15 旅立ち
柔らかな日差しの降り注ぐ突き抜けるような青空の下、ヤンは王宮の中庭、噴水そばのベンチにセシリアと並んで座って、朗らかな様子で談笑していた。彼らから少し離れた所には、それぞれの側仕えが、主を見守るように立っている。
「やあ、よく来たね」
カズトとアイ、チコの三人がやってくると、ヤンはそう言ってにこやかに微笑んだ。気安い印象は相変わらずだ。
「こんにちわ」
セシリアが、やはり明るい顔で言った。
「大変ご無沙汰しておりました」
チコはお辞儀して挨拶した。カズトとアイもそれに習う。チコは恐縮した顔つきで続けた。
「お忙しい中、お時間をお割き頂きありがとうございます。おかげさまで無罪放免となりましたので、お礼とご挨拶をと思いまして」
ヤンは、うんと頷いた。
「無事に解放されて良かったよ。一番の功労者を罰するなんて、それこそ罰当たりというものだからね。頭の硬い連中は、聖都への侵入は許しがたい、罰するべきだというけれど、君たちのお陰で平和への道筋が作られたんだ。むしろ僕たちは感謝しないといけないね」
「感謝など……殿下の尽力があってのことですから……」
「それだって君たちのお陰だよ。でなければ今もまだ、僕は地下に籠もったままだっただろうからね。だから畏まる必要なんてないよ」
チコはぺこりと頭を下げた。
「恐れ入ります」
ヤンはクスッと笑う。
「それに、僕の方も会いたいと思っていたから丁度よかったよ。なかなか君たちと会うことも出来なかったからね」
彼は中庭の奥の方を指さして続ける。
「それじゃ、立ち話もなんだから、向こうに行こうか」
ヤンは立ち上がり、先に立って歩き出す。チコがそのあとを追う。
「さあ、行きましょう。おいしいスコーンを用意してあるの」
セシリアがにこやかに言って、アイの背に手を添えて促した。カズトはアイと並んで歩いて行く。
中庭の一角に、小さな東屋があった。中央には丸いテーブルがあって、人数分のティーカップが綺麗に並べて置かれ、中心には、ティースタンドに、行列でもなすように、行儀良くお菓子が並んでいた。
「適当に座って」
ヤンは促して、自身も腰を下ろす。隣にセシリアが座る。三人は軽くお辞儀をしてから、ふかふかとしつつも適度な弾力のあるクッションにお尻を落ち着かせた。
側仕えがやってきて、カップにお茶を注いだ。琥珀色に輝くその液体は宝石のように美しく、白い湯気と共に良い香りを漂わせた。
「さあ、どうぞ。スコーンもおいしいよ」
ヤンが言ってスコーンを手に取る。三人も習ってそれを手に取るが、このような、貴族がするみたいな寛ぎの時間など持ったこともないから、どうして良いかわからずキョロキョロと見回していると、その様子を見て、こうするのよと、セシリアが手ほどきをしてくれた。それは初めて口にするものだったが、とてもおいしく、不思議と少し優雅な気分になった。
「どうだい?」
ヤンは聞いた。
「おいしいです」
少し行儀が悪かったが、口をもごもごとさせながらカズトが答えた。
「それは良かった」
ヤンは笑って続ける。
「僕たちの間での決め事なんだ。こうして会うときにはこれを食べるのが」
「そう。そしておしゃべりに花を咲かせるの」
セシリアは嬉しそうに微笑んだ。
その二人を眺めて、カズトは言った。
「あの、聞いても良いですか?」
「いいよ。なんでも聞いて」
ヤンはカップを置いて耳を傾ける。
「お二人はどうやって知り合ったんですか? 戦争中だったんですよね?」
「知り合ったのは戦争が始まる前、僕たちがまだ子供だった頃だね。父と共にマルタ王国に向かったときのことだ。丁度、セシリアも、トマ王に随行してきていてね。そこで初めて彼女を見たんだ」
ヤンはセシリアをじっと見つめて続ける。
「なんて美しい女性なんだ、と思ったよ。一目惚れだったね」
セシリアは恥ずかしそうに笑って視線を逸らす。ヤンは続けた。
「ところがその後、知っての通り戦争が始まってしまってね。会うにも会えない状況になってしまった。なんとか思いを伝えようと、何度も手紙を書いたよ」
「何度も?」
セシリアは驚いて目を見開いた。
「どのくらい書いたの?」
「数え切れないほど」
セシリアは、申し訳なさそうな顔になって、ため息を漏らした。
「手紙が届いたのは指で数えるくらいよ。途中で捨てるかなにかしてしまったのね。許せないわ。あとで叱ってやらなきゃ」
「仕方がないさ。戦争中なんだ。敵国の王子からの手紙なんて、そうそう渡せるわけがない」
「でも、何通かは届いたんですね」
アイが目を煌めかせながら聞いた。
「ええ。誰かが届けてくれたのね。危険を冒してまで……」
それはきっと彼女だろう、とアイは背後に控える側仕えに目を向けた。彼女はその視線に気がついて、軽く微笑んだ。その様子を、ヤンの背後に控える壮年の男性がちらりと見て、無表情ながらも、同意するように小さく頷いた。
セシリアは優しい顔で続けた。
「手紙には、私への思いが何枚にも渡って、紙面の端から端までを埋め尽くすほどに、滔々と書かれていたわ」
「それで、どうしたんですか」
アイの胸が期待で膨らむ。
「すぐに返事を書いたわ。私も、同じ思いであることを伝えるために」
アイは、胸がはち切れてしまうのを堪えているかのように、顔を紅潮させた。
「それじゃ、そのあとはずっと手紙の遣り取りを?」
カズトが聞いた。
「初めはね」
ヤンが答える。
「だけど、どうしたって、そのうち会いたくなるものだろう? だから僕たちは、日取りを決めて会うことにした」
「会うって? どうやって?」
カズトは目を丸く見開いた。
ヤンは意地悪そうに笑う。
「僕と森で会っただろう?」
「はい」
カズトは言って、ぐるっと目を一回ししたのち続けた。
「まさか……」
「そう。そのまさかだよ。狩りというのは嘘で、本当は彼女に会うために国境まで行っていたんだ。君たちに会ったのはその帰りだね」
チコが驚きつつ、呆れたような表情を浮かべて発言する。
「戦争中に狩りだなんて、悠長なことだ、とは思いましたが、まさかそんなことだったとは……」
「たとえどのような状況にあっても、人を愛する気持ちに嘘はつけないし、それにもう、どうにもならなくなってしまっていたからね」
「ええ」
セシリアは同意して続ける。
「相手を想う気持ちは抑えられないものよ。たとえどれほど危険があっても」
「君にも覚えがあるんじゃないのかい?」
「さあ、どうでしょうかね」
チコははにかんで答えた。否定した形にはなったが、その表情には、それとは異なるものが浮かんでいた。カズトはアイをちらっとだけ見て、スコーンを手に取るとむしゃむしゃと頬張った。彼もまた、ヤンとセシリアの言ったことが、少しだけわかるような気がした。
チコが言った。
「それで、そうやって逢瀬を重ねたというわけですか」
セシリアが答える。
「ええ。そして会うときには必ず、こうして紅茶とスコーンを振る舞うの。私の作るスコーンが大好きだと言ってくれたから、彼に喜んで欲しくて」
彼女はヤンを見つめて、ヤンの手に手を重ねた。ヤンは彼女を見つめ返して、手を重ね合わせて微笑んだ。
「素敵! その気持ち、すごく素敵です!」
アイは胸の前で手を組み合わせて顔を煌めかせた。その瞳には、星がキラキラと浮かんでいるように見えた。
「ありがとう」
セシリアは華やかに微笑んだ。そして尋ねた。
「あなたには、そういう人はいるのかしら?」
アイはちらりとカズトを見遣り、頷いて答えた。
「はい」
「そう」
セシリアは、まあ、と言う顔でにこりと笑う。
「あなたさえ良ければ、スコーンの作り方を教えるわ」
「本当ですか?」
アイはひまわりのような顔になる。
「ええ。今度作ってあげるといいわ。きっと喜ぶはずよ。好きな人が作ってくれたものならなんでも」
「はい。ありがとうございます」
「それじゃ、作り方を書いたメモを渡してあげましょうね」
セシリアが言って頷くと、彼女の側使いが軽く礼をしてどこかへと向かった。おそらくは、そのメモを用意に向かったのだろう。
丁度、会話が途切れたのを見て、チコが尋ねた。
「それで、お二人はこのあと、どうされるんですか?」
ヤンはセシリアと見合って答えた。
「和平の架け橋となるつもりだよ。互いに手を取り合って」
二人は掌を重ね合わせて指を絡め合う。その様子をチコは確かめて言った。
「ということは、ご結婚なさるんですね」
ヤンとセシリアは華やいだ笑みを浮かべる。ヤンが言った。
「今度ばかりは父も認めざるを得なかったんだ。だいぶ堪えたようだからね」
「それでも父は反対したの」
セシリアは困った顔で言った。
「でも、母が説得してくれたわ。認めないなら実家に帰りますって」
彼女はクスッと笑顔をほころばせた。その瞬間の、父親の慌て振りを思い出したに違いない。
ヤンとチコは、複雑そうな顔で苦笑いを浮かべた。一方で、カズトとアイは怪訝な顔をしていた。ヤンは軽く咳払いをして言った。
「ともかく、僕たちが一緒になれば、和平の象徴になる。世論も支持してくれるだろう」
ヤンは確信を持って、表情をきゅっと引き締めた。
確かに、世論の後押しがあれば心強い。しかし、王自身が語っていたように、一度始めた戦争を終わらせるというのは、実のところかなり難しい。この戦争で、互いに失ったものは多く、また、相手に対する憎しみも大きい。それらを飲み込んで、相手を許すと言うのは口で言うのは容易いが、やるとなると困難だ。
「うまく行くでしょうか」
チコは不安を覗かせた。
「多少の抵抗はあると思うけど、必ず実現して見せるよ。そうでなければ、ここまでの苦労が水の泡になってしまうからね」
カズトが憂いを覗かせて発言する。
「あの人はどうなるんですか? たしか、ドミニクと呼ばれてましたけど」
「彼には責任を取ってもらう必要があるね。首謀者ではないにせよ、企みに荷担してはいたわけだから、無実ってわけにはいかないよ」
「それについて、トマ王国はなんと?」
チコが尋ねる。
「あずかり知らないことだ、と言っていたね。おそらく真実だろう。だいぶ狼狽した様子だったから」
ヤンはアイに目を遣って続けた。
「彼女を捕らえようとしていたことは、国として周知のことだったようだ。ただ彼らは、抑止力、としての利用を考えていたようだね」
「ということは、トーマスとは考えが異なっていた?」
ヤンは首肯する。
「彼の目的を知らされて、顔を青くしていたよ」
「彼女はこれから先、安全なんでしょうか。その……」
カズトは聞いて、言い淀む。
「他の国が、彼女を手に入れようとしないか、って?」
「はい……」
「それなら心配しなくていいよ。既に各国に書簡を送ってる。手を出さないようにってね。みんな合意してくれたよ」
「それを聞いて安心しました」
カズトはほっと胸を撫で下ろす。
「そもそも、手を出そうなんて考えないと思うよ。彼女に手を出そうものなら、手酷い反撃を受けるだろうからね。それは今度の例を見ても明らかだから」
「そうですね」
カズトが苦笑すると、アイははにかんで、なんとも言えない複雑な表情を浮かべた。
「それで、君たちはこれからどうするんだい?」
チコが答える。
「元に戻るだけです。しがないトレジャーハンターに」
ふむ、と遠くを見るような目でヤンは言う。
「僕も王子なんかやめて、世界中を飛び回ろうかな。君はどう?」
彼はセシリアに意見を求めた。
「悪くはない提案だけど、だめよ。あなたも私も、やらないといけないことがあるのだから。戦争を終わらせて、世界を平和にするという重要なことがね。それは、私たちにしか出来ないことよ」
仕方がない、という様子でヤンは肩を竦めた。
「もちろんわかってるよ。でも、ことがすんだら、遅ればせながらの新婚旅行ってことで、世界一周をしよう。それならいいだろう?」
「ええ、もちろん。それなら構わないわ」
セシリアはニコッと微笑んだ。
「その時は君達とどこかで会えるかもしれないね。もし見かけたら、遠慮なく声を掛けてくれよ」
「お邪魔にならなければいいですが」
「邪魔になんてならないよ! むしろ大歓迎さ! その時はスコーンを食べながら、面白い話でも語りあおう!」
「わかりました。その際は是非」
チコは笑って頷く。
側使いが戻ってきて、セシリアにメモを渡した。彼女はそれをアイに差し出す。
「これがレシピよ。料理はしたことがあるの?」
「はい。船では厨房で働いてます」
「そう。それなら心配ないわね」
「彼女の料理、おいしいですよ」
カズトが請け合った。
「あら、もうファンがいるのね。いつか機会があったら、是非とも食べてみたいわ」
セシリアはくすりと笑う。初めて気がついたが、小さなえくぼがチャーミングだ。もしかすると、ヤンの心を捕らえるのに一役買ったのかも知れない。
「はい。その時は、腕によりを掛けて作らせていただきます」
アイもにこりと微笑んだ。
「それではそろそろお暇しましょう」
チコが腰を上げる。カズトとアイが続く。少し遅れて、ヤンとセシリアも立ち上がった。
「まだもう少し、話がしたかったわ」
セシリアは言って、残念そうに表情を曇らせた。
「あまりわがままを言うものではないよ。彼らもまた、いかなきゃいけないところがあるんだ。だって彼らは、トレジャーハンターなんだから」
「ええ、そうね」
セシリアは言って、カズトとアイの頬に手を触れて続けた。
「元気でね。危ないことはしちゃいけないわよ。それから、体に気をつけて」
「はい。ありがとうございます」
カズトはぺこりと頷く。
続いてアイが言った。
「きっと、おいしいスコーンを作って見せます」
「ええ。あなたならきっとうまくできるでしょう」
セシリアはそこで、カズトに顔を寄せて、耳元で囁いた。
「とてもいい子ね。彼女のこと、絶対に放しちゃダメよ」
カズトは目を白黒させて、セシリアを見て、次にヤンに目を向けた。ヤンは笑いを噛み殺して、ただ肩を竦めた。
「それでは、戻ろうか」
チコはカズトとアイに言って、最後にヤンへ向かって続けた。
「和平交渉が、無事に進むことを願っています」
「必ず成功させるよ。創造主に誓って」
ヤンは頷いて答える。
チコは頷き返して手を差し出す。
「それでは」
ヤンとチコは握手を交わす。
カズトとアイは、ヤンとセシリアと抱擁し、別れの挨拶を述べた。そして三人は、王宮を後にした。
「これ、どこに置きますか?」
カズトは木箱を両手で抱えて、厨房の中を覗き込みながら聞いた。木箱にはジャガイモや人参など、様々な野菜が入っている。
「そこのテーブルの上に頼むよ」
コルネリアは振り向いて答え、濡れた手をエプロンで拭きながら奥から出てきた。
「重かったろう?」
「そうでもないですよ。このくらい」
カズトは言って胸を張り、手を叩いて埃を払う。
「それは頼もしいね」
コルネリアは朗らかに笑う。そして真面目な顔つきになって続けた。
「ところで、チコにはもう話したのかい?」
「いえ、まだです。仕事が終わったら、行ってこようって話してるんです」
「そうかい」
コルネリアは言って、厨房の方を振り向いて呼びかける。
「アイ」
奥から返事が聞こえて、アイが姿を現す。コルネリアは続けた。
「こっちはもう大丈夫だから、チコの所に行ってきな。話してくるといいよ」
するとアイは、緊張をその顔に現して、短く深呼吸をした。
カズトは少し心配になって尋ねた。
「もう少しあとにする?」
やや間が空いて、アイは微かに笑みを浮かべて首を振る。
「ううん。大丈夫。女は度胸、だもの……。そうでしょ。コルネリアさん」
コルネリアがカラカラと笑う。
「その通りだね。さすがはあたしが見込んだだけのことはあるね。大丈夫。その調子なら上手くいくよ。もしだめなときはあたしにいいな。ガツンと言ってあげるから」
「はい。ありがとうございます」
アイは破顔して続ける。
「でも大丈夫。きちんと自分の口から言います」
コルネリアは勇気づけるように大きく頷き返した。
「行こう」
カズトは手を差し出す。アイがその手を握って、二人は食堂を出て行く。コルネリアは若い二人を見送ると、さてと、と箱の中を覗いて、野菜の品評会を始めた。
ドアを開けて中に入ると、チコは椅子に腰掛けて、紙面とにらめっこをしていた。船長と言っても、ただ船の指揮だけをすればよいわけでなく、こうした事務仕事もこなさねばならない。
「少し、いいですか?」
邪魔ではなかったかと思い、カズトは恐縮した様子で尋ねた。
「ああ。構わないよ」
チコは顔を上げ、ペンを置き、小さく息をついて続けた。
「ちょうど、一息つこうと思っていたところだ。それで、用件は?」
「アイのことで話があります」
カズトは答え、振り向いてアイに頷いた。アイは短く深呼吸してから言った。
「船に残らせてください」
「船に? どうして? お前はもう自由なんだ。好きにしていいんだぞ」
「それならここにいさせてください。ここは私にとって家みたいなものだから」
「僕からもお願いします」
カズトが応援の声を上げる。
「彼女にとって、ここはかけがえのない場所なんです。それなのに、追い出したりしませんよね? それに、前に言いましたよね? 彼女は大事な仲間だって。だったらいていいですよね?」
「ふむ」
チコは腕を組み、続ける。
「確かに言ったな。しかし、仲間になるというならタダでって訳にはいかないぞ」
「働かざる者食うべからず、ですね」
「そういうことだな」
アイは思案して、のち、決意の込められた声で言った。
「それなら船が危ないときには、私が戦います」
思いも掛けない発言に、カズトは驚いた顔でアイの横顔を見つめた。
チコは顔をしかめて聞き返す。
「兵器になって戦うと?」
「はい」
チコは探るようにアイを見つめて言った。
「本気でそうしたいと思っているのか?」
「……」
アイは口を閉じて視線を落とす。
「本当は嫌なんだろう?」
「……」
「もう人を傷つけたくはない。そうだな?」
「……はい」
アイはうつむいたまま頷いた。
「なら、そんなことはしなくていい」
アイは顔を上げ、怪訝そうに目を見開いた。チコは言った。
「確かに、俺たちはお前に何度も助けられた。それは本当に助かったよ。しかし、ヤン王子が言ったように、今後お前を追う者はいないだろう。前みたいに戦いになるようなこともないはずだ。だからお前が戦う必要なんてない。それに、俺たちだって、お前にそんなことをして欲しいとは思っていないんだ」
アイは唇を噛んだ。涙が瞳に浮かぶ。チコは言葉を繋ぐ。
「そもそも、普通の女の子はな。兵器になって戦ったりはしないぞ。たいがいは、そうだな、ララとかクラーラとか、まあ、あんな感じだ。ともかく、お前には、普通の女の子でいて欲しいんだ。だからもう、兵器になって戦おうなんて考えるな。お前は今のままでいればいい」
堪えきれなくなって、涙が頬を伝って流れ落ちた。
カズトはアイの背にそっと手を添えて言った。
「でも、なにをすれば……」
「なにって、これまで通り、厨房で働けばいいだろう? そこが適任だと思うがな。それに、コルネリアも、今さらやめられたら困る、と言っていたぞ。他の連中もそうさ。アイの笑顔を見られなくなったらやる気がでなくなっちまうってな」
アイは涙を拭って言った。
「本当にそれでいいの?」
「もちろんだ。しっかりと働けよ」
「はい!」
アイは元気よく返事を返して、満面に笑みを浮かべた。
チコは船長席に腰を下ろすと、パネルを操作して聞いた。
「目的地までは?」
「一時間くらいだな。予定通りだ」
フランツが答えた。
「わかった」
チコは足を組んで真っ直ぐ前を見つめた。雲がゆっくりと流れていくのが見える。
「話はうまくいったの?」
エレオノーラが隣に並んで聞いた。
「休んでいろと言っただろう?」
チコは振り向いて、少し膨らんだ彼女の腹部を見遣り、心配そうに言った。
「まだ大丈夫よ。シャルからも、少しくらいは体を動かすようにって言われてるの。だからそんなに心配しないで」
エレオノーラは言って、恥ずかしげに苦笑する。
「両親には話したの?」
バートが椅子を回して、くるっと向きを変えて聞いた。
「いや。まだ話してない」
「早く話した方がいいんじゃないの?」
「余計なお世話だ」
チコは目を眇めてバートを見遣る。
「せっかく心配して言ってやってるのに」
バートはむすっとする。
両手を顔の前で広げ、爪の状態を確かめながらララが言った。
「とっくに気づいてるかも。ダリオはともかく、コルネリアの方は」
バートが同意する。
「よく見れば、あれっ? て思うもんね。まあ、鈍い奴は、ただ太っただけかと思うかもしれないけど」
「それは勘弁して欲しいわね」
エレオノーラは苦笑して、丸くなったお腹を撫でた。
「さっさと話した方がいいぞ」
フランツが言った。
「きっと喜ぶぞ。初孫だろう?」
それぞれの視線が、自分に向けられているのを、ぐるりと首を回して確かめて、チコは諦めて言った。
「わかったよ。今度のハントが終わったら話す」
「私も一緒の方がいいわね」
「挨拶を考えとけよ」
「それほど堅く考えなくていいんじゃない? 長いこと一緒にいるんだし」
「きっちりしたいんだ。そういうのは」
「あら、以外」
「ほっとけ。……それで、なんの話だった?」
「アイのことよ。船に残すことにしたのね」
「みんなそれを望んでいるからな。本人の希望でもあるし。……仲間なのに追い出したりしないよな、と言われたよ」
「カズトに?」
「なかなか生意気な口を聞くようになった」
「それだけ大人になったということでしょう。この子もいずれはそうなるのかしら」
エレオノーラは言って、お腹をさする。
「生意気なのは困るが、まあ、強く育ってほしいとは思うな」
チコは言ってから、ララが盗み見るように、二人の様子を窺っているのに気がついて、彼は咳払いをして言った。
「カズトにハントの準備をするよう連絡してくれ。デートは終わりだぞってな」
ララが、人のこと言える? と言うと、チコはそれを無視して、あえて偉そうな口振りで言った。
「早くしろ。命令だ」
ララは意地悪そうに笑うと、マイクに向かった。
バートやフランツの肩が小刻みに揺れていたが、チコはそれには気づいていない振りをした。
カズトとアイは舳先に立って、空の先を見つめていた。遠くに水平線が見える。それはこの世界を抱きしめるかの如く、どこまでも腕を伸ばしている。海は穏やかで、小波が日差しを受けてキラキラと輝いていた。
「空も海も、本当に広いね」
アイは手すりに掴まって、ため息交じりに言った。
「世界も同じくらいに広いよ」
カズトは手すりにぐいと身を乗り上げて、下を覗き込み、両足をぶらぶらとさせつつ、緑色の大地が機影の中に飲み込まれていくのを眺めて言った。
「いろいろ見てみたい」
カズトはストンと床に降りた。
「うん。見に行こうよ。いろんなとこ。僕が連れてってあげる。って、僕も全部行ったことがあるわけじゃないんだけどね」
カズトははにかむように苦笑する。
アイはクスリと笑う。
「カズトとだったらどこでもいいわ」
二人は見つめ合い、磁石のように引かれ合う。
すると、船内放送の声が言った。
「えー。そこの二人。船長から伝言。乳繰り合うのはその辺にして、仕事に戻れ」
ララの声がそう言った所で、その向こうで、チコの突っ込みを入れる声と、笑い声が聞こえた。ララの声はなに食わない様子で続けた。
「カズトはハントの準備をするようにって。以上」
ぷつり、とスピーカーから音がして、そこで放送は終わる。
「乳繰り合うって?」
アイが怪訝な顔で聞いた。
「えっと……」
カズトは戸惑いつつ、耳元で言った。
アイは目をぱちくりとさせた。
カズトは頭をポリポリと掻いて言った。
「行こう。みんなが待ってるよ」
「うん」
カズトはアイの手を握った。彼がぎゅっと強く力を込めると、彼女も強く握り返した。二人は甲板を走り、船内へと飛び込む。ほどなく、船は目的地へと向けて、速度を上げた。
悠久のアイ 藤吉郎 @SK5155
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