第七話 ただの女の子
二人に連れられて円椛がやってきた教員室は、狭い部屋の中にところ狭しと並べられた本棚に収まり切れない本の山が、足の踏み場もないほどに散乱している、だらしない研究家の書斎のような部屋だった。掃除があまりされていないのか、空気中に埃が漂っている。散乱している本はどれも難しそうなタイトルで、タイトルだけで頭が痛くなりそうだ。
そんな汚い部屋に置かれた、ソファーの上に、ピンク色のティラノサウルスの着ぐるみは座っていた。
「制服似合ってるじゃん! やっぱり可愛い女の子が着ると違うねぇ!」
「……」
「セクハラですよ、ティラノ先生」
「先輩方に怒られても知らないからねぇ?」
「え、チクらないよね?」
教師というにはあまりにも緊張感のないティラノ先生と、部屋の濁った空気に円椛がここにきて何度目かわからないため息をつく。
「ていうか、呼び出すならもうちょっと部屋を綺麗にしてください。いくら教員室を使うのがティラノ先生だけだからって、ここまで汚くしていいわけないでしょう」
「僕たちだけならまだしも、女の子呼び出してるんだから、もっとかっこつけようとか思わないのぉ?」
「うるせー。ませたガキ共め。一回り以上違う女子に色目使おうとか思いませんー」
「え、ティラノ先生って何歳ですか?」
円椛たちと一回り以上違うということは三十代、またはそれ以上? そうは思えないほど若々しい声色と、着ぐるみを着れるぐらいの低身長だ。
「ないしょ。秘密が多い男ってミステリアスでいいでしょ?」
「……はあ」
「で、ご用件は? できるだけ手短にお願いしたいんですけど」
「なんかさあ、眞音、俺にだけ冷た過ぎない? まあ、いいけどー」
円椛は眞音が小さくため息をついたのを聞き逃さなかった。
「今日はねー、というか今日もなんだけど、実習訓練に行ってほしいんだよね」
「またあ? 昨日も行ったよぉ? 僕たち」
「まあまあ、そう言わずにさあ。SDJOの万年人手不足はもう身に染みてるでしょ。はい! ということで、今回ももれなくSDJO管轄の精神病院に行ってきて、患者さんのデバックをしてきてくださーい」
眞音と十彩はやれやれというような表情をしているが、円椛はその会話にまったくついていけない。その様子を察したのか、ティラノ先生が説明を始めてくれた。
「SDJO養成所の実習訓練は、その名の通り実戦としてバグと戦う訓練のことだよ。この前説明した通り、バグは歪んでいると考えられる思考や選択が精神世界で具現化されたもののこと。つまり、そういう負の感情、みたいなものが集まりやすいところで発生しやすい。具体的に言うと、学校や病院はバグの発生場所として、とても適当なところだね。学校でのいじめ、病院の患者の暴走とかは、バグに乗っ取られた人たちの、タガが外れた行動ってわけ。そして、この日本で現在問題視されている鬱病なんかも、バグに乗っ取られた人たちのタガが外れた行動の一種だよ」
「鬱病……ですか」
「この前も言ったけどね、バグはうつるんだ。バグをうつされ、そのバグに乗っ取られた人たちがする行動はおもに二つ。一つはうつした人に便乗し、自らがバグを振りまく存在になる。もう一つは、バグに耐え切れず、破壊行為……自らの人間的な生活の放棄や、酷くなれば自殺。それが、おもに鬱病と呼ばれる心の病気。SDJOは、精神病院を立てて鬱病患者などのバグに乗っ取られた人たちを集めてデバックをしたり、カウンセリングしてバグそのものの根絶をしているけど、全然人手が足りない。なんてったって、日本は鬱病大国なんだから」
「う、鬱病大国……」
「まったくもって不名誉な称号だね。患者やバグを振りまく人たちをデバックするデバッカーはもう、本当に足りてないんだよ。バグは根源を絶たないと、次から次へと現れる。そこで、SDJO養成所の生徒にも、実習訓練として、任務が回ってくるってわけ。今回は三人でSDJO管轄の精神病院に行って、鬱病患者さんのデバックをしてきてほしい」
「反対です」
室内に、眞音の冷たい声が響いた。十彩はきょとんとしているが、眞音は険しい表情でティラノ先生を見つめている。
「……ほお。なぜ?」
「なぜはこっちのセリフです。なぜ、三人なんですか?」
「嫌だなあ。君たちは三人、SDJO養成所支部の一年生じゃないか。仲良くしてよ」
「まだ来たばかりの円椛に実習訓練をさせる意図を教えてください」
「……なるほど。さすが、眞音。頭がいいね」
「デバッカーとしての知識もなにもなく、まだこの環境に動揺している円椛に実習訓練はあまりにも酷です。行くなら、俺と十彩で事足りる」
「それがそうもいかんのだよ」
ティラノ先生と眞音の険悪な雰囲気に円椛がおろおろしていると、十彩が円椛の肩に手を置いて「だいじょーぶ」と優しく声をかけた。
「眞音は優しいからねえ」
「な、なんか、私のことでもめてる……?」
「まあ、見てて。僕たちはどうしようもないから」
十彩が平然と言ってのける。険しい表情の眞音に対して、ティラノ先生は気の抜けた声で続けた。
「上の人たちがねぇ、うるさいんだよ。円椛の中にいるEvaの能力を早く突き止めろって」
「だからって……」
「大丈夫だよ。円椛に聞いた話だと、Evaに円椛に対する敵意はない。円椛に危険が迫ったら、円椛を助けるために能力を使うだろう」
「憶測でしかないじゃないですか」
「Evaの能力がわからないままのほうが円椛にとって危険だ。いつ暴走するかわからないんだよ? 無知であることはあまりにも危険すぎる。Evaの能力を理解するためには、仮想兵器の敵であるバグとの接触と、円椛に危険が迫っているとEvaに認識させるのが一番だ」
「Evaの能力、云々かんぬんじゃなくて、デバッカーの知識が無い人が他人の精神世界に入ることが危険だって言ってるんですよ。精神世界はその人の意識の具現化。すべての意識。精神体はその人そのもの。鬱病患者の精神世界は、とうてい一般人に耐えうるものではないと、先生だって理解しているはずだ。バグだって、一般人では耐えることが出来ないからデバッカーがいる」
「わかってよ、眞音。円椛だって、デバッカーにならなきゃいけないんだ。Evaの器なんだから。早かれ遅かれわからなきゃならない。円椛はもう一般人じゃないんだよ。Evaの器に選ばれてしまったその時からね。円椛はすでに俺の提案を承諾してる。他人にとやかく言われる筋合いはないよ。それに、Evaの器に選ばれるような子だ。並大抵の女の子じゃない」
「円椛はただの女の子だ」
言い切った眞音に、ティラノ先生の空気感が変わった気がした。着ぐるみでは、表情を読むことはできないが。
「……なるほどねえ。情が湧いたか。そりゃそうだ。眞音は円椛の精神世界に一度入ってるから、円椛のこと、よくわかってるよねぇ……」
「え?」
円椛が思わず声をあげ、眞音は気まずそうに、円椛の視線を避けようとしたのか、身に着けているパーカーの猫耳フードを被った。
「不可抗力だから怒らないであげてね、円椛。円椛がEvaの器に選ばれたあの日、眞音と十彩は実習訓練として、円椛の高校に潜入してたの。そこで二人と円椛が出会ったんだけど、眞音は円椛の精神体がバグに乗っ取られようとしてたから、円椛の精神世界に入ってるんだよね。精神世界は眞音のいう通り、その人の意識の具現化。すべての意識を司る無意識領域。つまり、精神世界に入ったら、その人のこと、大体まるわかりー」
「……つまり?」
「眞音は、円椛のことを大体なんでも知ってる。円椛の過去とか秘密とか。まあ、君たちぐらいの年頃の若者が知られたくない秘密は大体わかっちゃったんじゃない? 好きな人だとかその他諸々……」
ティラノ先生の言葉を聞いて、円椛は眞音が気まずそうにしている理由をようやく理解した。簡単に言うならば、眞音は円椛の心を覗き見たようなものなのだ。円椛が話さずとも、祖母のことや両親のことなども知っているのだろう。
「だから情が湧いたんでしょー。青いねぇ。さすが若者だわ。でもそれはそれ、これはこれ! これは教師である俺の絶対命令‼ 円椛と眞音と十彩、三人で実習訓練に行くこと! 俺も上には逆らえないってね。情が湧いたんなら死ぬ気で守ってあげたらいいよ。それにね、円椛は本当に並大抵の女の子じゃないよ。俺が保証する」
「……わかり……ました」
眞音が渋々と言った様子で呟く。
「よし! じゃあ、円椛。君にこれをあげよう」
ティラノ先生が近くの棚の引き出しを漁り始め、しばらく「あれ? どこいった?」と呟きながら引き出しを漁り、ようやく何かを見つけたのか引き出しから小さいものを取り出して、円椛に差し出した。円椛がそれを受け取ると、それは小さな指輪のようなものだった。小さな青い石が付いている。
「それは精神接続器『リンク』。人間同士の精神を接続し、デバッカーの精神をバグに侵された人の精神世界と接続するための機械。小指につけて対象に触れるだけでその人の精神世界に入ることができるよ。貴重なものだからなくさないでね~」
そんな貴重なものを乱雑に引き出しの中に入れていたのか……と円椛は思ったが、なにも言わなかった。渡されたリンクを小指にはめるとサイズはぴったりで、青い石が淡い光を放ち始めた。
「通常生活では外しときなね。触った人全員の精神世界に飛ばされるの、嫌でしょ」
「それは……嫌ですね」
円椛が大人しくリンクを外す。外すとリンクの青い光は消えた。
「さあ、俺の可愛い生徒たち。実習訓練、いっておいでー。まあ、十彩と眞音がいれば大丈夫だろうから、円椛もそんなに心配しないで大丈夫だよー」
ティラノ先生に送り出され、三人は部屋から出る。
「人使い荒いよねぇ」
「どっちが?」
「SDJOもティラノ先生も! 実習訓練と称して任務に駆り出さないでほしいなぁ」
十彩が不満げに文句を言う。円椛は部屋から出てもなお、フードを外そうとしない眞音に気が付き、声をかけた。
「あの……眞音?」
眞音が円椛の声に立ち止まる。急に立ち止まった眞音の背中に、円椛が顔からぶつかり小さく声をあげた。二人が立ち止まったことに気が付いた十彩が、少し離れたところから「なにしてんのぉ?」と声をかける。
「眞音……?」
円椛が顔を覗き込もうとしたが、眞音はかたくなに顔を見せようとしない。
「……べつに気にしてない。隠すようなこともないし、バレて困ることも特にないから」
「……そういうことじゃないんだよなぁ……」
「え?」
眞音が呟いた言葉は円椛の耳には届かず、眞音は小さくため息をつき、フードを取って円椛と目を合わせた。
「円椛は見てて心配になる」
「どういう意味?」
答える代わりに、眞音は円椛の頭を数回軽く叩いて歩き出した。円椛はしばらく歩いて行ってしまった眞音の背中を見つめていたが、我に返って眞音のことを追いかける。待っていてくれた十彩が円椛に声をかけた。
「素直じゃないよねぇ。照れ隠しかなぁ」
「……なんか、私、子供扱いされた?」
「眞音は僕に対してもあんな感じだよぉ。年の離れた弟がいるから、おんなじように扱っちゃうんだろうねぇ」
「……結局、眞音のことはよくわからない」
「眞音は円椛のこと、よくわかってるんだろうけどねぇ。ずるいなぁ、二人だけ。僕も円椛の精神世界、入ればよかったなぁ」
「やめてよ……入ってもいいことないよ」
「まあ、とりあえず実習訓練行こうか」
円椛と十彩は眞音を追いかけて歩き出した。
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