第3話 真夜中の電話

 午後の講義を無事に消化した智仁は、知り合いとの雑談もそこそこに、帰路についた。時刻は五時過ぎ、六月の日差しはやや傾いているものの、まだまだ明るい。


 道中にあるスーパーマーケットに寄って、足りなくなってきた覚えのある食材をいくつか購入する。

 智仁は大学に入るまでは実家暮らしで、家事の類はほとんど母親に依存していた。ところが意外にも一人暮らしが始まってからというもの、家事は抵抗なく行うことができている。この大学に進学が決まってから、母親が軍隊の教官よろしく自炊や洗濯、掃除といったもののイロハを智仁に叩き込んだからかもしれない。


 買った食材で膨らんだエコバッグを肩に掛け、智仁は玄関の扉をくぐった。


 智仁の住む、大学から徒歩二十分強にあるアパートは、1K六畳。少々古ぼけているものの、家賃の安さと陽当たりの良さから借りることを決めた。

 住み始めてすぐは六畳間は狭いと感じていたが、慣れれば広すぎず狭すぎず、ちょうど良い広さだと思えるようになった。


 背負っていたリュックとエコバッグを下ろした智仁は、ぐっと伸びをひとつすると、早速夕飯作りに取り掛かった。

 今日の献立は親子丼とインスタントの中華スープにしようと決めていた。スーパーのセールで鶏肉が安売りされていたからだ。

 智仁がそれなりに自炊をするようになって気がついたことは、肉を量り売りしてくれる店のありがたさだ。パックで売られた肉は一見すると利便性が高いものの、一回で使うには量が多過ぎるのに二回に分けて使うには心許ない、といったことがよく起こる。

 量り売りの肉は、自分にとって丁度いい量を調節できるという点で智仁は気に入っていた。


 もう既に覚えてしまった親子丼のレシピをなぞるように、機械的な手付きで智仁は料理を進める。調味料を混ぜたものと薄切りにした玉ねぎをフライパンに放り込んで軽く煮る。玉ねぎが透明になったら、適当な大きさに切った鶏胸肉も放り込んで、これも煮る。肉に火が通ったら溶き卵でとじる。

 解凍した白米を丼に盛って、その上に作りたての具を載せれば、親子丼の完成。


 グリンピースを入れても良かったかもしれないと思考の片隅にふと浮かんだが、食欲をそそる、ふうわりと立ち昇る匂いは、そんな瑣末な思考など遠くに吹き飛ばしてしまった。


 はやる気持ちを抑えつつ、お椀に入れた中華スープの素に沸かしておいたお湯を注いでスープも完成。

 視覚的にも嗅覚的にも食欲を刺激され、いよいよ空腹が我慢ならなくなった智仁は、ほかほかと湯気を立てる親子丼にスプーンを突っ込んだ。まずは一口。

 うまい。

 少し甘過ぎるかもしれないが、誰かに食べさせるでもなし、誤差の範囲だ。十分に美味しい。


 ◆◆◆


 親子丼と中華スープを早々に腹へ収めた智仁は、汚れた食器を手早く洗う。


 満腹になったことから来る、心地よい倦怠感になんとか抗い、ノートPCに向かう。

 今日中に提出しなければならない講義の振り返り小レポートがある。どう考えても、講義の内容密度がレポートの指定文字数と釣り合っていない。面倒なことこの上ないが、なんとか文字数を稼ぎながら書くしかない。

 不思議なことに、何かに集中しなければならない時ほど、普段まったく気にならないはずの周囲のあれこれが気になってくるものだ。

 本棚に並んでる参考書の順番、トイレットペーパーの残量、財布の中のレシート——。

 テスト勉強前に部屋の片付けを始めてしまうという、多くの学生が罹患する病を、智仁も発症させつつあった。


 レポートと格闘すること三十分、ようやく形になるものを書き上げ、学内サイトでオンライン提出する。

 安堵の息をつき、床に大の字になって寝転がる。

 暇だ。やることがない。

 ちらりと時計を見れば、大半の部活動が終わるには少し早い時間。史郎は今頃先輩から手厚い指導を受けていることだろう。

 智仁の脳裏には、昼間の史郎との会話が想起されていた。


 何か夢中になれるものがあれば、暇だなんて思わずに済むのだろうか。

 智仁は手元のスマホを操作し、「アルバイト 城留しろどめ」と検索する。


 智仁が住む山梨県城留市は、山梨県東部に位置する田舎町であるため、ヒットしたアルバイトの求人情報はそれほど多くない。

 空いた時間を消費して金銭を得るアルバイトは、時間を持て余す智仁にとってはこれ以上ない最適なものに思えたが、別に智仁はお金に困っているわけでもなければ、お金を貯めてまで欲しいものがあるわけでもない。ありがたいことに奨学金と親からの仕送りを合わせれば、日々の生活を送るには十分だ。

 

 結局智仁は、暇な時間をYouTubeとネット漫画を流し見して潰すことにしたのだった。


 たまたま読み始めたバトル漫画が異様にしてかなりアツい展開だったため、智仁はついつい時間を忘れて読み耽ってしまった。


 戦闘シーンが一段落したところでスマホの画面に表示されている時刻を見ると、11時30分を少し回ったところだった。

 そろそろ風呂に入ろうかと、智仁は読んでいた漫画をブックマークして立ち上がる。

 明日の授業は二限からのため、早く寝なければならないというほどではないが、遅くまで起きているメリットもこれと言ってない。

 クローゼットから着替えとバスタオルを引っ張り出したところで脳裏にある懸念が過った。


「トイレットペーパーってまだあったか?」


 レポートを書いている時にふと思いついた雑念の類だったが、今になって妙に輪郭を帯びてきた。

 トイレに行って確認すると、予備のロールを置いておく棚は空っぽで、ホルダーにセットされているものも残りわずか。


「あぁ、確認しとくんだった……」


 時刻はもう日付が変わる直前。智仁は自身のうっかりミスを呪った。

 明日の朝くらいまでは持ちそうなものだが、こういう時に限って腹の調子がおかしくなったりする。

 トイレに駆け込んで一息ついたところで紙がないことに気がつく——。ギャグ漫画としては鉄板だが、現実においては笑えない。


「コンビニなら置いてるよな」


 思わぬアクシデントだが、幸いにして時間的余裕は売るほどある。


 着替えとバスタオルをクローゼットに再び放り込んで、代わりに財布とスマホと鍵をポケットに突っ込んだ智仁は玄関の扉に手を掛けた。


 これまで智仁は、夜遊びとは無縁の人生を送ってきた。大学に入学して城留に住み始めてからも、スーパーマーケットが閉まる時刻よりも遅くに家から出たことはない。ましてや日付の変わる直前の夜中に出歩くなんてことは初めてだった。


「静かだな」


 夜の町に繰り出した智仁が自然とつぶやいた言葉が思ったよりも住宅街に大きく響き、慌てて口をつぐむ。

 細い用水路を水が流れる音と、夏が近づき夜行性の虫があげる鳴き声しか聞こえない。

 そして何より涼しい。昼間の焼けるような暑さはなく、薄手の長袖を羽織ってもよかったと思えるほどには涼しい。


 智仁の実家は埼玉県さいたま市。その中でも都会と称して差支えないような場所にある。

 昼夜問わず交通量は多いし、人の気配も途絶えることはなかった。夏場は街全体が昼間の熱気を溜め込んで蒸し暑い。

 城留は智仁の実家とは正反対と言える。どちらかと言えば、智仁は城留の夜の方が好みだった。


 最寄りのコンビニは智仁の家から徒歩で十分弱のところにある。

 店構えの割には駐車場面積が異様に広いコンビニは、街灯がほとんどない町の中で灯台のように明るく見えた。

 間の抜けた電子音と気怠げな店員の声に迎えられ、智仁は入り口から最も近い生活雑貨が並ぶ棚へ。トイレットペーパーは智仁が想像していたより安価だった。目的のものを手にした智仁は、店内をぐるりと大回りする形でレジへと向かう。途中でドリンクが並べられたリーチインの前を通る時、ふとコーラのボトルが目に留まる。

 折角来たのだからトイレットペーパーだけ買うというのももったいない、コーラの一本くらい買ってもいいのではないか。いやいや、深夜にコーラなんて体に悪いだろう。

 始まった脳内会議に智仁の足が止まる。買うべきか買わざるべきか……。いや、折衷案として500ミリボトルの横にある350ミリボトルならいいのではないか。

 智仁の手がリーチインに伸びかけたその時、ポケットのスマホが震えた。継続して振動が続くいているから電話だと分かる。

 こんな時間に誰だろうか、吹奏楽部の練習から解放された史郎が愚痴を吐きたくなったのかもしれない。


 しかし画面に表示された名前は、妹の継美つぐみだった。高校で硬式テニス部に所属する彼女は、朝練に備えてもう眠っているはず。

 首を傾げつつ智仁は通話ボタンに触れる。


「もしもし、どうした?」


 耳元にやったスマホから聞こえてきた声は、震えていた。


「お兄ちゃん、どうしよう、どうしよう……」


 異常事態を察知した智仁は、できるだけ落ち

着いた声を出すよう努めた。


「継美、まずは落ち着いて。何があった?」


 継美は涙声で呼吸もままならない様子だったが、何とか言葉を紡ぐ。


「お母さんが、倒れた」

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