14 生誕祭
祭殿は厳粛な雰囲気に包まれていた。誰一人声を上げる者もなく、服の擦れ合う音さえ聞こえない。そんな中、ハイネ王国とトマ王国の両国王は、二人並んで祭壇の前まで歩いて行くと、二度、丁寧にお辞儀をした。彼らの背後には、各国の王が、横一列に並んで控えており、彼らはあとに従って深く頭を下げた。二王は綺麗に折り畳まれた封筒を、懐から取り出して、両手で仰ぐように持って軽く会釈をすると、丁寧に広げて紙面を取り出し、顔の前に掲げて、声を合わせて祝詞を読み上げた。
毎回、読み上げられる内容は同じだが、二国が同調し声を合わせて祝辞を述べて、それを他国の王が共に拝聴するということが、この儀式の重要なところだ。そうすることで、世界の平和と安寧を願い、その実現へと向けて共に協力し合うということを、創造主に誓うのだ。それをこうして確かめあうわけだが、このときばかりは、戦争中の二国による祝詞の読み上げであったから、他国の王たちの心境は複雑であっただろう。彼らの表情にもそれがはっきりと現れていた。
そうして祝典は滞りなく進み、なんとか無事に終わって、各国の王たちは帰途についた。各国ではその後、一週間に渡って、創造主の生誕を祝う祭などが行われる。人々も、このときばかりは普段の些末なことなど全て忘れて、皆で肩を叩き合い笑い合って、大いに楽しむのだ。
ハイネ王国とトマ王国の二王は、大役を無事に果たせたことに安堵したが、なんとも言えぬ複雑な感情のまま、互いに言葉を交わすこともなく帰国の途につこうとした。その時、祭殿の扉が開いて、若い男女が一組入ってきた。二王はその二人に驚いて、同時に声を上げた。
「お前、どうしてここに?」
「お二人にお話があって参ったのです」
男性は答え、二王の行く手を阻むように立ち塞がった。女性が寄り添うように隣に並ぶ。
「いったい、どういうことだ?」
トマ王は丸く目を見開いて、男女を交互に見遣り、最後に女性に視線をとめた。
女性は真剣な眼差しを父親に向けた。
「父上。聞いていただきたいことがあるのです」
「なにを話したいのかは知らんが……」
トマ王は、娘の視線に戸惑いながらも、王として言わねばならぬと、険しい顔つきになって言い咎めた。
「セシリア。ここはそならたらが来てよい場所ではないぞ」
「その通りだ」
ハイネ王が同意する。
「それなのに足を踏み入れるとは、それがどういうことかわかっているのか? ヤン?」
「もちろん、わかっています。裁きなら後で受けます。ただ、いまは話を聞いて頂きたいのです」
「なぜ今なのだ?」
ハイネ王は、わかりかねるというように顔をしかめた。トマ王もまた怪訝な顔つきをしている。
「お二人が顔を合わせる今をおいて、他にないのです」
両王は訝しげに顔を見合った。が、すぐに顔を逸らした。
「それです」
ヤンはすぐに指摘した。
「せっかくこうして二人揃ったのに、顔を合わせようともしない」
「当たり前だ。今は戦争中なのだ」
なにを言っている、と言う顔でハイネ王は言った。
「その通りだ。生誕祭でもなければ、顔など合わせるものか」
トマ王は言って口を尖らせる。
「まったくだ! こんな奴の顔など、見たくもないわ!」
ハイネ王は唾を飛ばした。
「私だってそうだ! そばにいると言うだけで、はらわたが煮えくり返るわ!」
「なんだと!」
そうやって互いを罵り合うが、横目に睨みつけるだけで、絶対に、真正面から顔を合わせようとはしない。
「まるで子供の喧嘩ですね」
ヤンはやれやれとため息を漏らす。
「本当です」
セシリアは同意を示し、悲しげに続けた。
「どうして私たちのように、仲良くは出来ないのでしょうか」
「私たち?」
二王は深海よりもずっと深く、疑わしさをその顔に現した。
「どういうことだ?」
ヤンが背筋を伸ばして答える。
「私たちは愛し合っています」
そしてとうとう言ってやったぞ、というように鼻腔を膨らませた。セシリアが体をピタリと寄せた。
「なに?」
トマ王は、海溝ほどにも深く眉間にしわを寄せた。そして手を左右に振って続けた。
「離れなさい」
「離れません」
セシリアは毅然とした口振りで言って、ヤンの腕に自身の腕を絡めた。
ヤンがはっきりと宣言する。
「私たちは結ばれたいと思っています。たとえどんなことがあっても」
ハイネ王は、瞼がくるんと頭を覆ってしまうのではないかと思えるほどに、大きく目を見開いた。トマ王も同様だ。ハイネ王が言った。
「そんなことは許されるはずがない。相手はトマ王国の王女なのだぞ?」
「だからなんだというのです。愛に国境はありません。母上だって、他国の出身ではありませんか」
「それはそうだが、しかし……トマ王国とは戦争をしているのだ。そこの王女など……ありえん!」
トマ王があとを継ぐ。
「そうだぞ。セシリア。そいつはハイネ王国の王子なのだ。結婚など許されん。それに、お前には釣り合わん。お前に会う男なら他にもいる。好みを言ってくれれば探させよう。どうだ?」
セシリアは毅然と頭を振る。
「いいえ、父上。彼を、ヤンをおいて他にはおりません。私に釣り合う人などこの世界のどこにも。それに、そのような言い方は失礼です。彼はとても素晴らしい人です。誰がなんと言おうと、彼以外には考えられません」
トマ王は、ほとほと困り果てた、という顔をした。一方で、ハイネ王は嬉しくもあり、少し複雑な心境だった。自分の息子を褒められたからだ。とはいえ、やはり、戦っている相手国の王女との結婚など、考えられるはずもない。彼はポリポリと頭を掻いて、説得を試みた。
「いいか、ヤン。よく考えるのだ。我々はいま戦争をしているのだ。その当事国同士の王子と王女の結婚など、ありえん話だ。仮に結婚したとして、うまく行くはずがない」
「ならば今すぐ、戦争をおやめください。戦争中でなければ、問題はないでしょう」
「なに? なにを言っている? 意味がわからん」
ハイネ王は首を振る。
トマ王が、呆れた様子で解説する。
「戦争をしているから結婚がダメだと言うなら、戦争をやめてしまえば結婚してもいいだろう、とそう言っているのだろう」
「なにをばかな……。まるで子供の理屈ではないか。よいか? 我々はもう長い間戦争を続けてきたのだ。お前達が結婚をしたいからと言って、すぐに終わらせられるわけなどない」
ハイネ王は呆れ顔で、怒りさえ込めて言った。
「なぜです? 戦争を終わらせるのがそんなに難しいですか? 互いに手を取って、戦争などやめよう、と言えばいい話ではないですか。私たちのように」
ヤンはそう言ってセシリアと手を取り合った。二王はそれを苦々しげに見て、そっぽを向いた。ヤンは続ける。
「お二人にお尋ねしますが、仮に戦争がなかったとして、私たちが結婚したいと申し出たら、お二人は反対しますか?」
二王は口をつぐんだ。仮に戦争が無かったら、反対するどころかむしろ歓迎していただろう。それほど、この結婚は良縁と言えた。ヤンはその様子を見て言い募る。
「そうですよね? 反対しませんよね。なぜならもともと両国の関係は良かったのですから……。あんなくだらない理由で戦争を始めるまでは……」
二王はドギマギとして、視線を彷徨わせた。やがて、ハイネ王は咳払いをして言った。
「仮の話はしても仕方がない。実際問題として、結婚は認められない」
「その通りだ」
トマ王が同意して頷く。
「強情ですね」
ヤンはため息を吐き出して、キリッとした顔立ちになって続けた。
「それなら仕方がありません。どうしても認められないというのなら潔く死にます。彼女と結婚できないなら、死んだ方がましです」
「私も同じです。私をここまで育ててくれた父上を、裏切るような真似はしたくはありませんが、仕方がありません。どうか、先に旅立つ不幸をお許しください」
セシリアはそう言って、ぺこりと頭を下げた。
「ちょっと待ちなさい。なにを言ってるんだ?」
トマ王が慌てて言った。
「本気でないとお思いですか?」
セシリアは言って、隠しておいた短剣を鞘から抜いた。同様に、ヤンも短剣を手に握る。二人はその短剣の切っ先を、互いの喉元に向けた。
「戦争をやめないというなら、今この場で死にます」
ヤンが鋭い声で言った。
「待て待て、待ちなさい!」
二王は裏返った声を上げ、驚いて駆け寄ろうとしたが、若い二人が、互いの喉を突き刺しそうな素振りを見せたので、急ぎ立ち止まった。
「話をしよう。だからそれを降ろしなさい。よいな?」
トマ王が、ゆっくりとした口振りで言った。
「戦争終結へと向けた話し合いをしていただけると、約束していただけますか?」
セシリアは、良く通るはっきりとした口調で問いかけた。
「とにかく、それを降ろすのだ。でなければ話は出来ん」
ハイネ王が言った。
「答えてはいただけないのですね。であれば……」
ヤンは悲しげな顔つきで、短剣を握る手に力を込め、その場所に狙いを定めて腕を引いた。セシリアも続く。
「ま、待てっ! 待つのだっ!」
もはや猶予はなしと、二王が駆け寄ろうとしたそのとき、遠くから大きな爆発音が聞こえた。二王はなに事かと立ち止まり、若者二人は驚いて、音のした方を振り向いた。
ほどなくして、祭殿の扉が勢いよく開いて、警備の兵士が転がり込んできた。
「大変で……」
兵士は言いかけて、ただならぬ雰囲気に、あんぐりと口を開けたまま立ち止まった。彼は状況が飲み込めないようで、二王と若者二人を交互に見つめた。やがて、じれたハイネ王ががなるように言った。
「なんだ? 早く言わんか!」
「えっ!? あっ、はいっ!」
兵士は姿勢を正して続けた。
「聖地の境界線上で、ハイネ王国の軍と、トマ王国の軍との間で戦闘になっております!」
「なに? どういうことだ?」
ハイネ王とトマ王が同時に言って、睨むような目を兵士に向けた。彼は顔をしかめて立ち尽くす。末端の、一介の兵士に過ぎない彼に、事態の詳細などわかるはずもない。
そこに、扉が開いて男性が二人入ってきた。
「私からご説明しましょう」
壮年の男が言った。若者は彼の後ろに控えて立っている。
「モーリス! なぜここにいる?」
トマ王は驚きの声を上げた。
モーリスは目を細めてヤンを見遣り答えた。
「ある情報を得ましたので、急ぎ参上した次第です」
「ある情報?」
トマ王は怪訝そうに顔をしかめた。ドミニクが兵士を外に追いやり扉を閉める。トマ王は尋ねた。
「その情報とはなんだ?」
モーリスはハイネ王に目を向けて答えた。
「ハイネ王国が、生誕祭のこの機に乗じて、陛下を亡き者にしようと部隊を派遣するとの情報を得たのです」
「なに!?」
トマ王はカッと目を見開いた。
「ばかな! そんなことがあるわけがない!」
ハイネ王もまた、ぐわっと目を見開いた。
「しかし現に、ハイネ王国の軍が聖地に侵入しようとしています。幸いなことに、我が軍がそれを阻止すべく戦っておりますが……。陛下をお守りするために、軍を派遣して正解でした」
「そんなことがあるはずがない! 私はなにも聞いておらんぞ!」
ハイネ王は怒鳴るように言った。
「当然です。秘密裏に行われたことなのですから」
ハイネ王はぽかんと口を開けた。その様子を横目に見遣り、トマ王が聞いた。
「いったい誰が、そんな大それたこと考えたというのだ?」
モーリスはハイネ王を見遣り、ヤンを指さした。
「彼です。あなたの国の王子ですよ」
ハイネ王は、錆び付いたネジのように首を回して、我が息子を見つめた。彼の息子は無表情で、そこに立っている。
「……ばかな……。そんなことがあるはずがない」
ハイネ王はなんとか声を絞り出した。
「ご存じでしたか? 彼はレジスタンスなのですよ」
ハイネ王は呆けたような表情を浮かべた。
「まさか……そんなことが……信じられん。……本当なのか?」
彼は年老いた老人のように、よろよろと数歩、息子の方に歩を進めた。
「父上……」
ヤンは苦しげな顔つきで呼びかけて、一歩を踏み出し、続けて言った。
「レジスタンスと言うのは本当です。隠していたことは申し訳ありません。ですが、トマ王を亡き者にしようなどと言うのは根も葉もない作り話です。荒唐無稽もいいところです」
「では外の騒ぎはどう説明するのだ?」
ヤンはトーマスを指さす。
「それこそ彼の仕業でしょう。むしろ彼こそが、父上を亡き者にしようと企んだに違いありません。そう考えれば、この状況も、彼がここへやってきた理由も説明がつきます」
トマ王が発言する。
「つまり、彼がこの混乱を引き起こし、その機に乗じてハイネ王を殺そうとしていると?」
「はい。仮に私があなたを亡き者にしようとしているのなら、わざわざあんな話しをしたりはしませんし、彼女をそんな危険に巻き込むようなことはしません」
二王は思考を巡らせた。そしてゆっくりと、その視線をトーマスへと向けた。彼らの目には疑念の色が浮かび始めていた。
「トーマス。本当なのか?」
トマ王は不安顔で聞いた。
トーマスは目を閉じて長々と息を吐き出すと、やがて声を張り上げて配下の名を呼んだ。
「ドミニク!」
彼は銃を二丁取り出して、二王に向けた。
「なんだ?」
トマ王は惚けた声を出した。
トーマスは面々を眺めて言った。
「確かに彼の言うとおり、これを仕組んだのは私だ」
「どういうことだ?」
「あなた方お二人にはここで死んでもらう」
「なにを言ってる?」
トマ王は目をぱちくりとさせた。
「あなた方がいなくなれば戦争は終わる。そうだろう?」
「なにを馬鹿な!」
「話し合うつもりがないのなら、殺すしかない」
「ふざけるな!」
「ふざけているのはお前達だ!」
トーマスは怒鳴り声を上げた。あまりの大きな声に、両王はピクリと身を固くした。彼は続けた。
「お前らがこの馬鹿げた戦争を始めたんだ! くだらない理由でな! そのせいでどれだけの人間が犠牲になったか、わかっているのか!」
トーマスは息を深く吸い込んで、吠えるように続けた。
「お前らのせいで、私の妻と息子も死んだのだ。決して許すことなど出来ん!」
二王はあんぐりと口を開け放ったまま、やはり目も丸く見開いて呆然と立ち尽くしていた。そうして、誰もが唖然として口を閉ざす中、落ち着き払った様子でヤンが口を開いた。
「本音が出たな」
彼は視線をトーマスに向けて続けた。
「全ては恨みを晴らすため、だったんだな?」
トーマスは睨むようにヤンを見据えた。
「私だけではない。彼らを恨む者は多いだろう」
「確かに彼らに責任はある。だが、憎むべきは戦争という行為そのものであって、彼らではない」
「それは詭弁というものだな」
トーマスは苦笑を浮かべ、続けた。
「戦争を始めるのは人だ。そしてその戦争で人を殺すのもまた人だ。憎むのは当然だろう」
「憎しみを晴らしてそれでどうなる?」
「少なくとも気は晴れる。この馬鹿どもの顔を見なくて良くなるのだからな」
「それで王を殺して、そのあとはどうする?」
「報復と称して、ハイネ王国に侵攻しこれを滅ぼす。もちろん恨みもあるが、禍根を断つためにも必要だろう」
「そんな馬鹿なことが出来ると思っているのか?」
「もちろん我が軍だけでそれを成すのは難しいだろう。だがあの娘がいればそれも可能だ」
「なるほど、それであの子を手に入れようとした訳か。しかし、彼女を手に入れることなど出来ないだろう」
「手に入れるさ。必ずな」
トーマスはそう言って、自信を覗かせた。
トーマスは右手を後ろに差し向けて言った。
「ドミニク!」
するとドミニクが拳銃を手渡して、トーマスは銃をトマ王に向けた。ドミニクはハイネ王に銃口を向ける。
「外もそろそろ落ち着いた頃だ。勘ぐられる前にことを済ませてしまおう」
「トーマス! 自分が何をしているのかわかっているのか? これは反逆だぞ!」
トマ王が叫んだ。
「わかっておりますよ。しかし、愚かな王から国を取り戻すには、こうするよりないのです。国民も賛同してくれるでしょう」
トーマスは狙いを定める。二王は奥歯を噛みしめて、覚悟を決めるより他なかった。
その時だ。窓ガラスが割れる大きな音がして、振り向くと、翼を生やした少女が砕けたガラス片の上に立っていた。丁度、午後の日差しが差し込んで、日を背中に受けたその姿は、後光に包まれた天使のようにも見た。
「おお」
トーマスが感嘆の声を上げた。彼は目を煌めかせた。
「ようやく会えたな」
彼の背後では、ドミニクが驚いた顔をしている。彼も彼女の姿を見るのは始めてだ。
「もうやめて。その人達を傷つけないで」
翼がシュッと萎んで、アイが言った。
「ならば私と来い。そうすれば今は見逃してやってもよい」
「嫌よ」
アイは鋭く言って、頭を振る。
「あなたの言うことなんか信じない」
トーマスは苦笑いを浮かべる。
「それならどうするというのだね?」
「あなたをとめるわ」
「とめる? 私を?」
トーマスは驚いたように目を見開いた。
「ええ。私の力は知ってるはずよ」
「もちろん知ってるとも。だからこそ欲しいのだ。しかし、どうするね? 私を殺すかね?」
トーマスは両手を広げ、抵抗しないことを示して続けた。
「既に何人かは殺しているのだ。私一人増えたところでどうと言うこともないだろう。さあ、殺すがいい。迷う必要はないぞ」
アイは躊躇を見せた。殺している、というが、それは危機を回避するために、否応なくやってしまったことだ。意識的に行うのとは違う。だから戸惑うのも当然だ。
トーマスはにやりと笑い、言った。
「出来ないのなら黙ってみておれ!」
彼は銃をトマ王に向けた。ハイネ王が悲鳴のような声を上げた。
そこに、扉が勢いよく開いて、鋭い声が飛び込んできた。
「やめろ!」
ドミニクが素早く振り向いて、銃を向ける。
「これはこれは……」
トーマスは感動すら込めて言った。彼はカズトの背後に目を向けて続けた。
「会えて嬉しいよ。チコ船長」
「俺は会いたくなかったけどね」
チコは銃を向けつつ、素早く状況を確かめて続けた。
「暫く現場を離れていたようだが、どこに行ってた?」
「本国に呼び出されてね。任務から外されてしまったのだ」
「にもかかわらずわざわざこんな所まで? そのまま大人しくしていれば良かったのに」
「そうもしてはいられん。私にはやらねばならんことがあるのだ」
「それがこれか?」
チコはステージ上の役者達を眺めて言った。
「アイに何をさせるつもりだ!」
カズトが声を張り上げる。
トーマスは、嫌な物でも見るような目でカズトを見つめ、ほどなく、怒りをその顔に現した。
「そうか。お前が報告にあった子供か。娘と行動を共にしていたという……」
彼は向き直り、じりっと足を踏み出した。
「まずはお前を殺してやろう」
「やめて!」
アイが、キンとした声を上げた。トーマスの足が止まる。振り向くと、機関銃に変化した腕を彼に向けていた。
「おおっ!」
トーマスは満面に笑みを浮かべて、歓喜の声を上げ、アイの姿を羨望の眼差しで見つめた。
「素晴らしい! それこそが私の求めていたものだ!」
彼は拳を握り、それを振り回して興奮気味に続けた。
「是が非でも欲しい!」
トーマスは、今度はアイの方へと足を向けた。
「来ないで!」
トーマスは立ち止まり、アイの様子をじっと窺ってから、銃口をカズトに向けた。
「私と一緒に来ればこいつは助けてやろう。どうだね?」
「だめだ! 言うことを聞いちゃいけない!」
カズトが叫ぶと同時に、銃弾が発射された。それは彼の頬に一筋の赤い線を残して、奥の壁にめり込んだ。
「こいつのことが大事なのだろう? いいのか? 次は外さんぞ」
アイは目を伏せて逡巡を見せたのち、顔を上げてカズトを見つめた。カズトはその視線を見つめ返して、表情を引き締めて頷く。アイは頷き返すと強い口調で言った。
「銃を降ろして。でなければあなたを撃つわ」
「出来るのか? 先ほどはためらっていたものを……」
「出来るわ。見くびらないで」
トーマスは、アイの、毅然とした表情を観察してやがて言った。
「そうか」
彼は銃口をトマ王に向けた。
「まずはこいつらが先だ」
二王はギョッとして、身をすくませた。互いに手を伸ばして、相手の袖を引っ張り合っている。
「やめろ!」
カズトは叫んで飛び出した。トーマスが振り向いて銃を彼に向ける。それに連動して、ドミニクも銃口を向けた。
チコはハッとして駆け出した。同時に発砲音が響き渡る。ドサリ、と重たいものが倒れる音がして、一発の銃声がそれに続いた。その音の方に目を向けると、チコがドミニクの手首を掴んで、背伸びでもするように、腕を高く突き上げていた。その先端の、銃口からは煙が立ち上り、天井には小さな穴が開いていた。
カズトは振り向いて、うつ伏せに横たわる男の背中を見下ろして、次いで、アイへと目を向けた。彼女は腕を真っ直ぐ前へと突き出したまま、悲しげに、そして、どうしようもないと言う顔で立ち尽くしていた。彼は彼女に駆け寄って、彼女のその腕にそっと触れた。すると、彼女の腕は、風船が萎むように元の形に戻った。彼は彼女の両肩をぎゅっと握って、その瞳を見つめてから、優しく微笑むと、引き寄せて強く抱きしめた。
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