走れ、ジムニー
庵間阿古也
第1話 微糖の缶コーヒー
あくびを噛み殺しながら、西亜智仁は大学に向かう坂道を歩いていた。
まだ午前九時前にもかかわらず、鬱陶しいほどに燦々と降り注ぐ日差しに目を細める。
四月の入学式からもう二ヶ月半経った。初めのうちは新鮮さとささやかな緊張を抱きながら授業に臨んでいたものの、慣れというのは恐ろしいもので、今となっては何で必修科目が一限にぶちこまれているのだろうという恨み言しか湧いてこない。
とはいえ、一年の前期早々に単位を落とすわけにもいかない。初夏の日差しに照らされ汗ばんだ肌を拭いながら、智仁は正門を目指して歩みを進める。
正門に差し掛かったところで、智仁は足を止めて振り返った。後方から近づいてくるエンジンの音に気付いたからだ。
上り坂を一台の軽自動車が駆けてくる。車高が高くタイヤ径もやや大きいそれがオフロードも走れる車であることは、車に興味のない智仁でも分かった。
小型のオフロード車は歩道の学生たちを追い抜き、正門横の駐車場入り口へと入っていく。大学まで毎日二、三十分の道を歩く智仁は、車で学校に来れる誰かを少し羨ましいと思った。
智仁が教室に着いたのは一限が始まる五分前だった。学科全体の必修科目なだけあって、教室の出入り口は学生でごった返していた。
体を滑り込ませるようにして教室に入った智仁は、教室中ほどの壁際の席に落ち着いた。この授業ではいつもこの席だ。教授の目の前で受講するほど真面目でもなければ、最後列に座るほど消極的でもない彼にとってはこの辺りがちょうどいい。
授業開始のチャイムが鳴った。しかしいつも隣に座る友人が来ない。確認のためにラインでも送ろうかとスマホを取り出すと同時に、画面に通知が表示された。
『やばい今起きた』
苦笑いを浮かべた智仁は『代返してやろうか?』と返す。間を置かずに感謝を示す絵文字が送られてくる。報酬として学食一回分を要求してから、スマホをしまう。
大学に入学して半年足らずで代返依頼をしてくる友人の先行きを憂いながら、智仁は前から回ってきた出席票の束から紙切れを手早く二枚引き抜き、後ろへ回す。
「ここ、空いてる?」
降ってきた声に顔を上げると、すぐそばに女子生徒が立っていた。背の高い細身の女、というのが智仁が抱いた印象だった。切れ長でやや鋭い目つきも相まって、何となく威圧感があるような気がした。
周りを見回すと、教室の後ろの方にある席はすべて埋まっていた。今空いている席の中で少しでも後ろに座ろうというつもりであることは何となく分かった。
たった今、一緒に受ける予定だった友人が来ないことが確定したため、隣の席は空いていることになる。智仁に断る理由はない。
「空いてるよ、どうぞ」
彼女はにこりともせずに「どうも」と一言だけ言うと、少し窮屈そうに椅子に座る。それと同時に、教室の前にいた教授が立ち上がり、授業の開始を告げた。
智仁がちらりと横を見ると、着席したばかりの彼女は、この世にこれ以上退屈なものはないとでも言いたげな顔で頬杖をついていた。
実があるのかないのかよく分からない教授の話を、興味のないラジオ番組のように聞き流す。周りを見れば、スマホをいじったり突っ伏して眠っている学生もいるのだから、一応ルーズリーフと筆記用具を出してノートを取るポーズを取っているだけマシというもの。
環境問題とそれに対応する政府批判についての持論を展開する初老の教授による講義は、その穏やかな口調も相まって眠気を誘う。
横に座っている女生徒は、授業開始五分ほどで机に顔を伏せたまま動かなくなった。後頭部で無造作に束ねられたクセ毛が、身じろぎする度にふわりと揺れている。最初からこの授業を聞く気はなかったのだろうか、机の上にはノートも筆記用具も出していない。もっとも、授業に顔を出しているだけマシかもしれない。代返依頼をしてきた友人の顔を思い浮かべながら、智仁はそんなことを思った。
「――で、今言った概念を前回一言で説明しましたが、なんと言ったんでしたかね。誰かに聞いてみましょうか」
そう言うと、スライドを読み上げていた教授は教室を見渡す。
智仁は特に何も考えなかった。自分が指されないことを確信していたからだ。この教授が学生を指名して何か答えさせる時、その目的は授業の内容確認などではない。堂々と居眠りをしている学生を夢の世界から現世へ引き戻すことを目的とした儀式のようなものである。つまり智仁のような真面目に授業を受けているポーズを取っている学生は、何も気にせず時間が過ぎるのを待っていればよい。
「じゃあ、そこの君に聞いてみようか」
教授に目をつけられてしまった睡眠学習者は誰だろうか、顔を上げると、なんと教授と目が合った。予想だにしていない展開に思わず緊張が走る。反射的にノートをめくろうとした瞬間、教授がゆったりとした口調で言った。
「隣のお友達、起こしてあげてくれるかな」
隣に座っているオレンジの髪をした女は自身の置かれている立場など知りもしないで、まだ眠っているようだ。
友達どころか名前すら知らない彼女だが、教授に起こせと言われたのであれば仕方ない。
智仁が躊躇いがちにそっと肩を揺らすと、反応は劇的だった。びくりと体を震わせると、ばね仕掛けのおもちゃのようにばっと顔を上げる。寝起きで周囲の状況が把握できていなかったらしい彼女は、迷惑なものを見るような目を智仁に向けた。
智仁が視線だけで前を見るよう伝え、彼女の顔が前を向く。そこでようやく自分が指名されたことに気が付いたらしい。
教授は特に怒ったり皮肉を言うようなことはなく、ただ穏やかに先ほど口にした質問をもう一度繰り返した。
質問の内容自体は簡単だった。ノートを取っていればそれを見ればすぐにわかるし、そうでなくても前回の授業中、教授は何度もその単語を強調していたから。大抵の生徒は迷いなく答えらえるだろう。前回の授業を聞いていればの話だが。
そして、たった今夢の世界から引き戻されてきた彼女は、案の定前回の授業の内容など綺麗さっぱり忘れているらしい。もしかしたら、出席すらしていなかったのかもしれない。
教授に指名されてからというもの、彼女は一切の言葉を発しなかった。発せなかった、と言った方が正しいかもしれない。半開きになった口から音のようなものが時折漏れるものの、それらが意味を成すことはなく。
沈黙の時間が長引くにつれて、彼女に注がれる視線の数も増えていく。隣に座る許可を求めてきた先ほどの堂々とした態度が嘘のようだった。見世物小屋の小動物みたいに肩を震わせるその姿は、いっそ憐れみすら覚える。
智仁は前回の授業のノートのページを開き、そっと隣の席に押し出した。所在なさげに開いたり閉じたりしている彼女の手をつつく。頼りなく揺れていた瞳が、智仁の方を向いた。質問の答えになる単語をシャーペンの先で示すと、どうやら彼女は言わんとすることを察せたようだった。顔を上げた彼女は、まるで初めて聞く呪文を唱えるかのように答えを口にする。
教授は彼女の回答に満足したようで、ひとつ頷くとそのまま授業を再開した。
智仁の助けを得てどうにか危機を脱した彼女は、安堵のため息をつくと、さすがに目が覚めたのだろう、ごそごそと帆布製のナップザックからノートと筆記用具を取り出して板書するポーズを取った。
つい今さっきまであたふたしていたことなどなかったかのように、しかも智仁の存在すら認識していないかのような態度に、若干むっとするものの、どうせ偶然隣に座っただけの、名前も知らない女子生徒にイラついても仕方ないと思い直し、教室前方へ向き直った。
◆◆◆
チャイムが鳴って授業が終わると、隣に座っていた女子生徒はそそくさと荷物をまとめて立ち上がった。智仁の方には目もくれず、足早に出入口へと向かっていく。ほっそりとした後ろ姿はあっという間に人の波間へと消えていった。
ちょっとくらい挨拶してくれてもいいのではないか、と智仁は思いながら、二限の教室へ向かうために荷物を持ち、教室出入口に設置されている出席票提出用の箱に、出席票を二枚バレないように放り込んでから、教室を後にした。
二限は別の棟で行われるため、早めに移動したほうがいい。人でごった返している階段を降りながらスマホを見ると、代返依頼をしてきた友人からメッセージが来ていた。どうやら二限には間に合うように来るらしい。二限後の昼休みに学食を奢るように念押しする返信をする。ちょっと図々しいかなと良心が顔をのぞかせたが、図々しさだけで言えばあいつも似たようなものだと思い直した。
一階まで降りて、棟の出入口に向かおうとした瞬間、背後から肩をつかまれた。反射的に体がびくりと震える。恐る恐る振り返ると、見覚えのある奴と目が合った。つい先ほどまで智仁の隣に座っていたあの女子生徒だ。
教室で会った時に抱いた、背が高いという印象は間違いなかったらしい。目線は同年代の男子の平均よりやや高い智仁の背丈とほぼ同じ。彼女が皮の安全靴ではなく、厚底のブーツを履いていたら、智仁が若干彼女を見上げる形になっていただろう。
慌てて智仁を捕まえたのか、オレンジの髪が少し乱れている。
「ごめん。そんなに驚くとは思ってなかった。見失ったらまずいと思って……」
そんなに分かりやすく反応してしまったのだろうかと、少しばかりの気恥ずかしさを感じる。
「ああ、いや、全然大丈夫だよ。何か用?」
彼女の視線が所在なさげに左右に揺れた。口が半開きになっていて、何かを言いたそうにしているが、どう切り出したらいいのか分からない様子。
智仁は、この名前も知らない女子生徒の人格が少しだけ察せたような気がした。おそらく彼女はコミュニケーションが苦手な類の人種なのだろう。教室のときのややぶっきらぼうな態度も、そうだとすれば納得がいく。オレンジ色の髪に鋭い目つき、高い背からは少し想像しにくかったが。
結局目の前の彼女は、言葉を紡ぐことを諦めたのか、それとも会話は流れに任せることにしたのか、智仁に向かってずいと右手を差し出した。反射的に手を出すと、手のひらに硬く冷たい感触。微糖の缶コーヒーだった。日本で最も売れている青を基調としたデザインの缶は、よく冷えていた。
「これは……?」
「さっきの、お礼」
硬い表情のままの彼女の背後、階段横に設置された自動販売機が目に留まる。先ほど早足で教室を出ていった彼女の後姿が脳裏に蘇った。
そうか、と智仁は合点がいった。彼女は、このお礼の缶コーヒーを買うためにわざわざあそこまで急いでいたのだろう。その不器用な義理の通し方が少しおかしくて、思わず吹き出しそうになる。
「もしかしてコーヒー嫌いだった?」
智仁が黙っていることに不安を感じたのかもしれない。少し申し訳なさを感じながら首を振る。
「いや、これ好きなんだよ。ちょうど良かった。ありがとう」
コーヒーそのものは飲みはするものの特別に好きというわけでもない。ただお礼として渡されたものに馬鹿正直に答えるのも失礼だろうと思っただけのことだ。
「ならよかった。それじゃ」
「ああ、コーヒーありがとね」
早足で去っていく彼女のほっそりとした後ろ姿を見送り、智仁も二限の教室へと向かった。
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