ」
「私はよく深夜ドライブしてるし、家にも連絡入れたから大丈夫だ。妹さんが一人でお母さんについてるんでしょ。行くなら早い方がいい」
そんなことをこともなげに言う。
智仁にとってはこれ以上ないほどありがたい話ではある。しかし、目の前の女は互いの名前も知らない赤の他人。
そんな人に私情で世話になるのは、智仁にとっては心理的抵抗が勝る。
「そうかもしんないけど、でも見ず知らずの人にそこまでしてもらうわけには——」
渋る智仁に、彼女は切れ長の目をスッと細めてぴしゃりと言い放つ。
「母さん急病なんだろ。長男のあんたがついててやんな」
さして大きくもない声ながらに、有無を言わせぬ説得力が智仁を殴った。
ここまで言われたら断る方が失礼かもしれないと、智仁は思った。
腕を組み車の横に立つ彼女に向けて、智仁は頭を下げた。
「ありがとう。お願いしますっ」
切れ長の目をした仏頂面が、優しい笑みを浮かべた。
「よし決まり。早く乗って」
すらりとした細身の体躯を折り曲げながら、彼女は運転席へと滑り込んだ。それに倣うように、智仁も助手席のドアを開ける。
「そう言えば名前言ってなかったよね。社会学部一年の西亜智仁です。よろしくね」
自己紹介すらまともにしていない相手に、母親の急病のことを話してしまったことに今更ながら恥ずかしさを覚えた。初めてのことで混乱していたのだと自分の中で言い訳を作ってやり過ごすことにする。
運転席に座り、シートベルトを装着していた、彼女も淡々と名乗った。
「社学の一年、
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