第十二話 綾女楽

 SDJO養成所の本棟は六階建て。一階には玄関と受付ロビー、二階は各学年の教室、三階に教員室という名のティラノ先生専用の部屋があり、四階には図書館、五階がディメンションルームで六階は基本的に生徒は立ち入り禁止の研究施設。数人の研究員が出入りしている。


 本棟五階のディメンションルームで、円椛は仮想世界での訓練のために準備をしていた。仮想世界はSDJOが人間の精神世界を模倣し、人工的に作り出した世界であり、デバッカーの訓練に用いられている。


 ディメンションルームと呼ばれる仮想世界に入るための機械がある部屋で、椅子のような機械に座り、椅子の手置きに設置された機械にリンクをはめた手をおいて、ワイヤレスイヤホンのような機械を耳にはめると、仮想世界に入ることが出来る。


 仮想世界ではSDJOがバグを模倣して人工的に作り出した訓練ようの敵、仮想敵を使っての訓練を行うことが出来る。デバッカーがこれまで遭遇したバグの記憶をもとに作り出された仮想敵はそれぞれレベルを設定することができ、1~5までのレベルが存在した。円椛はやってみたいことを試すために、レベル1の仮想敵を出現させていた。


「現実世界ではできないことも、精神世界ではできる。なぜなら、精神世界を作り出すのはその人の想像力だから」


 円椛は昨日、訓練が終わった後、夢羽に聞いたことを思い出した。


「やろうと思えばなんでもできるの。でも、じゃあ空を飛んだり、人間を作り出したりできるかと言われれば、それはできない。なぜなら、その人の中で『ありえない』『絶対にできない』と思っていることはできないから。たとえ『精神世界ではなんでもできる‼』とわかっていても、無意識で『そんなことできないだろう』と思っている自分がどこかにいる。だからできない。想像力が伴わない。それは、人間の理性、と言われるもの」


 その言葉を聞いて、円椛はティラノ先生が「Evaの能力はリミッター解除。人の理性をぶち壊すことに近しい」と言っていたのを思い出した。


「でも、やろうと思えばなんでもできるのに変わりはない。現に私は目が見えるようになっているんだから。できるようになりたいという強い意志と、それを補う想像力さえあればなんだってできるよ」


 夢羽の話を聞いてから、円椛は考えていた。Evaの能力は触れた人の能力の強化。だが、その能力の扱いは難しい。その人にずっと触れた状態でいるというのは戦闘状態において困難を極める。それこそ、十彩や眞音にずっと抱えられたまま戦うほかない。ではEvaの能力を使わないで戦うというのも、もったいない。


 なんとかしてEvaの能力の発生条件を簡単にし、さらにはその人に悪影響が及ばない程度のリミッター解除を行うことはできないだろうか。


「Evaの能力を制御するのはまだ難しいから、誰かで試すわけにはいかない。だったら、自分で試す」


 目の前で出現するバグに円椛は剣をかまえた。


「触れた人の能力を強化するなら、私自身を強化することもできるはず」


 では、発生条件に該当しない円椛の能力を強化するためにはどうすればいいのか?


「……Eva」


「縺ェ縺ォ?」


 頭の中でEvaの声が聞こえた。呼びかければ応えてくれる。それならば、Evaに直接、力を貸してくれるように頼むのが一番だ。


「力を貸してほしいの」


「驕翫s縺ァ縺上l繧具シ」


 Evaは円椛の言っている意味を理解できていない。意思疎通が難しい。なんと言えば理解してくれるだろう?


 小さい子にものを教えるとき、親は自分がそれをやるところを子供に見せ、この動作がなにを意味するのか、なんと言われるものなのかを教える。名前を教えるためにはなんども子供の名前を呼ぶことで覚えさせ、自分のことを示しながら自分の呼び方を教える。


 Evaは自分の名前と円椛の名前、そして名前という言葉がなにを意味するのかを理解できている。そいうことは、教えれば理解してくれる。やって見せればいいのだ。


「じゃあ、そこで見ていて」


 円椛はそう言うと、出現した仮想敵に向かっていった。素早く仮想敵に迫っていくと、剣を振りかぶり、仮想敵を一刀両断にする。敵意を察知した周囲の仮想敵が動き出し、円椛に向かってきたが、円椛は冷静にそれを切り倒した。


「……どう? これをもっとこう……早く? 簡単にできるようにEvaなら出来るはずなんだけど……」


「縺ェ縺ォ縺昴l縺翫b縺励m縺」


「う~ん……意思疎通難しいな……」


 円椛がそう言いながら一歩踏み出した瞬間、円椛の身体が空高くに飛び上がった。


「……え?」


 状況が上手く呑み込めない。一歩踏み出しただけで、片足で飛びあがった? 


「ちょっとやりすぎ……‼」


 円椛が慌てて空中で体勢を整える。身体は羽のように軽く、思い通りに動いた。動きすぎなぐらいに。


「でも……いい感じ!」


 円椛の身体が落下する。それに合わせて円椛は身体をねじり、剣を振りかぶると、眼下にいた仮想的達に向かって振り下ろした。剣が振られた勢いで衝撃波が発生し、その衝撃波は眼下にいた広範囲の仮想敵たちを切り刻み、さらには地面を抉って大きな亀裂を作り上げた。


 ほとんどの仮想敵が消滅した地面に着地した円椛は、地面に出来上がった大きな亀裂を見て「うわぁ……」と思わず情けない声を出す。


「やっぱり制御できないと危ない———」


 その時、頭を直接殴られたような痛みが生じ、円椛が小さく声をあげながらその場にうずくまる。まるで身体の内側から焼き切れそうな痛みが襲い、円椛はうめき声をあげながら自分の手を見てギョッとした。


 先ほどまで左側だけが真っ白だったはずの円椛の肌は、いまは右手も白くなろうとしている。髪の色も徐々に白く染まり、半分以上が白く染まっていた。


「……なに……これ……Evaの能力を使ったから……?」


「讌ス縺励>まどか」


 Evaの声がすぐそばで聞こえる。それは円椛の口から発せられているような近さだった。円椛はゾッとする。まるで、Evaに身体を乗っ取られているような———。


 その時、ズシンと大きな音がして、円椛が顔をあげる。仮想世界に、大きな仮想敵が出現していた。


「……え……?」


 その仮想敵は、円椛が十彩と眞音とともに初めて実習訓練に行った際に出現した巨大なバグだった。ドレスを着て、頭に冠をつけた女王のような姿をした巨大なバグ。そのバグは、レベル4の仮想敵に匹敵するはずだ。


「なんで……⁈」


 仮想敵は巨大な手を振り上げて、円椛を叩き潰そうとしている。円椛は咄嗟にそれを避けたが、軽すぎる身体は円椛が思ったよりも遠くに吹っ飛び、うまく着地することができない。そして、動いたその瞬間に、頭に痛みが生じた。


「っ……‼ Evaやめて……‼ お願い……」


「雖鯉シ」


 次の瞬間、円椛は自分の身体を支えることが出来ず、その場に膝をついた。身体が先ほどまでとは比べ物にならないほどに重たく、まったく言うことを聞かない。右手の色や髪の色は正常に戻ったが、身体がピクリとも動かなかった。


 円椛の目の前には仮想敵の巨大な手が迫ってきている。円椛が青冷めた。


 次の瞬間、突如現れた誰かが円椛を抱き上げ、巨大な手を避けた。そしてその人物の腕から鎖が飛び出したかと思うと、仮想敵の顔面を貫き、穴をあける。


 円椛を助けたのは、見慣れない男子だった。


 黒いベルトが二本、腕に巻き付いた黒いコートを身に着け、顔にガスマスクをつけていて顔は見えない。紫色のアシンメトリーショートの髪は左側が少し長めで、左目にかかっている。コートと同じようにベルトが巻き付いたロングブーツを履いており、身長がとても高い。コートの袖から覗く手首には黒い金属製の腕輪が嵌められており、四本ほどの黒い鎖がついていた。


 その男子は円椛を持ち上げたまま腕を振り、仮想敵から鎖を引き抜く。その勢いで、鎖が仮想敵の顔面を抉って消し去った。そのまま男子は円椛を抱き上げたまま飛び上がり、仮想敵の頭上にいくと、腕を振って鎖を引き寄せ、仮想敵を上から鎖で叩きつけて消し飛ばした。


    ◇


 円椛はディメンションルームで目を覚ました。椅子型の機械に座った状態で、リンクだけが指から外され、近くに置かれている。周りを見ても誰もおらず、円椛は倦怠感を覚えながら立ち上がった。


 助けてくれた男子はまったく身に覚えがないが、いったい誰だったのだろう。


 その後、仕事から戻ってきたティラノ先生がなぜか円椛がEvaの能力を使用したことを知っており、「俺がいないときに使っちゃダメ!」とこっぴどく叱られた。


    ◇


 職員室の扉の前に、一人の男子生徒が立っている。SDJO養成所の制服を着ており、ズボンとブレザーの襟は紫とグレーのチェック模様。ブレザーの下に黒いパーカーを着ており、フードを深くかぶって黒いマスクをつけているせいで顔は全く見えない。


 男子生徒は職員室の扉を数回、軽くノックしたが、返事はなかった。


らく~!」


 聞こえてきた声に、楽と呼ばれた男子生徒が振り返る。ピンク色のティラノサウルスの着ぐるみを着たティラノ先生が、小走りで走ってきた。


「ごめん! ごめん! 円椛のこと怒ってて遅れた! 中、入ろう」


 ティラノ先生が職員室の扉を開ける。楽はなにもいわずに汚い職員室に入った。


「さて、まずは実習訓練お疲れ様。帰ってきて早々に新入りちゃんのお目付け役頼んでごめんね」


 ティラノ先生がたいして悪びれていない様子でそう言った。


「でも、助かったよ。楽がいなかったら円椛がどうなってたかわからない」


 楽がとても小さい声でなにかを言った。声が小さすぎてなんて言っているかわからない。


「『研究員がディメンションルームに入ってレベルの高い仮想敵を出現させていてから、研究員にも注意した方がいい』? わかってるよ。わかっていたから楽に頼んだんだ」


 楽の声はとても小さいにも関わらず、ティラノ先生は聞きとれている様子だ。


「本部の奴らは早く円椛を殺してしまいたいんだよ。そうすれば、円椛は完全に空っぽのEvaのbodyになるんだから。その方が都合がいいんだろうねぇ。Evaにものを教えてほしくない。Evaは無知であるからあの能力を使えるのだから」


 また、楽がなにごとかを言った。


「『一年生の二人には荷が重い』? そうだねぇ。でも俺もずっと付きっ切りでいられるわけじゃないし、楽だって忙しい」


 楽がなにかを言う。


「『自分はべつにかまわない』? 『あの二人に荷が重いなら自分が担当する』? 楽は優しいね。でもダメだ。円椛は守られるだけじゃダメなんだよ。自分で自分を守れるようにならなきゃ。そして、Evaを救ってあげなきゃ」


 楽が黙り込む。


「まあ、でもこれからも目にかけといてあげてよ。綾女楽あやめらく先輩」


 ティラノ先生が短い手を伸ばし、楽の頭を撫でた。

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