第2話 必要十分

 智仁が二限目の教室に着くと、もう席の半分くらいが埋まっていた。


 一人がけの椅子と机が行儀良く並んでいる様は、大学の講義室というよりは、中学や高校の教室のような印象を受ける。大学にはこのような教室が多く、階段教室で行われる講義は案外少ないということを、智仁は大学に入ってから知った。


 代返依頼をしてきた友人は来ているのだろうか。

 軽く教室を見渡すと、ちょうど真ん中あたりの席に、見覚えのある顔がこちらに手を振っているのが目に入った。

 智仁の友人の伊丹史郎いたみしろうだ。うっすらと茶色に染めた髪に、人当たりの良さそうな微笑みを浮かべている。


「代返、サンキューな」


 先ほど名前も知らない女子生徒から受け取った缶コーヒーを机に置き、智仁が横の席に座ると、拝むような仕草をしながら礼を口にした。


「昼ごはん、忘れないでよ」

「まかせとけって」


 史郎は得意げに親指を立てた。


「昨日は遅かったの?」


 二限で使う教科書やノートを机に並べながら智仁が訊くと、史郎は困った顔をして頷いた。


「部活の居残り練習でな。参っちゃうよな、まだ俺は一年生だぜ。しかも俺だけ」

「吹奏楽部だっけ」

「そうだよ。週六で練習。バイトをする時間もない」


 そりゃ大変だ、と智仁は史郎に労いの言葉をかける。


 史郎は見た目に似合わず中学生の頃からフルートをやっていたらしい。大学に入ってから吹奏楽部に入部したはいいものの、練習はかなりハードなようだ。


「他の一年が帰っていくのを横目に俺は先輩からありがたーいご指導を受ける時の虚しさったらないぜ」

「まあまあ。それだけ期待されてるってことだよ」

「それはそれでプレッシャーエグいんだよなあ」


 これみよがしに史郎はため息をついて見せた。


「そういえばトモはどうなんだよ?」

「どうって?」


 質問の意味が分からず智仁は聞き返す。


「部活とかサークルとかだよ。なんも入ってないだろ?」


 大学に入って二カ月が経つが、智仁はサークルや部活といった団体に所属していなかった。

 別に、そういった活動に対してネガティブなイメージを持っているわけではない。四月から五月の頭頃まで行われていたサークルの新歓や部活の体験入部にはいくつか参加していた。

 それなりに楽しめはしたものの、結局そこに所属することはなかった。


「別に何もやる気になれないって感じじゃないんだけどな……」

「ハマれるものがないってことか?」

「うーん……そうなのかもなぁ」


 そこで、講師が入室してきた。授業開始の声がかかる。史郎との会話はここで中断された。


 二限目はドイツ語の授業だ。ドイツに居住経験のある講師が、ドイツにある教会がいかに魅力的であるかを、授業そっちのけで熱弁し始めている。

 その話を聞き流しながら、智仁は先ほどの史郎との会話を思い返していた。二十年足らずの自身の人生を振り返ってみると、物心ついた時から、何かに熱中した経験がないことに気付かされる。


 別にあらゆるものに興味が持てないわけではない。YouTubeなんかで気に入った曲があれば繰り返し聞くことはあるし、中学高校の学校行事だって楽しかった。

 ただし、そこに全力投球をしていたかと問われれば、首を縦に振ることはできないと思う。最近「推し活」という言葉をいろんな所で見かけるが、それもいまいちピンと来ない。

 今の自分に不満はない。不自由のない家庭で育ち、地方とはいえれっきとした公立大学に進学できた。

 しかし、愚痴りながらもフルートの練習に打ち込む史郎や、いよいよドイツ語りがヒートアップしてきた講師を見ていると、なんだか少し羨ましいような気がする。


 これは、贅沢な悩みなのだろうか。


 ふと机の隅に置きっぱなしにしていた微糖の青い缶コーヒーが目に入った。これを手渡してくれた、名前も知らない女子生徒。オレンジ色の髪と切れ長の瞳が印象的だった。

 彼女にも、熱中している「何か」があるのだろうか?


 ◆◆◆


 二限の授業が終わり、智仁は学食で史郎とカツカレーを平げた。

 他の定食や麺類といったメニューよりも頭ひとつ抜けて金額が高いカツカレーを注文すると「遠慮がないなぁお前は」と史郎は苦笑いを浮かべたが、一限で配られたレジュメと、近々実施される小テストの過去問をちらつかせると満面の笑顔を浮かべてくれた。


 学食を出ると、三限目の授業に向かうには丁度いい時刻になっていた。

 史郎とは別の授業だったので、学食前の広場で別れ、智仁は三限目の授業へ向かう。

 三限目の授業が行われる教室は少し遠い。キャンパスの端っこに建つ五号棟は、大学敷地内の駐車場を突っ切る方が早い。

 智仁は学生の流れから外れて、駐車場の方へ向かった。


 大学の屋外駐車場は、だだっ広い敷地に砂利を敷き詰め、目印となる黄色いロープを等間隔に張っただけの簡素なものだ。

 停まっている車は、ボロボロの軽自動車から、いかにも高級そうな外車まで様々だ。

 まあ、智仁の自宅は大学から徒歩二十分強のアパートに住んでおり、大学への行き来は徒歩で事足りているので、車が必要になることはない。この駐車場も構内を移動する際の近道として以外に利用することはないだろう。


 ふと、少し離れた所を歩く人影が目に留まった。すらりとした体躯に、オレンジ色の癖毛を後頭部で束ねている。

 一限の時に会ったあの女子学生だ。

 彼女もまたこの駐車場を近道として利用する者の一人なのだろうか。

 そんな智仁の予想を裏切るように、彼女は学舎とは反対の方向へ歩いていく。

 智仁が何となく目で追うと、彼女は駐車場の端のあたりに停めてある車のドアを開いた。慣れた調子で運転席の中へ滑り込んでいく。

 間を置かずエンジンの音がし、彼女の乗り込んだ車が、窮屈そうに身を寄せ合う車の列からゆっくりと姿を現した。比較的小さい印象を与えてくる車体は角張っており、タイヤ径は比較的大きい。智仁の脳内にオフロードという単語が浮かぶ。


 車体の白色が初夏の日差しを照り返し、砂利を踏みしめる音を残して、その車は駐車場を後にした。

 

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